ベッドに寝ころんで、スマートフォンの画面をぼんやりと見つめる。いくら見ても、暗い画面のまま少しも通知を寄越さないスマートフォン。はあ、と溜息を吐いてベッドの上に放った。
目元を腕で覆い隠す。閉じた瞼に映るのは、滅多に見せない涙を零した洸の姿だった。はぁ、とまた出た溜息をどんよりとした空気が包む部屋に落として、枕に顔を埋めた。
――今のお前とは話したくない。
そう言われた夜から、二週間近くが経った。
あの後、洸からの連絡はない。その代わりに、縁から連絡があった。
『洸ちゃんから連絡があるまで、
璃空からは絶対に連絡しないこと。
絶交されたくないなら
大人しく待ってなさい。』
句読点しかないメッセージに、わかった、と送るしかなかった。
文面から察するに、縁はきっと事情を聞いたのだろう。いつもは絵文字を多用する縁が、句読点しか使ってこないということは、多分そういうことだと思う。
何度考えても、あの夜の俺の行動は間違いだらけだった。
たまたまバイト帰りに、洸とキャリーケースを引く山川さんを見た。二人が並んで歩く姿を見た時、腹の底が怒気で満ちて、なのに頭は妙に冷えていた。
ただ話しているだけだ、と冷静の自分は言っていたのに。
気付いたら体が動いていて、二人の後を追っていた。
こんなこと言い訳にならないことは分かっている。でも、洸は魅力的な人だから。洸にその気がなくても、相手をその気にさせてしまう可能性があるから。頭の中で必死の言い訳をして、二人を追った先。洸が多用するスーパーだった。
二人は手を繋ぐわけでもなく、別々の買い物かごを持って、話をしていた。
別々の買い物かごを持っていた時点で、洸と山川さんが同じ家に帰る、なんてバカな予想は、大ハズレであることが確定していたのに、冷たい怒りに呑まれていた俺はその考えに至らなかった。
洸が顔を真っ赤にして無防備な姿を見せた途端、爆発してしまった。
お前を捨てたヤツに、そんな顔見せないで。
衝動に任せて、洸の腕を掴んだ。当然驚いていた洸のことを見る余裕も、山川さんを慮る余裕もなくて、最低な言葉を投げつけた。
洸が誰と話そうがそれを制限する権利なんて、俺にないのに。冷静に考えれば分かることも、怒りに喰われた俺は理解することを拒んだ。洸の意思も確認せずに無理矢理引っ張って外に連れ出した挙句、怒りに任せて洸に八つ当たりした。駄々をこねて好きな子を苛めるクソガキみたいな行動をした。
馬鹿だ。本当に馬鹿だった。洸が怒るのも当然だ。
いや、違う。洸が怒ったのはそこじゃない。
――そうかよ。じゃあ教えてやるよ。『ユキちゃん』だっけか?
一瞬否定できなかったのは、負い目があったから。
洸に伝えたことに、嘘はない。
ユキちゃん――志音さんは、書類上、俺の兄だ。でも負い目があったのは、ユキちゃんが俺の初恋の人だから。
俺が小一の時に、父親が再婚した。
その日から、新しい母と、新しい兄二人が新しく家族になった。その兄二人の内の一人が、ユキちゃんだった。一番上の兄である晃さんよりも、七つ上のユキちゃんの方が年が近かったせいもあって、俺がすぐに彼に懐いたのは当然だった。
優しくて温厚なユキちゃんは、俺の我儘によく付き合ってくれた。当たり前のようにユキちゃんと過ごす時間は多くなった。母はよく、本当に二人は仲良しね、と嬉しそうに言った。
自分の気持ちが兄弟に対しての好きではないと気付いたのは、小学校高学年の時だ。
同級生と好きな人の話になった時、一番初めに思い浮かんだのはユキちゃんだったから。それを言ったら、当然同級生には笑われた。
「はぁ? ユキちゃんってお前の兄貴でしかも男だろ? ちゅー出来るわけねーじゃん」
頭をガツンと大きな石で殴られたようだった。それと同時に、俺は知ったのだ。
兄とキスを出来るのは可笑しいこと。
そして、男が男にそういう感情を抱くのも普通じゃないこと。
はは、たしかに~、とその場は周りに合わせた。誰にも知られてはいけない、と咄嗟に思ったからだった。
それからの俺は、とにかく必死だった。四六時中自分の気持ちが漏れださないように注意したし、気持ちを逸らすために告白してきた人と付き合ったりもした。
でも、避ければ避けるほど、気持ちは大きくなった。
手に入らないものほど欲しくなる、というのはこの世の真理だ。出てくるな、と抑え込めば抑え込むほど風船のように大きくなっていく恋情。それを止める方法を俺は知るわけがなかった。
そして、ついに膨らみすぎた恋情が、破裂した。
中三の夏だった。
「璃空~、もうすぐご飯だからユキのこと呼んできてくれる~?」
リビングでマンガを読んでいたら、母がそう言った。わずかに跳ねた肩を冷静になだめて、笑みを浮かべた。はーい、とリビングを出て二階にいるユキちゃんを呼びに行った。妙に緊張して汗がにじむ手で、その部屋の扉をノックしたのに、返事がなかった。
「ユキちゃん、入るよ」
平静を装ってその扉を開けた先。
ユキちゃんはベッドで穏やかな寝息を立てていた。そろりそろりと近付いて、顔を覗き込む。それが安らかで、本当に美しく見えた。吸い寄せられるまま、顔を近づけてしまった。唇が触れる瞬間、ユキちゃんがパッと目を開けた。刹那、空気を裂くような鋭い音が部屋に走った。気付いた時にはじんじんと頬が痛くなり始めていて、驚きと怒りで目を見開いたユキちゃんが目に入った。
それを見た瞬間、やってしまった、と思った。
ユキちゃんは滅多なことで怒らない。でも逆鱗に触れてしまったと解った。ごめん、と咄嗟に謝って、俺はすぐさまリビングへ逃げ込んだ。ごはんだと呼びに行ったのに、それさえ果たせずに逃げ帰った。
その日から、ユキちゃんは俺を避けるようになった。母や父は不思議そうにしていたけれど、俺だけは理由を知っていた。当然だ。社会人になったと同時に、ユキちゃんが家を出たのもきっと俺の所為だ。
苦くて仕方ない失敗であると同時に、鮮明に胸にこびり付いて剥がれない初恋。いくら年を取ろうと一生忘れることなんてできなくて、一生縛られて囚われて生きていくのだろう。
そう、思っていた。
洸が、それを変えてくれるまでは。
洸の何が変えてくれたのかは、正直俺も解らない。
ずっと鮮明に居座り続けていたはずの初恋は、いつしか過去になっていた。夢想する相手が洸に変わったと気付いた時に、自分の気持ちの変化を自覚した。それからずっと、洸だけが俺の心のど真ん中に居座っている。
もう失敗しない。
そう他でもない俺自身が思っていたのに。
俺は失敗したのだ。ただの失敗ならよかった。大失敗だった。絶交されることもありえるような、大失敗だ。もしもちゃんと話をしていたら、結果も違ったかもしれない。そう思っても、後の祭りだ。
また去っていく背中を見送らなければいけないのかと思うと、それだけで全身が引き千切られるような痛みが胸を襲ってくる。
だとしても今の俺に出来るのは、待つことだけ。
泣いても喚いても、俺が意見することは許されていないから。
もしも機会があるなら、ちゃんと言葉を尽くしたい。納得してもらえなくても、洸がどんな選択をしたとしても、自分の中にある想いは伝えたい。会うことすらも拒否されたら、それも難しいかもしれないけれど、出来る限りのことをしたいと思うから。
ぴこっ、と間抜けな音がして、体を勢いよく起こす。
覗き込んだスマートフォンの画面。待ち焦がれた人の名前が表示されていた。すぐ見たらずっと待ってたみたいでキモいだろ、と考える暇もなく、そのメッセージを表示した。
『待たせて悪かった
急で悪いけど、明日の16時に大学の図書館に来れるか?』
俺の返事は決まっていた。絶対に行く。それだけを打って送れば、すぐに既読になった。
『ありがと。じゃあ明日な』
それきりスマートフォンは沈黙をしてしまった。短いやり取りだったのに、俺の体は素直で、心臓が五月蠅いくらいだった。
明日16時、大学の図書館。
頭の中で何度も約束を反芻する。
そこで、すべてが終わってしまうかもしれなくても行かないなんて選択肢は、俺にはなかった。
***
璃空とこれからどうなっていきたいか。
何度も何度も考えた。
辿り着く答えは、毎回同じ『傍にいたい』だった。
一度別れて親友のままの方がメリットが多いんじゃないか、とも考えた。
そう仮定して、璃空に別の恋人が出来た時のことを想像した。結論を言えば、気分最悪、だった。誰かに甘い言葉をささやく璃空を想像しただけで、自分でも驚くくらいムシャクシャした。誰かとキスをしているのを想像して、内臓を掻き混ぜられたような不快感があった。
つまり、親友としては失格、ということだ。
そうなると、選択肢は限られてくる。一つはこのまま恋人として過ごし、恋情が消えるまで傍にいること。もう一つは、きっぱり別れて金輪際関わらないようにすること。
きっと後者の方が、傷が少なくて済むのだろうとは思う。人の気持ちは移ろっていくものだし、今のうちに関係を絶ってしまえば、璃空が離れていった時に醜態を晒さなくて済む。新しい人と出会って、その人とまた関係を始めれば済む話だ。
少し考えれば、実に単純明快に出る最適解。
でも、思考とは裏腹に、俺の心は前者を望んでいる。
誰かと共有したいと思った時、その誰かが璃空だったらいいと思う。もしも振られてしまったとしても、また親友として傍にいることを璃空が許してくれるなら、そのまま関係も続く。ただ、自分の恋心を飼いならす必要は出てくるけれど。
その努力をしても一緒にいたい。そんな子どもじみた想いは、俺の中で確固たるものとして存在している。何度すれ違って口論になっても、喧嘩しても、璃空が別の人に恋をしても、ずっと片思いすることになっても、いつか璃空が家庭を持ったとしても、俺は傍にいたいと思う。
嗚呼、と思った。
璃空と同じだ。ままならない想いを抱えたまま、それを俺に押し付けることなく、親友としてずっと傍にいてくれた璃空と、まるきり同じ。姉が言った通り、璃空はずっと抱えきれないほどのやわらかな愛を俺に届けてくれていた。恋人じゃなくても、ずっと。
それならば。
もしも振られることになったとしても、今まで貰った分を同じように俺が届けたい。俺たちの在り方が途中で変化を遂げても、感情のまま笑ってくれたらそれで良い。璃空がしあわせなら、それが一番だから。
「うん、そうだよな」
こうして、俺の中の結論は出た。
あとはそれを、璃空に伝えるだけだ。それを聞いてどんな結論を璃空が出すかは、璃空自身が決めることだ。これ以上俺に出来ることはない。それならば、とスマートフォンで連絡を入れれば、すぐに既読になった。
ずっと待っててくれたのかな。
そう思うと喜んでしまうあたり、璃空への気持ちは確かな輪郭をもって自分の中に根付いているのだと思い知る。
『絶対行く』
短い言葉なのに、それはとても力強く見えた。
ふっと零れた笑いを落としながら、じゃあ明日、と返事をした。
恋の寿命は三年が定説だったとして、俺の恋の寿命は一体何年になるのだろう。きっと三年なんかじゃ消えたりしないんだろう。それでもいい。それでもいいから、璃空の傍にいたい。それが俺の本心で、どうしようもない願望だった。
約束の日は、澄み渡るような晴天だった。
秋の気配を滲ませ始めた空は高く、アキアカネが気持ちよさそうに宙を泳いでいる。そんな景色をベッドに寝転がったまま窓から見て、そっと胸に手を置く。不思議と心臓の音は落ち着いていた。心の中も凪いでいて、少しの緊張はあっても靄はない。そっと手を放してベットから降りた。
縁にメッセージを送りながらとりあえず昼飯を食べて、13時が過ぎたところで、早々に俺は家を出た。
家にいても特にやることがないし、どうせなら図書館で本を読んでいた方が有意義だ。ゲームをすることもできたけれど、今日はなんとなく気分じゃなかった。凪いだ気持ちを乱したくなかったともいえるけれど。
窓から見ている分には良かった外は、相変わらず死ぬほど暑かった。秋の気配がし始めたと言っても、太陽と熱気はまだ夏ですと言い張るような威力で、全身を刺してくる。いつもなら喚いてしまう俺は、ただ黙々と歩いた。
そういえば図書館も休みがあるのでは、と思い出したのは大学構内に入った時だった。だか、幸いなことに、休館期間はお盆だったらしく、難なく図書館の冷房にありつくことが出来た。
一度スマートフォンを見る。まだ14時にもなっていない。
待ち合わせの時間まではあと二時間以上。さてどうするか。そういえば縁が面白いと言っていた本のシリーズがあったことを思い出した俺は、さっそくその本を探し出して、自習スペースへと足を向けた。
自習スペースはがらんとしていて、俺以外の人は見当たらなかった。
とりあえず窓際の二人掛けのテーブルを陣取る。ここなら璃空が来ても、すぐ話が出来るかな、と思ったからだ。一応璃空に『着いたら連絡くれ』とメッセージを送る。といっても、時間的に今やっと家を出たところだろうが。
テーブルの上にスマートフォンを伏せて置いて、俺は本を手に取った。
さすが縁のおススメなだけあって、没入感があった。もともと活字が苦手じゃないからもあるが、するすると頭に入ってくるし、次は、というワクワク感が止まらない。結構厚いけど読み切れるかな、と手に取った時は思ったが、ページをめくる手は止まらない。
ふと、空気が動いた気がして、顔を上げた。
目の前の席には誰もいない。気のせいか、と周りに視線を走らせた。目を見開いてしまったのは、一つテーブルを挟んだその向こうの席で、璃空が座って俺を見ていたから。視線が合ったことに驚いたのだろう。璃空も同じように目を真ん丸にして固まっている。
ハッとしてスマートフォンを手に取る。
時刻は15時半の少し前、メッセージは入ってない。
もう一度璃空を見る。璃空は頬を掻きながら、あはは、と乾いた笑いを零して立ち上がった。思わず俺も立ち上がる。
「おまっ、なんで声かけねーんだよ!」
もしかして結構な時間璃空を待たせたのでは、と思い至って言えば、あー、なんて煮え切らない反応をした後に、璃空は言った。
「時間までまだあったし、真剣に読んでたから、邪魔したくなくて」
「ばかっ、邪魔しろよ! お前との約束が優先なんだから」
何時に来てたのか聞けば、15時には着いていた、というものだから、驚きだ。全く気付かなかった。は~、と呆れ半分自分に対する怒り半分の溜息を吐いて、目元を手で覆う。
「いや、俺が悪いな。悪かった、気付かなくて」
「俺こそ、早く来ちゃったから」
「まあ確かに一時間近く早く来るのは予想外だったけど。俺がいなかったらここで待ってるつもりだったのか?」
うん、と素直に頷く璃空に笑った。そうだよな、璃空はこういう奴なんだ。
「とりあえず、此処に座ってて。俺飲み物買ってくるから」
「いや俺が行くよ」
「いーよ。お前にわざわざ来てもらったのは俺なんだから」
食い下がろうとした璃空の背中を押して椅子に座らせてから、財布とスマートフォンを手に取った。
「いつもの微糖の缶コーヒーでいいか?」
「あ、うん。お願いします」
妙に緊張して敬語になっている。なんかかわいいな、なんて本人が知ったら怒りそうなことを思ったのは秘密だ。所在なさげな璃空を置いていくことにに少し申し訳なく思いつつも、俺はなるべく早く戻るべく、足を素早く動かしてコンビニへと向かったのだった。
