大学生というのは、意外とやることが多い。
それを実感したのは、梅雨が早めに明けた頃。夏休みに入る一か月前のことだった。
突然いろんな講義の教授から、怒涛のレポート課題を出されたのだ。
アルバイトをしながら、というのが更にキツかった。
一年生の時は、テストと出席日数が足りていれば良い講義が多かった。なのに、いきなりこれだ。夏休みの為にバイト代を増やすことを目論んでいた俺は、まんまと首が回らなくなってきていた。
当然バイトから帰ってきた後から、寝るまでの時間だけじゃ足りるはずもなく。
親友に助けを求めるのは早かった。
「璃空! 助けてくれ!」
外で鳴き喚く蝉に、負けず劣らず唸っている空調が良く働いている講義室。
隣に座るなり両手を合わせて助けを求めた俺に、璃空は目を白黒とさせている。
「え、なに? どうした?」
「レポートの山が終わらないんだ」
肩を落としてそう言うと、璃空は噴き出した。
「なんで笑うんだよ!」
「いや、本当に切羽詰まった顔してたから。もっとヤバイことが起きたのかと思った」
「やばいだろ。レポートだぞ。A4のレポート用紙10枚を7セットだぞ。やばいだろどう考えても」
「あ、でも3セットは終わってるんだ」
「一応は。璃空は?」
「俺はね~、もう全部終わった!」
「この裏切り者ーッ!」
ちゃっかりウインクまで寄越してきたから、軽く拳で肩を小突く。それすらも気にならないらしい璃空に、ははっ、と笑われた。
クソッ! 笑った顔まで爽やかすぎる! 百点満点すぎるだろコイツ! クソッ! ひねくれたままじゃなくてよかった! ひねくれたままだったら終わってた! 社会的に俺が!
講義室の机に突っ伏してわなわなと震える俺を慰めるように、背中をぽんぽんと叩いてくれる璃空。クソッ! この百点満点の男がよ!
ブンッと音がしそうな速さで首を動かして、璃空へジト目を向ける。
――梢江くんってなんか青空のイメージ強いよね~!
――わかる~! 爽やかイケメンだよね~!
そんな噂をしていた女子の気持ちが分かる。確かに璃空は爽やかイケメンという名に恥じない風体をしている。こんなにモテるというのに、縁と恋人じゃなくなってから、璃空は一向に誰とも付き合わない。
前に理由を聞いたら、こっちが本気じゃないのが申し訳ないから、だそうだ。
俺がもし璃空だったら多分、告られたらその人が好きじゃなかったとしても試しに付き合ってしまうと思うのに。
こんなところまで百点満点なのだ、梢江璃空という男は!
でも一言言わせて貰うなら俺の中では、璃空は青空よりも夕暮れのイメージが強い。多分あの光景が、記憶に焼き付いてるからだけれど。
「書く内容は決まってる?」
「えっ、あ、ああ、レポート? まあある程度はって感じ」
「じゃあノーパソ持ってるし、手伝うよ」
「! ホントか!?」
「うん。今日なら空いてるし。代わりに終電逃したら洸んち泊めて」
「もちろん良いよ! あ、でもベッド1つしかねーんだけどいい?」
一瞬、璃空が固まったように見えた。でも俺の気の所為だったのか、頬杖をついた璃空が意地悪く笑う。
「それ、俺に襲ってくれ、って言ってる?」
「!? なっ、なに言ってんだお前! ンなわけねーだろ!」
さっきよりも強く肩を叩けば、ははは真っ赤、と笑われてますます居たたまれなくなった。
どうせ俺は童貞だし、お前みたいにスマートに躱せねーよチクショウめ!
フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「ごめん、洸。もう揶揄ったりしないから」
完全に機嫌を損ねたと思ったらしい。
わざわざ立ち上がって覗き込んでくる璃空をちらりと見遣る。
まるで叱られた子犬みたいだ。眉を下げて、俺を見つめている。心なしか体もすこし縮こませているように思う。この顔をされると、許したくなってしまうのは庇護欲を擽られるからなのか、それとも璃空の人となりが成せる業なのか。
はー、とわざとらしく溜息をついて、怒ってない、と伝えれば、ぱっと顔が明るくなった。尻尾があったらブンブンと高速で揺れていそうだ。ギャップがエグい、と姉ちゃんが言いそうだな、とどうでも良いことを思いながら口を動かす。
「ぶっちゃけ無理言ってんのは俺の方だしさ。とりあえず、レポートをガチで手伝ってほしい」
「もちろん手伝うよ。どこでやる?」
「うーん、俺んちだと絶対ゲームやりたくなるしな」
「じゃあ構内の図書館とか」
「冴えてんな、璃空! そうしよ。あ、縁もレポートあるって言ってたよな? 誘ってみるか?」
「おけ、声かけてみる」
言った傍からスマートフォンを取り出して、縁に連絡を取ってくれる璃空を横目に、講義のための教材とルーズリーフを出していく。いつも通り璃空の分のルーズリーフも出して、ん、と渡してやれば、ありがと、と満面の笑みが返ってくる。
璃空が椅子に座り直したのと同じタイミングで、スマートフォンが可愛い音を立てた。画面を見た璃空は、笑いながら言った。
「縁も来たいって。四限終わりに図書館の入口で合流でいい?」
「りょーかい。さんきゅ」
やけに上機嫌だ。久々に縁と会えるのが嬉しいんだろうか。
なんで別れてしまったのか分からないくらい、璃空と縁は今でも本当に仲が良い。
おこぼれみたいな形で俺も仲良くしてもらっているけれど、なんというか年季が違う。阿吽の呼吸というのか、勝手がわかっているというのか。
それだけ息が合うのに別れてしまうことがあるのか、と俺には不思議でしょうがなかった。
だから一度だけ璃空に、縁とどうして別れたんだ? と聞いたことがある。
その時の璃空は、目を丸くした後に、笑ったのだ。
――もう自分の気持ちに嘘吐くの、やめたかったから。
清々しくて、少しだけ胸が痛くなるような笑みだった。
そっか、とだけ俺は返したと思う。
深くは聞けなかった。縁には悪いことしちゃったと思ってる、とも言っていて、それ以上は聞いてはいけない気がしたのだ。
好きだけじゃどうにもならないことだってある。
そんな恋愛モノの物語に出てきそうなフレーズが、身にひたひたとしみわたっていくような感覚に、何も言えなくなってしまったのもあるのだけれど。
それ以降は、二人の関係について言及しない、と勝手に決めている。
実際、璃空と縁が仲良くしているのを見るのは、嬉しかったりもする。
どちらも大事な友だちだ。二人が楽しそうにしていると、俺も楽しいし嬉しい。受験勉強の時も随分助けてもらった。
つくづく俺は良い友だちに恵まれているなぁ。
そんな俺の思考を遮るように、教授が教壇に立ったのを見て、頭を切り替える。
色んな事を頭の片隅に追いやって、残りの講義に集中することにした。
「あ、おーい! 縁~!」
少し長引いた講義を終えて小走りで図書館に行けば、もうすでに縁が入口で待っていた。きょろきょろと辺りを見回していた縁は、俺たちに気付くと、ぱっと表情を明るくして満々の笑みになる。
「洸ちゃーん、璃空ー!」
「待たせて悪い!」
二人して駆け寄ると、ニコニコと笑ってくれる。縁を見ると、こめかみから汗が落ちていくのが目に入った。ずいぶん待たせてしまったらしい。
「中で待ってて良かったのに。暑かったろ」
「ううん。そんなに待ってないし大丈夫だよ」
俺が聞いても、縁は首を横に振った。本当に良い奴過ぎて、いろいろと心配になる。多分弟がいたらこんな感じなんだろうな、と縁を見ていると良く思うのは本人には内緒だ。
とりあえず中に入ろう、と声を掛けて冷房の効いた図書館へ入った。
高校の図書室とは比べ物にならないくらい、大学の図書館はデカいし山ほど本がある。入館証を入口ゲートにかざさないと入れないから、セキュリティも割としっかりしている。この大学の生徒は、学生証が入館証の代わりに使えるので、本当に何度も使わせてもらっている。
特にお気に入りなのが、飲食・私語OKの自習スペースだ。併設されたコンビニを活用して、時間を潰すにはもってこいの場所だった。それとは別に私語厳禁の場所もあるから、集中したい人はそっちを使うこともできる。
今日の俺たちが使うのは、もちろん私語OKの自習スペースだ。
「縁は何のレポート?」
「社会心理学のレポートだよ。SNSの言動から読み解く人の心理について、みたいなやつ。実例を挙げながらやらなきゃなんだ」
「うげぇ、大変そうだな」
「でも意外と楽しいし、洸ちゃんより大変じゃないと思う。あと7個もあるんでしょ?」
縁の言葉に、バッと璃空を見れば肩を竦められた。チクったなこの野郎。
「まあ俺は璃空が手伝ってくれるから」
「え!? 大丈夫なのそれ」
「手伝ってもらうっつっても、めぼしい論文とか文献をピックアップしてコピペしてもらう作業のとこだよ。それを踏まえての見解とか自分の意見とかは、さすがに俺が書かないとな」
「洸ちゃんのそういう誤魔化さないって決めてるところ、好きだなぁ。ね、璃空?」
「うん、そうだな」
「なんだよ二人して。おだてても何もでねーよ?」
仕方ないから後で缶コーヒーおごってやる、と言えば二人とも喜んでくれる。全くこいつらは本当に俺をおだてるのが上手い。
グループ用の四人掛けの机を陣取る。
俺は璃空に自分のフラッシュメモリーを渡してから、手書き必須のレポートに取り掛かり、璃空と縁はノートパソコンと向き合う。いざレポートを始めると、俺たちはほとんど話さなくなった。
「洸、ちょっといいか?」
ふと横に座っていた璃空に、指でちょんちょんと手首をつつかれる。
「待って、……ん、なに?」
とりあえず返事をしながらキリの良い所まで書いてから、顔を上げた。璃空が指をさしている文言を目で追う。
「この文献、調べたら最新版出てるっぽくて、ちょっと文言変わってるみたいなんだけど、どうする? 新しい方引用する?」
「あー、あの教授って新旧にこだわる人だっけ」
「情報は新しい方を優先させるのが望ましい、って講義で確か言ってた」
璃空の言葉を聞きながら、講義の内容を思い出してみる。確かに、眼鏡をくいっと少し上げながらそんなことを言ってた記憶が蘇る。ここはいついつに改訂があってどうのこうの、という話もよくしていた気がする。
「確かに言ってたな~。じゃあ差し替えてもらっていい?」
「りょーかい。他のもありそうだったら差し替えとく」
「まじ助かる。さんきゅ」
パソコンの画面から璃空へと目を移す。あれ、と思う。璃空が見慣れない眼鏡をしていた。金の線の細い丸眼鏡だ。俺がつけたら絶対にダサく見えるだろうが、璃空だととても洒落て見える。
「え、お前、眼鏡してたっけ?」
思わず声に出した俺に、嗚呼、と気付いたように声を上げた璃空は、眼鏡に手を添えてふふん、と笑った。
「ブルーライトカット用のやつ買ったんだ。洸が見るの初めてだっけ?」
「初めてだな。驚いたわ」
「どう? 似合う?」
「おー、似合ってる。より知的に見えてカッコいいぞ」
もともと璃空は外見も中身も知的だが、眼鏡をかけるとさらに拍車掛かって見えた。ガリ勉と揶揄されるような部類ではなく、垢抜けているインテリ系、とでも言えばいいだろうか。
そう言ったら、きょとりと目を丸くしてから璃空は目元を少し赤くして笑った。
照れ臭そうなのに、これ以上ないってくらい嬉しそうに。
自分の心臓の辺りから、キュン、という音がした気がした。
作業に戻った後も横目で見た璃空は、今にも鼻歌が聞こえてきそうなほど上機嫌。そんな彼に時折心臓だか胸だかが変な音を鳴らす。
どうしちまったんだ俺は。
少し考えてみる。まあ確かに璃空は時々可愛い所がある。兄がいる、と前に言っていたから、甘えるとか感情を素直に表現するところもある。そう考えると、猫や犬の動画にキュンとして愛らしいなと思うのと、多分似たような感じな気がしてきた。
そう思うのに、いつまで経っても調子を崩したままの心臓。
とりあえず、自分を落ち着かせるために立ち上がる。
「俺ちょっとコンビニ行ってくるわ」
「うん、いってらっしゃい」
「洸、微糖のコーヒー買ってきて」
「おー、いつものな。縁は?」
「じゃあカフェオレ、頼んでいい?」
「おけ~」
スマホと学生証だけ持って、図書館を出る。
四限終わりにはまだ高かった太陽は、随分と西に傾き始めていた。また頭にあの光景が掠めた。
「香村くん」
背中に掛けられた聞き慣れない声に、振り返る。
「え? ……山川さん?」
立っていたのは、山川想実という同学年の女子学生だった。
すらりとした長身。パッツン。背中まである黒髪。ジーパンにTシャツという飾らない恰好を好んでいるけれど、いつも真っ赤なルージュをつけていて、それが凄く似合っている女子だった。
何故こんなに知っているかというと、彼女は良く目に入ってきたし、丁度数日前に講義のペアワークで話したからだった。
数日前に話しただけの俺に、彼女がどうして声を掛けてきたのか分からない。
「えっと、俺で合ってる?」
コクリと山川さんは頷いた。彼女の体の前で結ばれた指先が、不安げに動いているのが見える。緊張がこっちにも伝わってきて、自然と俺の背筋も伸びた。
「急に呼び止めてごめんなさい。少し話したいんだけど、いいかな?」
「あ、うん。いいよ」
ちょっと場所を移したい、といった山川さんに了承して、彼女についていくことにしたのだった。
恋はするものじゃなくて、落ちるもの。
そう言ったのはどこの誰だっただろうか。
姉が描いているマンガで読んだ言葉だったかもしれないし、昔の文豪が物語の中で書いた言葉だったかもしれない。
俺の頭の中でいま、その言葉が反響している。
山川さんが、目の前でぽろぽろと涙を落としている。あの夏の日みたいに、夕陽が彼女の輪郭をなぞって、きらきらと光っている。涙が止まらないらしい彼女をぼんやりと見つめて、今さっき言われた言葉を思い返す。
――香村くんの恋人にしてくれませんか。
どうしてそんなことを言ってきたのか、全く分からない。
だって彼女とは数日前に初めて話した――しかも講義の中のディスカッションで趣味の話をしたわけでもない――だけで、それ以上関わりがあったわけでもない。
山川さんは結構目立つ人だったから、一方的には知っていた。だが俺は、彼女の目に入るほど有名ではないと思う。学年内で有名な璃空なら分かるけれど。
一体俺の何が彼女の琴線に触れたんだろうか。心当たりが全くない。
それに泣いている理由も分からなかった。俺が告って振られて泣くなら、まあ玉砕したんだな、と納得がいくけれど。
ただ、彼女が彼女自身の想いを言葉に懸命に詰めたことだけは、はっきり分かる。
でもどうして、俺に?
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
ハッと思い直してポケットを探る。未開封のポケットティッシュを取り出して差し出したら、山川さんは不意を突かれたのか、弾かれた様に顔を上げて俺とティッシュを交互に見た。
「よかったら使って。あんまりいいやつじゃないけど」
登校する時に駅前でもらった物だ。彼女はまたくしゃりと顔を歪めて、ありがとう、と滲んだ声で受け取ってくれる。
もしかして罰ゲームか何かで、俺に告白をしてきたのだろうか。
過ぎった考え。周りを見回したけれど、夕陽に照らされた中庭には俺と彼女以外誰もいなかったし、物陰に人影も誰かの足音もない。
もう一度山川さんを見れば、ティッシュを両手で握り締めたまま、やっぱりぽろぽろと涙を落としている。そんなに泣いたらきっと目が真っ赤に腫れてしまうのに、彼女の涙は止まりそうにない。
「山川さん、少し歩かない?」
多分このままだと彼女は泣き止まない。そんな気がした。
一つのことを意識しているとずっとそればかり繰り返してしまうから、別のことをして気を紛らわせる方がいい。そう教えてくれたのは、専攻が心理学の縁だ。マジでありがとうな、縁。
俺の提案に、山川さんは頷いてくれた。
人があまり通らなそうな場所を選んで、遠回りしながらコンビニへ向かって歩く。
山川さんも落ち着いてきたのか、鼻をすする音の間隔が空いてきた。
ほっと胸を撫で下ろして、口を開く。
「落ち着いた?」
こくんと首が縦に振られる。よかった、と笑えば、恥ずかしいのか彼女は下を向いてしまった。
「さっきは驚いて何も言えなかったけど、山川さんの気持ちは素直に嬉しかったよ。伝えてくれてありがとう」
また、こくんと首が振られる。彼女の横顔の輪郭を夕陽が象って、光っている。黒髪も夕陽に透けると黄金色にみえるんだなぁ、と場違いなことを考えながら、ゆっくりと歩いた。
段々鮮明になってくる思考で、一つの結論を導き出す。
「さっきの返事だけど、少し待ってもらえるかな。ちゃんと考えたいんだ」
辿り着いたコンビニの前で、足を止めて自分の想いを伝える。
山川さんは口を引き結んで、ゆっくりと頷いた。その瞳にはさっきまでの涙はない。
意思の強そうな光を放つ瞳を見つめて、ありがとう、と伝える。
「ちょっとここで待ってて」
山川さんを待たせて、頼まれた微糖の缶コーヒーとカフェオレ、自分用の緑茶と、小さめのほうじ茶を手にとって、さっと会計を済ませて彼女の所に戻る。
待っていてくれた山川さんに、半ば押し付けるようにほうじ茶を渡す。少し戸惑っているようだったけれど、泣いた分の水分は取ったほうがいいと思うのだ。自己満足と思われようが構わない。返事も待たせてしまうから、お詫びの意味もある。
「次の『哲学と歴史』の講義までには必ず返事するから」
「うん。……ごめんね、香村くん。困らせるようなこと言って」
「気にしないで。俺がちゃんと考えたいだけだから」
じゃあまた、とその場を離れる。
図書館に入る前にもう一度見た彼女は、握り締めたほうじ茶を見つめていた。
自習室に向かいながら、さっきの一幕をもう一度頭の中で反芻する。
初めて告白された。
でも不思議と、心臓はいつも通りのリズムで動いている。まだ実感がないからなのかもしれない。飛び上がるほど喜ぶのを想像していたのに、意外と冷静だな、と他人事のように思う。
本来ならあの場で返事をするべきだったのだろう。
でも、恋人にしてくれませんか、という言葉を聞いた時、真っ先に頭に浮かんだのは璃空だった。
どうして璃空が浮かんだのかは、俺自身も分からない。
こっちが本気じゃないのが申し訳ないから、という璃空の言葉を聞いていたからだろうか。それか何となく、二人に相談したいと思ったからかもしれない。
はあ、と一つ溜息を落としてやっとたどり着いた自習スペース。
そろりと、自習スペースの入口から中を覗く。
璃空も縁も相変わらずパソコンの画面を食い入るように見ていて、頬が緩んだ。
肺に溜まっていた何かが、全部鼻から抜けていく。
俺自身、随分と緊張していたんだな、とこの時初めて知った。
人の想いに触れる時、しかもそれが自分に向けられるなんて経験、今までしたことがないのだから当然と言えば当然なのだが。
ふと顔を上げた縁と目が合って微笑みが返される。
柔らかく漏れた息をその場に落として、俺は引き寄せられるように二人の元に戻った。
小さく手を振ってくれた縁につられたのか、璃空も顔を上げる。
「遅かったね。コンビニそんなに混んでた?」
カフェオレを受け取りながら縁に聞かれて、いや、と煮え切らない返事をする。続けて璃空にも、缶コーヒーを手渡した。誤魔化すこともできたのに、首を傾げたまま見つめてくる縁を見たらするりと零れ落ちてしまった。
「実は……、コンビニに行く前に呼び止められて、告られたんだ」
えっ、と縁から声が聞こえたのと、カンッと甲高い大きな音がしたのは同時だった。
ぱっと音が聞こえた方に目を向ければ、璃空が缶コーヒーを落としたらしかった。幸いにも、もう帰ってしまったのか、その自習スペースには俺たちしかいない。だれも驚かせなくてよかった、と思いつつ缶コーヒーを拾い上げる。
「大丈夫か? ここに置いとくぞ」
「え、あ、あぁ、ごめん。ありがと」
「ちょっと待って、洸ちゃん。告られたって誰に?!」
少し声を潜めて、でも興奮したように縁が聞いてくる。ええっと、と頬を掻く。
「同じ学年の、山川想実さんっていう子なんだけど。一年の時、共通科目の英語の講義で俺たち全員と一緒だったんだけど、覚えてるか?」
「う、うん。覚えてる。けど、」
ぎこちなく言った縁の視線が、一瞬璃空へ向く。つられるようにして見た璃空は、一切の表情を削ぎ落していて、ぼんやりとしているように見えた。聞いているのか聞いていないのか分からないが、多分聞いている、はずだ。
縁に視線を戻すと、言葉を選ぶように視線を彷徨わせながら、恐る恐る縁がまた聞いてくる。
「えっと、それで洸ちゃんは、その……、山川さんと付き合、」
「よかったじゃん!」
突然の大きな声に、びくりと肩が揺れる。
縁の言葉を遮ったのは、ほんの数秒前までぼんやりとしていた璃空の声だった。目を瞬く俺に構わず、璃空がすらすらと口を動く。
「お前も、やっと春が来たんだな、洸! ずっと彼女欲しいって言ってたもんなぁ。いや~、ホントに長かったなぁ。でもこれで俺も一安心だわ。とうとう洸にも彼女かぁ、めでたい! あ。っていうかその前に、お前山川さんにちゃんと返事はしたのか?」
さっきまでの呆けていた璃空なんて存在しなかったように、捲し立てられる。璃空の勢いに気圧されたまま、何とか言葉を紡いだ。
「え、えっと、実は返事はまだしてないんだけど」
「なんでだよ! ダメだろ、相手のこと待たしちゃ」
そういうもの、なのだろうか。
初めてのことだらけで分からない。でも確かに璃空の言う通り、返事を待ってもらうのは悪いとは思う。本当なら、その場で返事をした方が自分も相手もすっきりするだろうし、散々待たせた挙句、やっぱり無理です、なんてことは失礼かもしれない。
じゃあ、試しに付き合ってみようか、と言えばよかったのだろうか。
でも、それはそれでどうなんだろう、と思う。
山川さんのことが心底好きだったら即決だった。でも今、彼女への特別な感情はほぼゼロと言っていい。カッコよくてキレイな人だし好ましいな、とは思う。でもそれ以上の感情はないのだ。
そんな状態で本当に恋人になったら山川さんに失礼じゃないだろうか、と思う気持ちの方が強いのだ。
うーん、と言いながら机に置いた緑茶のペットボトルを弄ぶ。
「でも俺がどっちつかずの状態のまま、ハイ付き合いましょう、って言うのもどうかと思ってさ。少し考えさせてほしいって言ったんだ。ほら璃空も、こっちが本気じゃないのに申し訳ない、って思うって言ってただろ? それと似たような状態だなって思ったから」
緑茶から璃空へと視線を戻した時、璃空は無表情だった。のは一瞬で、パッと明るい満面の笑みが浮かぶ。
「俺は俺。洸は洸だよ。お前って奴は、せっかくのチャンスを逃がすつもりか?」
「それ、なんかすげー不純に聞こえるの、俺の気のせいか?」
「別に不純じゃないよ。実際、山川さんが嫌なわけじゃないんだろ?」
「まあどちらかと言えば好ましいとは思うけど」
でも、と言い淀んだら、パンッ、と勢いよく背中を叩かれた。おかげで危うく俺は机の上にダイブするところだった。なにするんだ、と見た璃空は、屈託なく笑って言った。
「なら尚更だよ。洸、あのな。付き合ってから、だんだん好きになる事だってあるんだよ」
その声色は、とても優しい音をしていた。
迷っている俺の背中を、一歩踏み出してみよう、と押してくれるような、大丈夫だよ、と言い聞かせるような、確かに璃空のいう通りかもしれないと思わせるような、そんな柔らかい音だった。
「そっか。そうかもな」
何度か頷いて、顔を上げる。
自分の気持ちを正直に伝えて、それでも良い、と山川さんが言ってくれるなら、付き合ってみよう。何事も経験だ。
そう決めてしまえば、早かった。
「ちょっと俺、もう一回山川さんに会ってくる」
言うや否や足を出入口へと向けた。走ることは禁止されているから、早歩きをするしかない。
まだ彼女はいるだろうか。
あのコンビニの前で、立ち尽くしているなら、この気持ちをちゃんと伝えたい。
そんな事を考えていた俺は、俺の背中を見送った璃空がどんな顔をしていたかなんて、知るはずもなかった。
***
いつまでも洸ちゃんが出ていった扉を見つめたまま、璃空は動かない。
今にも駆け出してしまいたいはずなのに、机の上で強く拳を握り締めて耐えているのが分かる。璃空の心の悲鳴を隠すように、拳が震えている。
その姿に僕の方が泣きたくなる。
どうして我慢するの。自分の気持ちに素直になってもいいんだ、って教えてくれたのは璃空なのに。どうしてそれを自分に当てはめないの。でももしも、この疑問を璃空にぶつけてもきっと答えはこうだ。
――洸を困らせたくないんだ。それ以上に、一緒にいられなくなる方が嫌だ。
胸のもっと奥が痛かった。
いつも自信に満ち溢れているように見える璃空は、本当に大切なものに対してだけ、ほんの少しだけ臆病になる。それを目の当たりにした時、ああ彼も僕と同じ人間なんだな、と僕たちが恋人じゃなくなった高二の冬の日に初めて知った。
だからこそ、璃空の背中を押してあげたいのだ。
洸ちゃんに想いを伝えたとしても、きっと洸ちゃんは受け取ってくれる。同じ想いを返してくれなかったとしても。それの所為で態度を変えたりするような人じゃない。さっきだってそうだった。そんなに話したこともない筈の女の子の告白をちゃんと受け止めて、相手のことをしっかりと慮れる。
そんな洸ちゃんが、璃空を拒絶して一緒に過ごすことをやめるなんて、考えられない。
でも人というのは近くに居すぎると、そういうことも見えなくなることがある。
人によって理由は様々だけれど、璃空の場合は、洸ちゃんをあまりにも大切に思うが故だ。
だったらここは僕が、璃空の一歩を踏み出させてあげたい。
その一心で、喉を動かした。
「本当に、よかったの?」
ぴくりと体を揺らした璃空は、それでも黙ったままだった。
知っている。璃空が洸ちゃんを好きなこと。
高二の時、別れようと言われる前から、ずっと知っている。
洸ちゃんと出逢った璃空は、少しずつ変わっていったのをすぐ近くで見ていたから。
洸ちゃんと関わるようになってから、璃空のいつも浮かべていた当たり障りのない笑顔が、心の底からの笑顔に変わった。年相応に大きな口を開けて笑うようになった。
その笑顔を見た時から、覚悟していた。
きっと遠くない未来に、僕は璃空の恋人じゃなくなる、と。
でも何故だろう。不思議と悲しくはなかった。
璃空みたいに優しい人が心の底から笑えるようになったのが、嬉しい気持ちが一番大きかったから。その相手が洸ちゃんだという事実が、よりその気持ちを大きくさせたように思う。
洸ちゃんが、僕たちを受け入れてくれた初めての人だったから。
あの夕暮れの、キスを見られた日。
暗い海の底で苦しくて藻掻く僕たち二人の手を、洸ちゃんが強く掴んで救い上げてくれた。
少なくとも僕にとってはそうだった。同性を好きなことは悪いことだ、と自分自身に言い聞かせていた僕に、別に悪いことはしてないだろ、と否定してくれた。洸ちゃんは当然のように言ったけれど、僕は本当にあの言葉に救われたのだ。
みんなが言う『普通』じゃなくたっていい。僕は僕で良い。
そう自分を肯定できたのは、洸ちゃんのおかげだった。
だから、これは僕の勝手な願いなのは知っているけれど、璃空と洸ちゃんが恋人同士になってほしいのだ。
璃空が一番璃空らしくいられるのは、洸ちゃんの隣だと、はっきり言える。
ずっと見てきたから。
だから璃空にも、自分の心に嘘を吐いてほしくなかった。
「今ならまだ間に合うよ」
ぐっと璃空が奥歯を噛み締めたのが、顔のこわばりで分かった。
必死に自分の中の衝動を抑え込んでいるのだ。今すぐにでも洸ちゃんの元に行きたいはずなのに、自分勝手な想いをぶつけたくない、その一心で抑え込んでいる。
その意地を壊したくて、僕はさらに追い打ちをかける。
「他の人に、洸ちゃんを取られちゃって、本当にいいの?」
顔を下げた璃空の顔が、前髪で見えなくなる。
少しの沈黙の後、ふ、と机に乗っていた拳から力が抜けた。ゆっくりと顔を上げた璃空は、僕へと向き直る。眉を下げて笑っていた。ずきりと胸の奥が痛くなる。
「俺は、洸がしあわせならそれで良いんだ」
噛み締めるように、璃空は言った。僕は何も言えなかった。
「あいつが嬉しそうなのが一番嬉しいんだ。その相手が俺じゃなくても、あいつが嬉しいならそれで良いんだ」
その言葉は、まるで璃空が自分自身に言い聞かせるようだった。
こんな言葉で自分を納得させられるのなら、僕たちは苦労しない。こんな言葉で相手への気持ちをなかったことに出来るなら、もっと僕たちは楽しい毎日を送れる。
璃空の本当の願いは、自分が恋人として洸ちゃんの隣にいて、同じ時間を過ごして、泣いたり笑ったりすることのはずなのに。それでも璃空は、その選択肢を最初からないものとして扱う。
どうして、と思う。
自分の想いを押し殺して隣にいるのは、辛いはずなのに。
それを初恋の時に痛いほど経験したって言っていたのに。
苦しくて耐えがたいことを選んでしまうなんて。
でも、これが璃空の覚悟であり、結論だから。
それなら、僕にこれ以上できることはない。背中を押してあげることも、寄り添ってあげることも出来ない。だから、これだけは言わせて欲しい。
「本当に璃空ってばかだよ。正真正銘の、ばかやろうだよ」
滲んでしまった視界と声を隠すように下を向いた。
うん、知ってる、と言った声は僕と同じように滲んでいた。
どうか、と願う。
璃空の想いが、いつか報われますように。
報われないのなら、優しく溶けて彼の糧になりますように。
大事な友だちが、これ以上苦しい思いをしませんように。
存在しているかもわからない神様に、そう願うことしか僕には出来なかった。
(青天の霹靂 おわり)
