缶コーヒーと水、自分用の緑茶を買って、図書館に戻る。
さっきまで凪いでいたはずの心臓が、少しだけ速度を上げて脈打っている。璃空が妙に緊張しているのを見たから、伝染してしまったのかもしれない。
そうだとしても、伝えることは決まっている。俺の言葉を聞いた上で、璃空がどんな結論を出しても受け入れるつもりだ。
正直に言うと、怖い。人の気持ちは、いつ何時変わってしまっても可笑しくないから。璃空が今、俺のことを大切に思ってくれているとしても、俺の言葉を聞いて冷めてしまうことだってあり得る。
それでも、俺は伝えなければいけない。
有耶無耶にしておきたくないから。
ぎゅっと握り締めたペットボトルが、悲鳴を上げたのも気にせず、俺は自習スペースへと足を進めた。そっと扉から見た璃空は、俺が座らせた場所に座ったまま、膝の上で握り締めた拳を見つめていた。その顔にはやっぱり緊張が見える。
ふっと漏れた息を隠さずに、近付きながら声を掛けた。
「わり、待たせた」
ぱっと顔が上がるのと同時に、ううん、と璃空はぎこちなく笑った。缶コーヒーと水を璃空の前に置いてやれば、不思議そうに見上げて見上げてくる。
「外暑かったし、缶コーヒーだけじゃ足りないと思ってさ」
「……ありがと。いただきます」
また敬語だ。いつも通りでいい、と言おうとしてやめた。それだけ璃空にとっても大事な話だと思ってくれているなら、余計なお節介だからだ。緊張しなくていいといわれて簡単に解けるなら、誰も苦労しない。
俺も席に着いて、とりあえず緑茶を口に流し込む。体に沁み込む爽やかさに背中を押されるように、口を開いた。
「まずは、この前は色々悪かった。あと、長く待たせちまったことも、ごめん」
うん、だか、ううん、だか分からない返事を聞いてから、テーブルの上で両手を組んで、更に言葉を重ねる。
「あのまま話しても解決しないと思った。俺もお前も冷静じゃなかったから、一人で考える時間が欲しくて、連絡しないでくれって言った。今後の俺の為にも必要だと思ったから」
合わせた視線は、しっかりとかち合った。俺も璃空も逸らすことなく、ただ真っ直ぐにお互いを見ている。
うん、と今度は、はっきりとした相槌が耳に届いた。
「めちゃくちゃ考えた。だけど、結局いつも同じところに辿り着いた」
家にいる時はほぼずっと考えた。
でも何度考えても同じだった。色んな可能性を考えて、それでもやっぱり同じ場所に辿り着いた。なら、俺にとって答えはここだ。
「璃空の事が好きだよ」
見つめていた璃空の瞳がゆらりと揺れた。
「お前がずっと好きだったって言ってくれた前から、きっと俺はお前が好きだったんだと思う。一人で考えてた間に、いろんなこと思い出した。山川さんに恋人になって欲しいって言われて、真っ先に浮かんだのは璃空だったことも、彼女と付き合ってる時、事あるごとにお前が頭を掠めたのも」
いつから好きだったのかと言われても、正確には分からない。でも告白されて璃空の顔が頭を過った時には、もう無自覚で好きだったのだと思う。
璃空と一緒にいるのは息がしやすかったし、この時間がずっと続いたらいい、とどこかで思っていた。そして多分、璃空が誰とも付き合おうとしないことに、安堵していた俺もいた。前に縁に恋人とすることを聞いた時、二人がキスしている光景を思い浮かべて心臓が嫌な音をたてた原因が、此処にあったのだと妙に納得した。
「お前が『ユキちゃん』と話してたことも、お前を取られたら嫌だと思ったからあんなにモヤモヤした。俺が勝手に嫉妬しただけで、お前にとっての『ユキちゃん』がどんな人物でも、結局は俺の問題で、それを棚上げしてただけだって気付いた。姉ちゃんの『恋の寿命は三年』なんて言葉、真に受けてお前の気持ちを疑って、八つ当たりした。それだけだったんだ」
洸が思うような関係じゃない、と璃空は言ってくれたのに、信じなかったのは俺だ。勿論璃空がその場凌ぎの嘘を吐いていた可能性もあったけれど、縁がきちんと否定してくれた。そもそも悲しいと思うくらいなら、直接自分で最初から聞いておけばよかっただけだ。それなのに、洸のことをもう好きじゃなくなった、と言われるのが怖くて。俺は逃げたのだ。対話することから逃げて、制御できなかった気持ちを璃空にぶつけてしまった。
「悪かったと思ってる。謝って許されるようなことじゃないけど、好きだって言ってくれたお前の気持ちを疑ってごめん」
頭を下げて、組んだ両手を見つめた。
璃空は何も言わない。ぐっと口を引き結ぶ。
罵倒されようが幻滅されようが何だろうが、俺の意思はきちんと伝えるべきだ。後悔しなくて済むように。
組んだ両手に力を入れて、顔を上げた。見えた璃空の顔に嫌悪は浮かんでいなかった。
「でもまだチャンスを貰えるなら、俺はお前の恋人でいたいんだ。お試し期間とかじゃなくて、本当の恋人として、お前の傍に、……!?」
傍にいたい、と言おうとして言葉が止まる。
璃空の瞳からぽろりと一筋の涙が落ちたから。
一瞬思考が停止した。再び思考が戻ってきて、璃空が泣いているという事実を理解した。
な、泣かせるほど酷いこと言ったか、俺!?
原因が何も分からないまま慌てて立ち上がって、ハンドタオルを持って璃空に駆け寄る。
「ご、ごめん。なんか俺酷いこと言ったか?」
そのままタオルを璃空の目元に押し付けようとしたのと同時。手首を掴まれた。目を瞬いている間に俺の方へ体ごと向いた璃空に、もう一方の手首も取られて、ハンドタオルを持ったままの両手を璃空のそれで包み込まれる。そのまま持ち上げられた両手が、璃空の額に当てられた。ときおり落ちてくる水滴の感覚で、泣いているのは解るのに璃空は何も言わない。
「璃空?」
「ありがとう、ほんとうにうれしい」
弱弱しくて滲んでいる声は、しかし俺の耳にはしっかりと届いた。もう一度小さく、ほんとにうれしいんだ、と言った璃空はそのまま黙ってしまった。でも俺には、その言葉たちだけで十分だった。
「そっか」
自分で聞いていても解るほど緩んだ声も、きっと璃空には届いたんだろう。両手をもっと握り締められた。俺が思ったことと言えば、片手でも解放してくれたらその背中を撫でてやれるのにな、くらいで、勝手に取られた両手を額に当てられたまま、璃空が離してくれるまでずっとそうしていた。
少しずつ傾き始めた陽の光をぼんやりと眺めていたら、璃空の頭が上がり始めたのが目の端に見えて、俺も璃空の方へと視線を戻す。
目が合った瞬間、ふっと笑ってしまったのは、璃空の目とまなじりが赤くなっていたからだ。
「泣きすぎで目が腫れないように、ちゃんと冷やせよ」
うん、と言った声は滲んでいてまた柔らかい笑いが零れた。幾分か緩くなった両手の中から手を抜き取って、とりあえず頬に垂れている涙をタオルで軽く拭いてやる。素直に瞼を閉じてされるがままになっている璃空が、やっぱりかわいく思えてしまうが本人には言わないでおく。
拭き終わったのに、まだ目を開けようとしない。
そんな璃空の顔が、窓から入ってくる西日に照らされて光っていた。あの日とは違う、でも同じ夕陽が璃空の輪郭を撫でている。
綺麗だ。キスしたいな。
まるで吸い寄せられるように、その唇に触れるだけのキスをした。
ぱっと璃空が目を見開いたのと、俺が離れたのは同時。目が合って、へへ、と笑ってやれば、璃空の顔が夕陽の所為ではない赤みを帯びていく。声にならない声を上げた璃空が、片手で顔を覆い隠して言った。
「なんなのまじでかわいすぎなんだけどおれ今日しぬのかなしにそう」
「はははっ、おおげさだなお前」
笑って言ったら気に喰わなかったのか、腰を抱き寄せられて腹に額を擦り付けられた。いじけてるのかな。そんなことは思っても、煩わしいとも嫌だとも思わないから、璃空は俺にとってやっぱり好きな人なのだろう。背中に手を回して、ヨシヨシ、と撫でてやれば、ますます腕に力を入れられた。
そんな璃空に笑いながら、そういえば、と璃空を見下ろしながら声をかける。
「で、璃空は俺を恋人のままでいさせてくれるのか?」
勢いよく上がった顔。璃空は真剣な顔で俺を見てから、ゆっくりと口を開いた。
「そんなの、俺がお願いする方だよ。洸がこの世の誰よりも好き。俺と一緒にいてください」
胸の奥から熱くて甘くて痺れるような感覚が、溢れて全身に広がっていくような錯覚に陥った。大げさだ、と思う頭とは裏腹に、璃空の真っ直ぐで熱量のある想いに物凄く喜んでいる自分がいる。こちらこそ、という声は自分でも驚くほど、バニラアイスが溶けたような甘さがあって、また笑ってしまった。
「ねえ、洸」
「ん?」
「もう一回キスしたい」
「しかたねーなぁ。いいよ」
満足そうに笑った璃空が顔を近づけてきたから、俺も少し屈んで素直に瞼を閉じたのだ。
帰り道に、璃空は『ユキちゃん』とそれに関わる諸々のことを教えてくれた。
彼とは血の繋がらない兄弟であること。初恋の相手であること。寝込みに同意なしのキスをしようとしてしまったこと。その時から避けられるようになってしまったこと。付き合う人には、忘れられない人がいるがそれでもいいなら、と伝えていたこと。高校の時は縁に『ユキちゃん』を重ねて付き合っていたこと。それを縁も知っていること。今は『ユキちゃん』を家族として好きなこと。この前は久しぶりに会えてはしゃいでしまったこと。
璃空は、包み隠さずすべてを話してくれた。すべて言わなくてもいい、と言った俺に、俺が知ってほしいから、と璃空は照れくさそうに言った。
出来る限りゆっくり歩いたつもりだったのに、璃空と歩くとやっぱりあっという間に、もうすぐ駅という所まで来てしまった。何となく離れがたくて、なあ、と声をかけると俺を見て、ん? と目元を緩めてくれた。
ああ、すきだな。緩んだ頭で思いながら口を開く。
「俺んち泊って行かねーの?」
ぴたりと足を止めた璃空につられて、足を止める。見た顔は、じわりと赤くなったのが夕闇でも分かって、目を瞬く。手のひらで口元を隠しながら、小さな声で璃空は言った。
「いや今日はやめとくよ。一緒にいたら襲っちゃいそうだし」
「そ、そ、そうだよな! あはは!」
璃空のが移ったみたいに俺まで真っ赤になって、何も面白くないのになぜか笑ってしまった。うん、と言った璃空はますます赤くなって、今度は顔全体を手のひらで覆っている。
なんだこれクソ恥ずかしいな!? 本当に地元の奴に見られなくて良かった! ここが大学周辺かつ夏休み中でマジで良かった! 大学に場所指定した俺ガチでグッジョブすぎ!
恥ずかしさで少しギクシャクしつつ、やっと辿り着いた改札前。さらなる驚きが俺たちを待ち受けていた。
「電車何時だっけ?」
「そーいや、調べてなかった。調べるわ」
「うん」
改札近くから見える電光掲示版には、あと十分後に乗り換えの駅まで行く電車が表示されている。だが下手に来た電車に乗ると、クソ暑い駅でかなり待つことになる。乗り換えが一番スムーズに行く電車に乗れるなら、少し待っても近くのファミレスとかで時間を潰した方が良いな、なんて考えていた時だった。
「えっ」
驚いたような声に、璃空へ目を向ける。
「どした?」
「……ローカル線、人身事故で止まってる」
二人の間に沈黙が落ちる。
つまり、だ。乗り換えの駅まで行っても電車はない。運転再開の見込みはいつか解らないが、かなり待つのは必須だ。そんなのを待たせるくらいなら、いっそ。そう思って俺はさっきと同様の提案を投げかけた。
「あー、璃空さえよければ、俺んち泊ってく?」
少しの沈黙の後、おねがいします、と聞こえた声があまりにも小さくて。また笑ってしまったのは許してほしい。対して璃空はガチで反省しているのか、俺の両肩を掴んで捲し立てた。
「ホントにマジでごめんカッコつけて帰るとか言ったくせにこんなことになってマジで申し訳ないカッコ悪すぎて穴があったら入りたいでも絶対に襲わないって約束するからホントにガチで神に誓って約束する」
「いや人身事故は仕方ねーし、お前の所為じゃないだろ。それより下着とか必要なやつ買いに行こうぜ」
全力で落ち込みまくっている璃空を宥めながら、とりあえず必要なものを買うためにスーパーへと足を運んだ。あれこれと用を足している内に璃空は調子を取り戻したし、俺の家に来てもソワソワしつつも、なんやかんや楽しんでいるようで内心ホッとした。
お風呂に入る時も、一緒に入るか? と揶揄ったら、顔を真っ赤にしてガチ切れしていてまた笑ってしまった。今日だけで色んな顔を見てしまったけれど、まだまだ飽きそうな気配は皆無だ。
床で寝ると言って聞かなかった璃空を無理矢理ベッドに寝かせて、別のタオルケットにくるまったのは一時間前のこと。あれだけ眠れないと喚いていた璃空は、今や心地よさそうな寝息を立てて俺の隣で寝ている。
漏れた笑いを空気に放って、璃空の顔にかかっている前髪を後ろに流してやる。深い眠りについている璃空の穏やかな寝顔を見ながら思う。
今まで見た中で、一番忘れられない光景は?
そう聞かれたらいつだって、高二の夏のあの夕暮れが浮かんでいた。きっとそれはあの夕暮れのあの瞬間に、俺が恋をしてしまったからだ。バカみたいな考えだと笑われるかもしれないが、割と本気でそう思っている。あんなにも鮮明に記憶に残っていた理由が、これなら俺自身が一番納得できるから。
でもこれからは、きっと。
璃空と一緒にいる何かの光景が、その座に居座るようになる。誰かの物語をみるような光景ではない、俺と璃空が主役のそれ。そんな予感がある。
これからも色んな事があるだろう。嬉しい事も悲しい事も、苦しい事も色んな壁にぶつかる事もあるだろう。そのたびに俺たちはぶつかったりするのかもしれない。でも一緒に乗り越えていけたらいい。
記憶の中に焼き付いて消えない光景を、璃空と一緒に残せたらいい。
なんて。
ずいぶんと頭の中のねじがゆるんでるなぁ。
そんなことを思いながら、笑みを零して目を閉じた。
そんなふうに眠りについた俺が、翌朝、声なき悲鳴と共に璃空がベッドから落ちた音に叩き起こされるのは、また別の話だ。
(たそがれに、恋 完 )
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最後までお付き合いくださって本当にありがとうございました!
