ぴよぴよと鳥の鳴き声が聞こえて、ゆっくりと瞼を上げる。
見えた真っ白な天井はいつも通り。数度の瞬きをしてから、窓を見る。深い緑のカーテンが光を浴びて、黄緑色に見えるのもいつも通り。手を伸ばしてカーテンを開けて、陽光の眩しさに目を眇めるのもいつも通り。
ふう、と息を吐いて体を起こす。
枕元のスマートフォンを手に取って開くと、画面に一人の名前がある。その名前が目に入ってきた瞬間に、自分の顔にじわじわと熱が集まってきた。
「……やっぱり夢じゃないんだよなぁ」
しみじみとした音が部屋の中に染み渡る。
静寂が満ちた部屋でぼんやりと一昨日のことを思い返す。
――俺を選んでよ。
あの日の璃空の声が頭の中に鮮明に響いた。
声にならない唸り声をあげて、タオルケットに顔を埋めるように前に上半身を倒す。心臓を揺さぶるような、でも甘くて少しだけ切ない声だった。道理で、色んな人にモテるわけだよなぁ。そう他人事みたいに考えていないと、顔から火が出そうだ。
もう二日も経っているのに今でも璃空の声は鮮明で、不意に思い出す。ついでに、抱き締められた時の熱と少しの湿り気も。あの時の真剣な声がまるで耳の中に貼り付いてしまったように、何度も何度も勝手に再生される。
人生初の恋人が友だちに戻ったその日に、ずっと親友だった奴から告白され、恋人同士になった。マンガでもこんな急展開は見たことない。そんな事象が今年の夏、俺の身に起こったのだ。
あの後すぐ「じゃあ今日は帰るから」と璃空はすっきりした顔で満足げに帰っていったけれど、俺は部屋の中に入ってからもしばらく玄関から動けず、その場に蹲っていた。絶対に璃空には一生言ってやらないけど。まさか親友だと思っていた人に、抱き締められたり告白されたりするなんて誰も思わないし、あまりにも不意打ちすぎて心臓がいつまで経ってもバクバクと五月蠅かった。
ずっとずっと好きだった、と璃空は言ったけれど、一体いつからなのだろう。正直なところ、璃空が俺に告白してくるなんて思わなかった。そんな素振りを一度も璃空は見せなかったし、いつだって友だちに振舞うような態度だった。
いやでも待てよ。
もしも璃空が言うことが本当だったとして。
どんな気持ちで告白された俺に「よかったじゃん!」って言ったんだアイツ。本当に好きだったらそんなこと言えるだろうか。俺だったら絶対に無理だ。
本当にいつから俺のことが好きなのか気になるところだが、馬鹿正直に聞くのは野暮な気がする。もう少し経ったら聞いてみてもいいだろうか。
あ、とメッセージのことを思い出す。ぼーっとしている場合じゃない。
画面を開いてトーク内容に来ている三つのメッセージに目を通す。
『今日、実家帰るって言ってたよな?』
『帰る時間教えて!』
『今日大学行くから一緒に帰ろうぜ。家まで送る』
昨日の夜、確か実家に帰ることをメッセージで話した気がする。思わずニヤついてしまった顔を慌てて引き締めて、メッセージを打つ。
璃空の誘いは純粋に嬉しい。
夏休みに入る少し前から、二日前まで璃空とは会えていなかったから。璃空と一緒にいるのは楽しいし、気が楽だから。逆に変に意識してしまって普通通りに出来なかったらどうしよう、という気持ちは今少しある。
だが、少しずつ恋愛対象として見てみる努力はする、と意気込んだ俺に璃空は言ってくれた。
――そういう目で見てって言ったけど、いつも通りで良いよ。元はと言えば俺の我儘だし、無理矢理は絶対に嫌だし、洸の性的指向が男は対象外なの分かってるし、俺は洸と一緒にいられるだけでも十分嬉しいからさ。
目元を少し赤くした満面の笑みの璃空を見るのは久しぶりだったから、俺まで嬉しくなってしまったのは余談だ。
男同士で恋人になってもいい、という発想はあっても、自分が当事者になる想像はしたことがなかった。だから、すぐには難しいと思う。でも、璃空ばかりに我慢させるのは俺の性に合わない。ただでさえ璃空は、すぐに自分の中に溜め込んでしまうタイプだから。
一回だけ高校の時に、女子から引っ叩かれていたのを見たことがある。
でもその時も、やり返さないどころか怒りもせずに、まあ仕方ないから、と笑っていた。
璃空は正論を言うことはあっても、意図して誰かを傷付けるような事は言わない。少なくとも俺は聞いたことがないから、多分あれも八つ当たりされてしまったのだと思う。
他人のことならどうでもよくても、他でもない俺自身が璃空を我慢させるのは、何となく嫌だ。いつだって璃空には素のままでいてほしいし、どんな顔でも見せてほしいから。
『逆に璃空が終わるの何時?』
すぐ既読の表示がでて、向こうが打ち込んでいる表示が出てすぐに『16時!』と返事が来る。
『じゃあそれに合わせて駅行く』
『大学出たら連絡くれ』
連続で送ったメッセージも、すぐに既読になった。『りょうかい!』と書かれた可愛い犬のスタンプが送られてきて、やっぱりこれ璃空に似てるよなぁ、なんてどうでも良いことを思う。
見上げた時計は11時を指している。
冷蔵庫の中の賞味期限が危うい物を処分するために、やっと俺はベッドから降りたのだった。
燃えるゴミの袋を縛って、一度足元に置く。
西日に照らされるワンルームをぐるりと見回した。ゴミも集めたし、エアコンもちゃんと消えている。ヨシ。頷いてゴミの袋を持って、バックパックを背負う。忘れ物はない。
ヴヴ、とポケットの中で音を立てたスマートフォンを片手で取り出すと『終わった!』というメッセージが表示されている。今出たらちょうど良い。
俺は意気揚々と下宿先を後にした。
ピークは過ぎたと言っても、まだ陽射しは強い。更に、上からも下からも全身を責め立てる熱気のせいで、溶けてしまいそうだ。あち~、と自分の手で顔を扇いでも、届くのは熱風ですぐさま止めた。
今住んでる場所が、ちゃんとゴミ回収ボックスが設置してあるところで良かった。もしも外に捨てるタイプだったら、絶対に悪臭を放って近所迷惑だったに違いない。それにしても暑い。本当に暑い。すぐさま冷水のシャワーを浴びたくて仕方ない。
もうすぐ駅に辿り着くところで、大学方面から璃空が歩いているのがちょうど見えた。じんわりと速度を上げていく心臓に急かされるように、俺の足も少しずつ早くなる。顔を上げた璃空に小さく手を振ると、俺に気付いたらしくぱあっと目を輝かせた。
大きく手を振りながら駆け寄ってくる。思わず漏れてしまった笑いを隠さずに言ってやる。
「お前は大型犬かよ」
「え、だって洸のこと見つけたら走るでしょ」
「暑ぃんだから、走らなくていーのに」
大学から駅前までは、結構な速度で来ないと俺と同じ時間に着くことはできない。校舎から来たのだとすれば、なおさらだ。その証拠に璃空の首筋には汗の玉がいくつも出来ている。ここに来るまでに途中で走ってきてくれたのかもしれない。本当に律儀なヤツだなぁ、と思う。
「タオルねーの?」
一応聞いてみるが、首を横に振られた。まあそうだよな。後ろに手をやって、パックパックの側面のポケットから、ハンドタオルを出して差し出した。えっ、と言いながら俺とタオルを交互に見る璃空。ご褒美をもらえた犬かなにかかお前は。
「貸してやるから。使えよ」
「え、でも洸のだろ?」
「いいよ。半分俺のせいみたいなもんだし」
きっと璃空は、俺のことを待たせないように走ってきてくれたのだと思う。俺との約束がなければきっと璃空は走って来なかったし、なんなら待たされたって構いやしないのに。こういうところが本当に優しくて良い奴だと思う。
わざわざ両手で受け取っている璃空をみながら、ふと山川さんのことを思い出した。彼女も璃空と同じように受け取ってくれた。山川さんに何故か親しみを感じていたのは、もしかしたら璃空と似ているところがあるからなのかもしれない。
「じゃあありがたく使わせてもらう。ありがと、洗って返すから」
「洗うの母ちゃんだしいいよ」
「ヤダ! 俺が洗って返す!」
「お、おぅ。お前がそうしたいならいいけど」
絶対に譲らないと言いたげに、後ろにタオルを隠されてしまった。璃空は一度決めてしまえば頑なだ。まあわざわざ言い争うようなことでもないし、それで璃空が満足するならそれでいいか、と納得する。
「行こうぜ。電車何分だっけ」
「21分だよ。あと5分ないくらい」
「じゃあ飲み物買ってくか~」
地元までの道のりは長い。特に休日ダイヤの時は、一時間半以上電車に乗っていることになる。いつもなら退屈している所だが。隣にいる璃空を見る。璃空とならあっという間に着いてしまうだろう。璃空が誘ってくれて良かった。自然を緩んだ頬をそのままに、自販機に駆け寄った俺は知らない。
璃空が、これ以上ないってくらい嬉しそうに俺のことを見ていたなんて。
ガタン、と揺れる電車。
先頭車両に乗っているからなのか、お盆真っ只中だからなのか、他の人はほとんどいない。地元まで行くローカル列車は、都内に比べたらそもそも利用者も少ないのだが。
地元駅まで着くまではあと一時間くらいだ。座れて良かったが、こんなにも人が少ないとは流石に思わなかった。
この電車に乗り換えるまでは話をしていた璃空も、いまは窓の外を見ている。揺れる頻度が心地よくて、だんだん眠くなってきた。静かだなぁ。眠い。このまま寝てしまおうか。そんなことを考えていたら。
「ねぇ、洸」
不意に小さな声で名前を呼ばれた。
閉じかけていた瞼をすぐさま開けて、ん、と璃空へ目を向けると、璃空も俺を見ていた。とろり、という音が似合いそうな笑みを浮かべている璃空の髪の輪郭を、西日が撫でている。きれいだなぁ、なんて呑気に思ったのと同時。
「手、繋ぎたい。……ダメ?」
「? いいよ。ほい」
手が冷えてんのかな。珍しいこともあるもんだな。
深く考えずに右手を差し出す。ぱちぱち、と目を瞬いた璃空が、ふっと笑った。
「ありがと」
するりと指と指の間に入り込んできた璃空の指先。ビクッと体を揺らしたのは、まるでそれが恋人にするような手の繋ぎ方だったから。
はた、と思い出す。
そういえば俺たち、今恋人同士(お試し期間)なのでは!?
唐突にそれを実感して、頭の天辺からつま先まで一気に熱が駆け巡る。そんな俺に追い打ちをかけるように、ぎゅっと力を入れられて握り締められた。そっと二人の間に置かれた手は、解かれることがないようにしっかりと結ばれている。
それを見て更に実感してしまった。ああそうだ俺たちは今恋人なんだ、と。途端に、ドクドクと心臓の音が耳元で響いて、ものすごくうるさい。
だからわざわざ璃空は聞いてくれたのだ。
なのに俺ときたら。なにが、いいよ、ほい、だ! 軽率すぎるだろバカ野郎ーー! 頭の中で自分を罵るももう後の祭り。
本当に周りに人がいなくてよかった。恥ずかしくて死にそうだ。誰かに見られて恥ずかしいというよりも、なんといえばいいのか、心臓のところがむず痒くて、ゾワゾワする。全身が痺れてるような感覚まである。
せめて、うるさい心臓の音が璃空に聞こえていませんように。
今、璃空の顔をみたら墓穴を掘ってしまいそうで、俺に出来ることといえば自分の前に抱えたバックパックに顔を埋めることくらいだった。
肩を揺すられて、瞼をゆるゆると上げる。
見えた窓の外の空は、すでに紫色に染まっている。
「洸、あと一駅で着くよ」
いつの間にか眠っていたらしい。窓に映る自分を見て、璃空の肩を借りて寝てしまっていたのだと気付いた。うん、とまだ半分寝ぼけたままの声を出して、体を元の位置に戻す。右手にじんわりとした温もりを感じて、何気なく目をやる。まだしっかりと結ばれた手があった。認識した途端、一気に覚醒して、じわりと頬が熱くなる。
なんとか気を紛らわせようと顔を上げた。ちょうどトンネルに差し掛かる。ぱっと自分の顔が窓に映る。驚いた顔をしている自分の隣で、璃空がやわらかな笑みを浮かべている。窓越しに目が合うと、もっと目元と口元を緩めて笑われた。
勢いよく隣を見る。
ま、まさか。恥ずかしくてバックパックに顔を埋めていたこともバレているのでは。
「ん? 洸、どうかした?」
視線に気づいたらしい璃空に首を傾げられた。
首を高速で左右に振って、視線を前に戻そうとして、すぐさまバックパックへと変えた。視線を前に戻したら、間違いなく間抜け面をした自分と目が合うからだ。
恥ずかしい。何かよくわかんないけど、とにかく恥ずかしい。穴があったら一目散に駆け出してそこに入りたいくらいには。いたたまれない気持ちを抱えたまま体を小さくして、とにかく駅に着くまで耐えた。
最寄り駅がアナウンスされて、電車が速度を落としていく。する、と抜けていく温もり。一気に車内の冷気が右手を包み込んだ。少しだけ名残惜しさを感じながら、立ち上がった璃空に合わせて立ち上がる。
ご乗車ありがとうございました~、という間延びした声に背中を押されるように出た列車外は、驚くほどまだ熱気を孕んでいて、一気に顔が歪む。
「あちぃ……」
「な。こっからまた歩くのヤダよな」
ちっとも嫌そうじゃない爽やかさを纏う璃空を、じと目で見やる。なんだよ、と笑った璃空に髪の毛をかき混ぜるように頭を撫でられた。
「やったなコイツ!」
「あははっ。……わっ!」
やられた分はやり返す。両手を使って髪の毛をかき混ぜてやった。意外と璃空の髪の毛ってフワフワなんだな。知らなかった。満足するまでぐしゃぐしゃにしてから、離れてやる。
「どうだ、参ったか!」
「参りました参りました。あーあ、せっかく軽くセットしたのに」
いつもより前に降りてきている髪を払いながら、それでも口元は笑っている。口調の割に怒ってはいないらしい。ふふん、と笑って歩き出す。
駅を出て、もうすでに懐かしく感じる道を歩く。
「この道、よく歩いたよなぁ」
そうだな、と言いながら璃空は変わらず口元に笑みを乗せていた。
高校の時は、時々璃空が自転車登校をしていて、わざわざ自転車を引きながら一緒に歩いて帰った。それも璃空が縁と別れてからだから、一年くらいだけだったけれど。
あの時は人一人分くらいあった俺たちの間には、今はいつ手を繋いでも可笑しくない、拳1個分の距離しかない。
急にまた恥ずかしさが戻ってきて、誤魔化すように話題を振った。
「そ、そういえば、もう自転車使ってねーの?」
「いや、大学に行くときは駅まで自転車で行ってる」
「え? 今日は?」
「歩いた。洸と一緒だったら歩く方がいいし」
コイツ、ほんとこういうところだよなぁ。優しいよな、と言っても、俺がそうしたかったから、と歯を見せて笑うのが容易に想像できる。
ふと、思う。
高校の時も、璃空は俺のことが好きだったのだろうか。今なら聞いてもいいだろうか。もう少し経ったら、と今朝思ったばかりなのに。今聞いてみたいと思ってしまった。
「なぁ、璃空」
「んー?」
相変わらず上機嫌な相槌がある。
嫌だったら答えなくて良いんだけど、と前置きをして、疑問を口に出した。
「高校の時こうやって帰ってた時から、俺のこと好きだったのか?」
璃空の顔は見れなかった。自分の顔が赤くなっているのが分かっていたし、口に出して余計に恥ずかしくなったから。自意識過剰と言われたらそれまでなのだが、もしその気持ちを抱えていたのだとしたら、どんな気持ちで一緒にいてくれたのか、気になってしまった。
少しの間の沈黙を破ったのは、ふっと息を溢すように笑った璃空だった。
「そうだよ」
たった一言なのに。その言葉に込められた想いが、あまりにも大きいような気がした。身に余るほどのものを璃空から向けられていたのに、自分は何も知らずに過ごしていたのだ。
「ごめん」
咄嗟に出たのは謝罪だった。
「なにが?」
キョトンとした璃空が俺を見てるのが分かる。でも、顔は上げられなかった。
「いやだって、俺ずっと何にも知らずにいたし、その、いろいろさ、無神経だったんじゃないかと思って」
毎日のように一緒に帰っていた。その時の会話の多くは、もうすでに記憶の彼方に消えている。他愛のないものだったと思うけれど、意図せずに恋人がどうの、という話をしていたかもしれない。その話を聞いていた璃空のことを考えると、胸が張り裂けそうになる。
好きな人の色恋の話を聞くなんて、どんな拷問だろう。その相手が自分ならまだしも、全く違う人の話だ。誰が好き好んで聞きたいと思うだろうか。
せめてもっと早く知っていたら、何か違ったかもしれない。
そう思った俺に、璃空は困ったように笑った。
「俺が絶対にバレないようにしてただけだよ」
「なんでだよ。言ってくれたら俺、」
言葉を遮るように、首を横に振られる。いつも自信に満ち溢れて見える笑みは、何処か所在なさげで風で攫われてしまいそうな様相をしていた。
「洸が離れていかないっていう自信がなかったから。俺じゃない誰が好きな洸を見るより、俺と距離をとって一切話してくれなくなる洸を見る方が嫌だった。ただそれだけだよ」
またそうやって自分がそうしたかったなんて言って、全部背負って心に全部抱え込んでしまうのだ。それを少しでも分けて欲しいと思うのは傲慢だろうか。どうせなら一人で抱えていないで、俺にも話して欲しいと思う。というかそんな懐が狭い男だと思われていたのだろうか。なんだかそれはそれでムカつく。
「好きって言われて、距離取るような薄情だって思ってたのかよ」
「違うよ。本当に俺に勇気がなかっただけ」
「お前がそういうならそういうことにしとくけどさ。今度からは一人で抱えないで言えよな。俺は言われない方が寂しい」
一人で抱え込んで、前みたいに避けられる方がずっと嫌だ。理由がわからない方が嫌だ。だから言える事は言って欲しい。
俺の言葉に、璃空は少しだけ意外そうな顔をしてから、うん、と言ってくれた。けど、その顔は緩みまくっている。
コイツ、本当に分かってんのかよ。
