今まで見た中で、一番忘れられない光景は?
そう聞かれたらいつだって、高二の夏のあの夕暮れが浮かぶ。
春の陽気に散る桜よりも、夏の夜空に消えていく花火よりも、秋風に揺れる紅葉よりも、冬の夜明けに光る雪よりも、ずっとずっと心に深く残っている。
他のやつが見たって多分、なんてことはない光景。
いや、あまり見たくない光景かもしれない。
橙に染まり始めた空と教室。
窓の外には、大きな入道雲。
冷房がきいているのに、開けられた窓で揺蕩うカーテン。
そんな中で、同級生がキスをしていた。
入口に背を向けて椅子に座る男子に、机に座りながら身を屈めてキスをする男子。机に座った男子の輪郭を、夕陽がなぞって光っていた。
恋だのセックスだのが頭の大半を占めている男子からみたら、平凡でありながら非常識で、揶揄いと嫉妬の対象になり得るその一幕。
でも俺にとっては、まるで違った。
何の変哲もない教室があんなに特別なものに見えたのも、他人のキスシーンが心臓を震わせるほど美しく見えたのも、初めてだった。
思わず息を止めていた、と気づいたのは、机に座っていた男子が不意に閉じていたまぶたを開けたから。
バチリ。
鳴らないはずの音が聞こえた。
視線が合った途端に、肺に一気に酸素が入り込んできたのと同時。
彼らがぱっと離れてしまって、その光景は一瞬にして崩れた。
そして。
「……何見てんの」
氷水をバケツで頭からぶっかけられるような冷たい声と、敵意を露わにした冷ややかな目が、俺を襲ったのだ。
「……う、こう、洸」
トンと肩に走った衝撃に、はっと意識を戻す。
途端に、シャワシャワというやかましい蝉の声と、ざわめきが耳に戻ってくる。肩を叩いてきた人物を見上げると、面白そうに口角の端を持ち上げた男がいる。
「どした? 次、南棟に移動だぞ」
「こずえりく」
「え、はい。梢江璃空だけど。なに? 寝惚けてる?」
マジでどうした、なんてやわらかく笑われた。うん、だか、いや、だか煮え切らない返事をすれば、なんだそれ、と肩を小突かれる。
「とりあえず移動しようぜ、洸」
「おー」
机の上の私物をリュックサックにまとめてぶち込んで、椅子から立ち上がった。
俺が一生忘れられないであろうあの日、沈みかけた太陽の光に輪郭を撫でられながら俺を睨みつけてきた、かつての同級生――梢江璃空。
それが、今では俺の隣で最近流行りのゲームの話をしながら笑っている。
何の因果か、俺たちはあの日から接点を持ち始めて、今では同じ大学の同じ学部に通う親友にまでなっているのだった。因みに、あの場に居たもう一人の同級生――仲持縁という気の優しいやつで同じ大学の別の学部に通っている――ともよく遊んでいる。
今でもあの日を思い出すと俺の心臓は、緩やかに速度を上げたり、極寒の水につけられたみたいな嫌な音をあげたりするのを、きっとコイツは微塵も知らないのだろう。いや、一生知らなくていいけど。
璃空とは、あの日まで話したことがなかった。
理由はなんてことはない。俺が璃空を避けていたからだ。
梢江璃空という同級生は、とにかく何でも出来た。
運動も勉強も“まあまあ”レベルの俺とは違い、運動も得意で成績も学年トップクラス。それに加えて、ノリが良くて爽やかで寛容な性格で、どこをとっても非の打ち所がないと有名だった。女子にもめちゃくちゃにモテていたし、男女関係なく人気だったと思う。
そういう奴を前にして、璃空の人気にあやかろうとするヤツもいるし、純粋に彼を慕うヤツもいるし、俺のように近付かないヤツもいる。
妬ましくて羨ましくて近づかない奴もいたけれど、俺の場合はただ単純に、劣等感に苛まれたくなかったから近づかなかった。
自分よりも能力の高い人の近くにいるのは、結構辛い。ただでさえ当時の俺はひねくれていて、何か特別な物を持っている人に、強い憧れと焦りに似た嫉妬を持ち合わせていたから。
リアルの生活で『トクベツ』を目の当たりにした時。
画面越しのSNSで『トクベツ』を見せつけられた時。
腹の底がじりじりと黒い靄に焼かれていくような感覚と、自分が途轍もなく嫌な人間だと思い知る瞬間が大嫌いだった。
特にあの頃の俺は『凡人ではない特別な人になりたい』という気持ちが強かった。俺の姉が一芸に秀でていたから、余計に焦っていたのだと思う。
姉が母親に褒められるたびに、俺も褒められたい、なんてガキみたいなことを思っていたから、余計に出来る人間を意識的に避けていたのだ。
まったく本当にあの頃の俺は、正真正銘のガキだった。
そんな俺だったからこそ、自分から璃空に近づくことは出来なかったのである。
対して璃空は、敵を作るような性格ではなかったからか、俺が見る限り順風満帆な高校生活を送っていた。高一の時、学年一可愛いと言われていた女子と、恋人繋ぎで歩いているのも見たことがある。それがまた俺の癪に触って、ますます関わる気力を奪っていたのだが。
本当にあの日に一変してしまったのだ。
璃空に、何見てんの、と睨まれた後、どんなやりとりをしたのかうろ覚えだ。
確か、見られて困るんだったら教室でキスしない方がいい、とかそんな様なことを言った気がする。正直その前の光景が強烈すぎて、忘れた。多分だが、璃空たちを貶すようなことは言っていない。と思う。自信はない。
でも、あの日敵意を持って俺を睨んだ眼光が、今は犬みたいに懐っこい上に、笑いかけてくるのだ。もしも貶すようなことを言っていたら、こんな関係にはなってないはずだ。
だから、璃空の俺に対する態度が証明だと、勝手にそういうことにしている。
あれだけ避けていた筈の璃空とどうやって仲良くなったのかも、いまいち覚えていない。だが、なんであんなに避けていたんだ勿体ない! と思うくらいに、璃空と一緒の時間は心地良い。
関わるようになってから、璃空が相手に踏み込むラインをきちんと見極めてくれるやつだと知った。
他人に深く干渉することはなく、頭ごなしに否定することもない。
話をわざわざ合わせなくても馬鹿にしない。
面倒見がよくて、爽やかで、人当たりが良い。
他人に舐めた態度を取らず、偉ぶらない。
少し並べただけでもわかるが、本当に良く出来た人間だった。
高校生の時は隠していたようだが、大学に入って吹っ切れたのか、それとも昨今理解が広まってきたからなのかは知らないが、璃空は『自分はバイである』と周りにも公言している。
だからだろうか、彼は男女問わずモテる。本当にモテる。凄すぎる。そのモテを少しでもいいから分けて欲しい。いや。相手に幻滅されるのも嫌だし、やっぱり分けなくて良い。
ここまで人間が出来ていて引く手数多な奴が、俺と親友でいてくれるのだ。本当にありがたいことである。
「なあ、聞いてる? 洸」
突然目の前に現れた璃空の顔。驚いて足を止めてしまった。
「えっ、あ、わり。聞いてなかった」
顔が近すぎる。ていうか本当にコイツ、綺麗な顔してるなぁ。まあコイツの場合は顔だけじゃないのが本当にすごいんだけど。モテるのもわかるよな。ウン。
そんなことを思いつつ、返事をすればムスッとした顔が返ってくる。
「まじ今日どうした? いつも以上にぼーっとしてない?」
「あー、うん。今日ちょっと暑いからかもな」
「確かに暑いけどそこまでじゃなくない? もしかして熱でもある?」
そっと額に手を当てられた。
生ぬるい。むしろコイツの手の方が熱い。
顔を顰めながら、手首を掴んで引き離す。
「お前の手の方が熱いよ」
「そうかな。保健室行く?」
「ははっ、出たな璃空の心配性。ありがとな。でもホントに大丈夫だから」
「でも熱中症になりかけってこともあるし」
「お前は俺の母ちゃんかよ。良いって。ほら行くぞ」
もしも犬だったら、きっと耳と尻尾がぺしょりと垂れていただろうな、と思うような顔をしている璃空の肩を叩いて、歩き出す。
ふと見た窓の外で、気持ちよさそうに深緑の葉が揺れている。
あの日みたいな入道雲はない。
梅雨とは思えない雲一つない快晴だ。
もうすぐ、璃空が隣にいるようになってから三度目の夏が来る。
つまり、あの夏の夕暮れ時の映画のワンシーンみたいな光景に強烈に惹かれたまま、欲しい恋人もできずに季節が三回巡りそう、ということ。
三度目の正直、なんて言葉があるくらいだから、今年は出来れば恋人が出来たらいいなの気持ちが半分、まあいつも通りの夏の感じがする気持ちが半分。
でもきっと来年もこうして過ごすんだろう。
あの日の璃空のような、まるで映画のワンシーンみたいな経験も一生することなく、変わらない日常が過ぎていくんだろう。
そう漠然と考えていたこの時の俺は、この夏が全くの別物になってしまうなんて、微塵も予想していなかった。
