「そういうお前はどうなんだよ」
小さく声が漏れた。動き出した口は止まらない。会わないままだったら、ぶつける前に死んでしまったはず感情が、勝手に口から溢れていく。どういう意味だよ、とキレ気味に言った璃空がどんな顔をしていたのかは、下を向いていたせいで解らない。
「俺を責める権利がお前にあるのかって言ってんだ」
「何の話か分からない」
白を切るつもりかよ。ハッ、と漏れた笑いのまま、顔を上げる。璃空はさっきまでの不機嫌そうな顔を、一瞬にして驚きに変えた。自分が今どんな顔をしてるかなんて、知りたくもない。璃空の瞳を睨みつけて言ってやった。
「分からない? ホントにか?」
「分かんないよ。何の話してんの」
「そうかよ。じゃあ教えてやるよ。『ユキちゃん』だっけか?」
視界の端で璃空の肩が僅かに跳ねたのを、勿論見逃すはずなんてない。揺らいだ瞳だって、ちゃんと見えてる。その反応がすべてだ。心当たりがあるのも、そこに友人以上の何かがあるのも、全部全部、璃空の行動が示している。
すっと胸の奥が冷えた気がした。徐々に冷静になっていく頭。口だけが勝手に回っていく。
「ははっ。やっぱりそうかよ。可笑しいって思ったよ。お前のあの態度みたらそりゃあな」
「ッ、違う。ユキちゃんとは何もない。洸が思うような関係じゃ、」
「じゃあなんで言い淀んだ? 何もなかったら動揺したりしないだろ」
それは、とまた璃空は口を噤んだ。乾いた笑いが漏れる。
言えないってことはそういうことだろう。じゃあなんだ。俺のことをずっと好きだったと言ったその口で、その『ユキちゃん』にも同じことを言ったのか? なあ、璃空。
でも、もういい。知りたくもない。もう本当に、心底どうでも良い。何も聞きたくない。もう何も言わなくていい。
「いいよ、もう」
腕を振り払って、足の向きを変えた。歩き出そうとした俺を止めたのは、もう一度腕を掴んだ璃空だった。意地でも後ろは向かなかった。
「待って、洸。ホントに違う」
「しらねーよ。いいから放せって」
「ホントに違うんだ。ユキちゃんは俺の、」
それ以上言うな。聞きたくない。
想いに任せて、勢いよく腕を振り払う。振り返って見た璃空は、歪んで見えた。勝手に涙が出てる所為だと気づいても、隠すつもりもなかった。視界が歪んで、目の奥が痛くて、喉を締め付けられたみたいに息がしにくい。
苦しかった。
お前の所為だ、と叫んでやりたいけれど、元はと言えば俺の所為だ。浮かれて、大事なことを聞くことから逃げていた、俺の所為だ。自業自得過ぎていっそ笑えてくる。
「洸、……ッ!」
顔に伸びてきた手をやわく払って、逸らす。ぽたりと頬から落ちた雫が、アスファルトに染みを作ったのをぼんやりと見つめて口を動かした。
「ごめん、今はお前と話したくない。ほっといてくれ」
返事を待たずに歩き出した。洸、と名前を何度呼ばれても苦しいだけだった。徐々に早くなっていく歩調は、とうとう歩きから走りに変わった。
苦しくて死んでしまいそうだった。心臓が痛い。胸の奥をカッターナイフで何回も切られたみたいに、痛くてしょうがない。どうしたらこの痛みが消せるのか、誰でもいいから教えてほしかった。
走って走って、走って。
無我夢中で、息が切れるまで走りまくって。
気が付いたら駅に辿り着いていた。
あ、買い物し損ねた。それを唐突に思い出して、時計を見る。18時少し前だった。見上げた空は、もう陽が沈みかけている。どうしよう買い物。でも今からスーパーへは行きたくない。行ったら璃空に会う可能性が。
「あ! おーい、洸ちゃーん!」
そう思った時、見知った声が聞こえた。顔を向けると、縁が俺に向かって走ってくるところだった。
「ごめん、予定より早く着きそうって連絡したけど既読にならなくて! もしかして走らせ、……洸ちゃん?」
中途半端に言葉を途切れさせた縁に焦点を合わせたら、心配そうな顔が俺を見ていた。
「どうしたの? 何か、あった?」
視界がまた歪んで、すぐにクリアになる。目を丸くした縁。何でもないと誤魔化そうとしたのに、縁に会って安心してしまったのか、ただ単に涙腺が馬鹿になったのか、次から次へと出てくる涙が止まらない。ははっ、と自嘲する。
「悪ぃ、みっともないとこ、見せちまって」
「そんなこと気にしないよ。とにかく、歩こう?」
うん、と頷いて俺の家に向かって歩き出す。歩いている間、縁は何も聞かないでいてくれた。でも俺がどこかに行ってしまわないようにか、そっとTシャツの裾を掴んでくれていた。ぐずぐずになった鼻を啜りながら、俺たちはゆっくりと歩いて、家まで辿り着く頃には辺りは真っ暗になっていた。
「バイト帰りだからあんまキレイじゃねーけど、あがって」
「お邪魔しまーす!」
明るく言って入っていく縁に続いて、俺も玄関に鍵を掛けてから部屋に上がる。キッチンでコップ二つを、冷蔵庫から作り置きした麦茶を出して、すでにローテーブルの前に座っている縁のところへと行く。
「麦茶でいい?」
「もちろん! ごめんね、突然押しかけちゃって」
「いや縁が来てくれて助かったよ。ありがとな」
麦茶をついで一つを縁に、もう一つを自分の前に置いて、座った。向かい合わせで座った俺を、縁がじっと見てくる。
「あ、つまむモンもなんか出す?」
「もー、そうじゃない! 洸ちゃんに何があったか気になってるんだよ! 僕には言えないことなら言わなくていいけど、言った方が楽になるなら教えてほしくて」
一度口を噤む。言ったら楽になる、のだろうか。こういう経験は全くの初めてで、よくわからない。でも縁に言ったとしても、きっと馬鹿にしたりしないだろうということは分かる。
あー、と後頭部を掻いてから、前置きをする。
「ちょっと、話が長くなるかもなんだけど、聞いてくれるか?」
「もちろん! そのために来たと言っても過言じゃないんだから!」
どん、と男前に張った胸を叩いた縁に笑う。本当は縁の方が愚痴を言いたかったはずなのに。本当に優しいやつだと思う。
ふーっと息を吐いてから、実は、と俺はさっきまでの出来事を順を追って一通り説明することにした。
「……ちょっと待って、ツッコミどころが多すぎるんだけど」
聞き終えて開口一番に、縁はそう言った。
ツッコミどころ。よく分からなくて首を傾げた俺に、はーっと縁は目元に手を当てて天を仰ぐ。暫くして顔を元に戻した縁が、キッと視線を鋭くして俺を見た。
「まず僕さ、二人が恋人になったの知らなかったんだけど!?」
「え、あれ? 璃空が言ったもんだと」
「聞 い て な い !」
すごい形相でこちらを睨んでくる縁に、素直に頭を下げた。
「ごめん、俺も言わなかったもんな。なんかいろいろ動揺してすっかり言い忘れてた」
「ま、それはこの際いいや。……で、山川さんと買い物してたら、璃空が来て、口論になって、走って逃げてきちゃった、と」
「掻い摘んで言うとそうデスネ」
本日二度目のクソデカ溜息を吐いた縁が、ローテーブルに突っ伏す。ホントに何やってんのバカ璃空、と小さなボヤキが聞こえた。数秒後ガバッと顔を上げた縁は言った。
「でもただの口論だったら、洸ちゃんが泣いたりするはずない。絶対に璃空がなんか言ったんでしょ! 何言われたの!」
ビシッ、と指先を向けられて、ウッと言葉に詰まる。
別に何か言われたわけじゃない。俺がそう思っただけで、実際に璃空の口から聞いたわけではないからだ。でも『ユキちゃん』がもしも本命の相手じゃなければ、あんなに動揺するとは思えなかった。
「言いたくない?」
顔を上げると、テーブルの上で組んだ両腕に顔を乗せて、俺を見上げてくる縁と目が合う。その顔はまさにおねだり上手の年下のようで、うっ、と別の意味で胸がきゅっとなった。
でもそういえば、と思い出す。もともとは縁に聞こうと思っていたことだ。それならば、ここで聞いてしまうのが一番いい。璃空の口からはどうしても聞きたくなかったから。じゃあここで聞かずにいつ聞くんだ。そう腹に決めて口を恐る恐る開く。
「縁はさ、璃空が『ユキちゃん』って呼んでる人のこと、知ってるか?」
縁も璃空と同じように肩を揺らした。やっぱり縁は『ユキちゃん』を知っているのだろう。ふっと笑いが漏れる。
「璃空がその人と地元の駅で話してるの、偶然見てさ。ずっと璃空には聞けなかったんだ。でも今日、思わず聞いちまった。俺が山川さんのこと『想実さん』って呼んだことに食って掛かってきたから、じゃあお前が言う『ユキちゃん』はどうなんだ、って」
縁の顔が僅かに歪むのが視界の端に見える。縁が何も言わないことを良いことに、俺はさらに口を動かした。
「璃空は、洸が思うような関係じゃない、って言ったけど、俺にはそうは見えなかった。言い淀んでたし、ユキちゃんって大事そうに呼んでんの聞いてたし。だから、なんか、馬鹿らしくなったっていうかさ、空しくなってさ。逃げちゃったんだ」
はは、と乾いた笑いと共に、俺の口は役目を終えたとばかりに動くことを止めてしまった。
沈黙が二人の間を埋めてくれる。縁との沈黙は息苦しさを感じないから、心地良くて好きだ。ちらりと見た縁は、何かを懸命に言葉にしようとしてくれているようだった。ぎゅっと腕を握り締めた手が、すこしだけ震えているように見えた。
「璃空は、嘘は言ってないよ」
ぽつりと縁は言った。ぱっと縁を見れば、真っ直ぐに俺を見つめていた。
「何もないのも本当だよ。でも全部じゃない。洸ちゃんが察してる通り僕から『ユキちゃん』について話すことは出来る。だけど、これは璃空の口から直接聞くべきだと僕は思う」
真剣な声が、俺のズタズタになった胸の内をそっと撫でてくれるようだった。
縁がこう言うのだから、きっとよほどの理由があるのだと察しがつく。でも、と縁は続けた。
「洸ちゃんがどうしてもって言うなら、僕も話すよ」
縁はきっと俺と璃空のどちらにも添おうとしてくれているのだろう。縁は無用な隠し事はしない。知っていることは偉ぶらずに教えてくれるし、人を傷つけるような嘘も言わない。心理学を専攻にしていても、無闇に人を心を暴くような真似を縁はしないし、したくないと思っているのを知っている。だからこそ、縁が言ったことは本当だと確信が持てるし、縁が『璃空の口から』というのなら、それが一番良い選択肢なのだろう、ということも理解できる。
だから。
俺は首を横に振って笑った。
「ううん、言わなくていい。事情があるのは分かったし、縁がそういうなら璃空に直接聞くよ。……といっても今すぐは無理だけどさ」
うん、と言った縁の声がほんの少しだけ滲んでいるような気がしたけれど、気付かないふりをすることにした。
「洸ちゃんのそういうところ、ほんとスキ」
「なんだよ急に。照れるって」
「こんなに良い子を泣かせるなんて、ほんと璃空の奴、三発くらい蹴ってやらないと気が済まない!」
「ははっ、蹴んなくていーよ。やるなら俺が直接やる!」
むん、と力こぶしを見せつければ、縁もやっと笑ってくれた。
本当に良い友だちを持ったな、と心底実感する。こういう時に傍にいてくれる友だちは、生涯でそんなにたくさんお目にかかれないと思うから。今日も縁がいなければ、一人で馬鹿みたいにぐるぐる悩んで、挙句の果てに璃空と絶交なんて短絡的なことをしていたかもしれない。
そこまで考えて、はーあ、と間抜けな溜息を吐いて天を仰ぐ。
「恋愛ってホントにままならねーなぁ」
ふふ、と縁が笑った声がして、彼を見る。
穏やかな笑みを浮かべた縁と目が合った。
「恋してる洸くん、いいなぁ」
「ふはっ、みっともねーの間違いじゃね?」
自分のみっともない所をみせつけられて、自分が未熟であることを思い知らされて、傷ついて、泣いて。早とちりして相手を傷つけたりもして。浮かれて、嬉しさ一杯になったと思ったら、今度は悲しくなったりして。自分の感情のコントロールすらうまくいかない。まるで自分が自分じゃなくなるみたいだ。
「みっともないのも恋の醍醐味だよ」
「うれしくね~」
喚くように言えば、また笑われた。
ふと以前、縁が言ったアドバイスのことを思い出す。一時の感情に流されて後悔しないように。今の俺にはすごく大事なことのような気がして、縁、と呼び掛けた。
「なに?」
「璃空にさ、腹が決まったら俺から連絡するからしばらく連絡するな、って縁から言っといてくれないか?」
「僕は伝書鳩じゃないんだけど!?」
「うん、わかってる。ごめんな。でもこれからのことも含めて、まず一人でちゃんと考えたくて」
純粋にこのままではいけないと思うのだ。今のまま璃空に会って話をしても、適当に流されたり流したりしてしまう気がする。言いたくないことを言って、言わせて、その結果どうしようもない溝が出来るのが一番クソだ。だから、本当の意味で俺自身と璃空のことを考えたい。
俺から連絡するな、と言っても多分璃空は電話やメッセージをしてくるだろう。こういう時は縁から言ってもらった方が絶対に良い。だからこその頼みだった。
「まあ洸ちゃんの頼みだしッ! もちろんやるけどさッ!」
ぷんぷんという音が付きそうな怒り方をしているけれど、縁もきっと俺が頼んだ理由を察してくれているのだと思う。じと、とした目を向けられて、ん? と先を促す。言いにくそうに一度引き結ばれた唇。数秒の沈黙の後、縁は言った。
「決まったら、僕にも教えてね。洸ちゃんの決めたことは尊重するし、手伝えることがあるなら遠慮なく言ってほしい。……本当は僕は二人がいつまでも恋人でいてくれたら嬉しいけど」
だんだん小さくなっていった声だったけれど、ちゃんとその言葉は俺の耳まで届いた。息を零すように笑って、小指を差し出す。
「おう、約束する」
絡まった小指。嘘吐いたら針千本飲まーす! と大きな声で縁がヤケクソに喚くように言ったから、俺はやっと腹の底から笑うことが出来たのだ。
(嵐の後は凪が来る おわり)
