やはりというべきか、璃空と歩くとあっという間に家まで着いた。
懐かしい俺の実家。と言っても年末も帰ってきているから、そんなに時間は経っていないのだが。月日を見たら8か月くらいなのに、随分と久々な気がするから不思議だ。
門の前で立ち止まって振り返る。
璃空も同じように足を止めていた。
いつも何て言って別れてたっけ。急に解らなくなって、えーっと、と口ごもった。
「じゃ、じゃあ。またな」
とりあえず小さく手を振っておく。その手を不意に掴まれた。振り払ったらすぐに離れていってしまいそうなほど、やわらかく掴まれた手と璃空を交互に見る。
璃空は、眉を僅かに寄せて何かを言いたげにしている。その顔はなんだか苦しそうな気がして、でもどうしてそんな顔をしているのか解らなくて、璃空を見つめてじっと待つ。
瞼を強めに閉じた璃空が、言った。
「洸。キスしたい」
えっ、と言葉が漏れる。璃空はまだ目を瞑っていた。まるで何かを我慢するみたいに、少し下を向いたまま、俺の返事を待っている。
キス。一秒にも満たない時間で頭で何度もその言葉を繰り返した。
俺と璃空がキス。
ばっと口を片手で隠す。勢いよく体を動かしたのが伝わったのか、璃空も顔を上げたと思ったら、目を真ん丸にして俺を見ている。絶対に顔が赤いのが分かっているから、今度は俺が視線を逸らすしかなかった。
「ここではいやだ」
言えたのはそれくらいだ。
別に璃空とキスすることは出来ると思う。でもここでキスしたとして万が一、家族に見られたりするのが嫌だった。単純に恥ずかしいし、もし姉ちゃんに見られたら絶対にからかわれるのが分かるし、母ちゃんも生温かい目で俺を見てくる。絶対にそうに違いない。
「なんで? そんな顔してるのに?」
耳に入ってきた璃空の声は、少し震えていた。それが興奮からくるものなのか、はたまた別の感情が籠っているのかは、今の俺には全く判断がつかない。
「だって見られたら、恥ずいだろ!」
出来る限り声を抑えて訴える。
恋人とキスしてました~、なんて近所の噂になったら、実家に二年は帰ってこれない気がする。名前も知らない赤の他人ならば別に構わないけれど、名前を知っていてある程度付き合いがある人に、恋人同士の諸々を見られるのは、本当に恥ずかしくて無理だ。男同士だからとかじゃない。もし彼女とのキスであっても無理だ。
ーー洸希くん、おうちの前でキスしてたわよ~! アツアツねぇ~!
近所のおばちゃんにそう言われるのを想像したら、顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。無理だ。恥ずかしくて死ぬ。おばちゃん同士の噂はすぐに広まるから、余計にこの辺をうろつけなくなる。それはマジで勘弁願いたい。
「恥ずかしいって、ーー男同士だから?」
急に冷えた声が突き刺さって、咄嗟に璃空を見る。璃空は完全に下を向いていて、前髪で顔は見えない。柔らかく包まれていたはずの手が、強く握り締められていることに気付く。
「璃空?」
「ッ! ごめん。何でもない」
掴み返そうとした手は、パッと離されて璃空と俺の間には、三歩以上の間が空いた。相変わらず璃空の顔は見えない。
男同士だから、と彼は言った。
違うそうじゃない、とここで言ってやらないと、この三歩の溝は一生開き続けて、俺たちの間に横たわる予感があった。
だから、俺が。
大きく一歩踏み出して、今度は俺が璃空の手を握る。びくりと璃空の肩が震えた。
「男同士だからなのは、関係ない」
ゆるゆると持ち上がった璃空の顔は、少し不安げに見える。まるで雨に濡れて震える犬みたいで、いつもの璃空とは似ても似つかない。その不安を少しでも取り除いてやりたかった。
「俺はただ単に、恋人らしいことを人に見られるのが恥ずかしい。ちゃんと誰かと付き合うのは、璃空が初めてだし、……いや、山川さんとも付き合ったけど、一切そういうのなかったし、そんな気持ちにもならなかったし。でも璃空ならしてみたい、と思ったりもするけど、それを誰かに見られるのはなんか、こう……、はずいだろ。経験不足って言われたらそれまでだけど。特に自分の知り合いに見られたら、あとで茶化されたりとかされたら嫌だしさ、噂話になって、最近どうなの? とかおばちゃんたちに聞かれても嫌だしさ、そもそも恋人同士のあれそれを外でやるのはどうかと俺は、」
何を言ってるのか自分でも解らなくなってきた頃、ブッと噴き出した璃空に言葉を止められた。まさか噴き出すとは思わなかったし、なんなら肩を揺らして笑っている。
なに笑ってんだコイツ。俺は真剣に答えてるっていうのに。笑うなんて一体どういう了見してやがる。
「っ、俺はなぁ! 真剣に、」
「うん、ごめん。ふふっ、わかってるよ、洸」
「じゃあなに笑ってんだお前ふざけんなよ」
「ホントごめん。ふっ、嬉しくて」
具体的にどこら辺がそう思えたのか、全く分からない。いまだに笑い続けている璃空の眦には、とうとう涙まで浮き上がっていて、コイツっ、と今度は怒りがわいてくる。
「もういい! 璃空なんて知らん! じゃあな!」
「まって、洸」
握っていた手を振り払って、背を向けようとした。のに、今度は璃空が俺の腕を掴んでくる。なにしやがる、と言い返そうとした言葉は、唇に触れた温かいものに遮られて止まってしまった。
ていうか、璃空の顔がめちゃくちゃ近い。まさか。
反射的に逆の腕を振ってぶつけようとした拳は、見事に宙を切った。その前に璃空が離れていたから。二歩先にいる璃空は、これでもかというくらい嬉しそうに笑って、駆け出した。
「じゃあまた連絡するな、洸!」
ななな、と門の前で声にならない声を上げていた俺のスマートフォンが、メッセージを受け取る数分間前のことである。
因みにスマートフォンには『初めてのキスどうだった?』なんていう、クソみたいなメッセージが璃空から届いていて、危うくスマートフォンを投げるところだった。強く強く握り締めることでどうにか怒りを抑えたけれど。
ヨシ。今度会ったら絶対に一発殴ってやる。
そう腹に決め、俺はわなわな震える手で実家の扉を開けたのだった。
「ただいま!」
勢いのまま腹から声をだしたから、思った以上に俺の声は玄関に響いた。バタバタと音がしたと思ったら、リビングの扉が開く。そこから、驚いたらしい母がしゃもじを持ったまま顔を出した。
「どうしたのそんな大声で。あんたいつも蚊の鳴くような声しか出さないのに」
「あ、いや、えーっと。外があちぃからイライラしてて……?」
苦しい言い訳かとも思ったが、母は怪訝な顔をしただけでそれ以上ツッコむことはなかった。
「まあいいわ。手洗ったら沙希のこと呼んできて」
「はーい」
因みに沙希は俺の姉だ。作業中邪魔するとキレるんだよなぁ自分の部屋にいるといいけど、なんて思いながら間延びした返事をして、脱いだ靴をそろえて立ち上がる。母はまだリビングの扉の所にいて、目が合うと快活に笑った。
「おかえり、洸希」
胸の奥が少しむず痒くなる。母のおかえりを聞くと、帰ってきたなぁと思う。その心のまま、俺もつられるようにして笑ってもう一度、ただいま、と返した。
手を洗って姉がいる二階へとつま先を向けた時だ。
「洸、おかえり」
上を見上げると、ちょうど階段のところから顔を出した姉が俺をみていた。ニヤニヤとしている。その顔に嫌な予感を覚えつつも、ただいま、と返す。
「アンタの部屋、今物置だから、あたしの部屋で寝るように」
「はぁ? ヤダよ。何が悲しくて姉ちゃんと寝なきゃいけねーんだ」
「汚部屋で埃吸って寝てもいいならいいけど」
ぐう、と唸る。できれば埃は吸いたくない。くしゃみが止まらなくなるし、それの同じように鼻水も止まらなくなるからだ。呼吸のままらない状況に寝るときになるなんて最悪以外の何物でもない。
「それと、後で聞きたいことあるから覚悟するように」
口の端が裂けるんじゃないかと思うくらい、口角を釣り上げた姉ちゃんが、上機嫌で階段を下りてリビングに入っていく。
まさか。サッと顔から血の気が引いていく。
そういえば家の構造的に、姉の部屋から門が見える仕様になっている。作業部屋からは見えないが、作業しないときに姉がいるのは彼女の部屋だ。つまり今日俺が寝ることになる部屋なのだが、もしも璃空と言い合いしていた時に、姉が自身の部屋にいたのだとしたら。
確実に、璃空にされたキスを見ている。どっぷりとした闇の中だったらセーフだったが、まだ夕闇程度の明るさがあった。確実に見える。間違いなく。
そう考えれば、姉のあの悪戯を思いついた悪ガキみたいな顔も頷ける。
いやそれだけはマジで勘弁してくれ。どう考えても根掘り葉掘り聞かれるに決まっている。いやまて。これは仮定であって、断定された情報じゃない。他に聞きたいことがあるのかもしれない。例えば姉のスペックの高いパソコンで隠れてゲームをしたこととか。
いい方に考えようとした俺だったが、一時間経たないうちに玉砕することになった。
「璃空くんと付き合ってんの?」
風呂から上がって姉の部屋に入った途端、開口一番、叩き付けられた言葉はそれだった。黙秘権を行使する前に、自分の顔が熱を帯びたのが分かって、思わずバスタオルで隠したのが敗因だった。
「へぇ~、あの璃空くんと洸がねぇ~、へぇ~」
明らかに楽しんでいる声色だ。だから家の前では絶対に嫌だったのに! あのバカ璃空のせいでバレたくない姉にまでバレることになってしまった。否定できなかった俺も悪いのは今は全部棚に上げる。璃空のバカやろー! と心の中で叫んでいた俺に、まあ座りなさいな、と姉は言った。
「じっくり姉ちゃんが聞いてあげるからねぇ、洸希くん?」
「やめろッ、聞くな! 下でアイス食ってくる!」
「えぇ~? いいのかなぁ、母さんに言っても」
うっ、と潰れた声が出る。
母ちゃんには正直今は言いたくない。というかだれが好き好んで家族に『恋人できました~!』なんて言いたいのだろう。俺は絶対に嫌だった。バラされることだけは絶対に阻止しなければいけない。そんな俺に出来ることと言えば。
敷かれた布団の上に嫌々ながらも座る事だけだった。
ベッドで胡坐をかいて見下ろしてくる姉に対して、正座で布団に座る俺。
完全に姉の手のひらの上だ。
「いつから付き合ってんの?」
「……、三日前」
「最近なんだ」
意外~、なんて興味深そうにしている。意外ってなんだよ、と言ってやればまたニヤリと笑われた。
「璃空くん、ずっとアンタのこと好きだったんでしょ?」
「ハァ!?」
まさかの言葉に思わずデカい声が出る。慌てて声を潜めて聞いた。
「なんで姉ちゃんが知ってんの!?」
「女の勘ってやつだね。まー、璃空くんの場合は結構あからさまだったけど」
あからさまだった? 全く気付かなかったぞ俺は。
あんぐりと口を開けたままの俺に追い打ちをかけるように、姉は言った。
「アンタがべらべらしゃべってる時の璃空くんの顔、見たことないの? あんな『だいすき~』って顔してんのに。それにアンタは知らなかったかもしれないけど、璃空くん、アンタが家に入るの見届けてから帰ってたよ」
「し、知らなかった」
「我が弟ながら鈍感にもほどがある。璃空くんに同情するわ」
やれやれというように肩を竦められる。
新情報が山ほどありすぎて頭が回らない。そんなに分かりやすかったのだろうか。俺はこれっぽっちも気付かなかったのに。やっぱり璃空に悪いことをしていたんじゃないだろうか、と思う反面、だったら教えていくれればいいのに、と思う。
「気付いたならなんで言ってくれないんだよ!」
「璃空くんが言ってないのに、あたしが言ったら失礼でしょ」
「そ、それは! そうだけどさぁ!」
言ってくれたらもう少し、何か変わったかもしれないのに。ずっと璃空だけが苦しんでいたのかもしれないと思うと、内臓を掻き混ぜられるみたいに嫌な気持ちになる。
「璃空くんにとって、アンタにすきって伝えるよりも、アンタと友だちのままでも傍にいる方が重要だったってことじゃん。わかってあげなよ」
ぽん、と肩を叩かれる。見上げた顔は、仙人みたいに笑みを零している。なんだよその顔。納得できるわけなんてないのに。馬鹿にしてるのかと思わないでもないが、そういえば姉はそういう恋愛物のマンガを描くプロであるから、恋愛経験のない俺よりも遥かにわかっているのかもしれない。
そう思い至って、反抗しかけた口を一度閉じた。湧いてきたのは少しの情けなさだ。
「……そんなに俺鈍感だったんだな」
「逆に言えば、それだけ璃空くんが隠すのが上手かったとも言える」
「そうだけどさ。なんかそれ、対等じゃない気がすんじゃん」
我慢させてばっかりだったのかな、とか。
一人で抱え込みまくってたんじゃないかな、とか。
無理させてたんじゃないかな、とか。
今更と言われればその通りだが、なんだか自信がなくなる。璃空にとっての一番の親友だった自負があるのに、本当の胸の内はちっとも分って無かったから。
「しあわせだね、アンタ」
いつのまにか正座の膝の上に置いた拳を見つめていた俺は、ぱっと顔を上げた。姉は満足げに愛おしいものでも見るような笑みを浮かべていた。
「普通だったら振り向いてほしい相手に暴力的な愛情を向けたって可笑しくないのに、璃空くんはずっとアンタの隣で友だちでいてくれてたんでしょ? それってもう愛じゃん。アンタを傷つけない、両手に抱えきれないほどのやわらかい愛を璃空くんが向けてくれてる。誰にでもできることじゃないよ。こんなに愛されるなんて、人生で何度もないんだからね」
姉の言葉が、しんしんと胸にしみていく。
こんなに誰かから想いを向けられることなんて、きっとない。これをないがしろにしたら絶対にダメだ。
「だから、ちゃんと大切にすること。わかった?」
「わ、わかった。肝に銘じる」
よし! と言った姉は立ち上がった。
「創作意欲が湧いてきた~! 最高の話題提供ありがとね、洸! あたし、これで一本は長編掛ける気がしてきた!」
「そ、それは、よかったな? おめでとう?」
「うん! こうしちゃいられない! 一時間くらい籠ってくるわ!」
ベッドから飛び降りて、バタバタと部屋を出て行ってしまった姉。その様子を唖然と見ていた俺だったが、数秒の沈黙の後、思わず噴き出した。
姉は茶化しはしなかった。それどころか真剣に話を聞いてくれて、アドバイスまでしてくれたのだから。
「ありがとな、姉ちゃん」
ぽつりと漏れたお礼は紛れもない本心だった。
一発殴ってやるつもりだったけれど、璃空が抱えてきた想いの大きさと長さを考えたら、許してやってもいい気がしてきた。俺もちゃんと璃空に向き合わないといけない。お試し、なんて言っていないでちゃんと恋人として、璃空と向き合ってみよう。
そう思った時に、もう一度ガチャリと開いた扉。
姉がニヤリと笑って言った。
「恋の寿命は三年っていうから、洸も十分気を引き締めるようにね」
またすぐさまパタンとしまった扉。いやホラーかよ。
この時の俺は知らなかった。この最後の姉の言葉に、振り回されることになるなんて。
(男心と秋の空 おわり)
