なかったことにはできなかった。早瀬にはもう、俺と以前のような関係に戻るつもりがないらしい。
 ドアを閉められ、突きつけられた事実に、俺は例えようのないほどの胸の痛みを自覚した。
 息ができないくらい苦しくて、その場にしゃがみ込みたいほどつらかった。
 なんとか早瀬家を出たが、足取りは重く、自宅へ着いたときにはこれ以上のショックはないだろうくらい落ち込んでいた。
 それからの日々は脱け殻のようだった。
 何をしても楽しくない。笑うことも忘れたみたいにできなくて、話しかけられても相槌を打つことしかできない。バイトも散々で、迷惑をかけてばかりだった。
 
「あれ、成海一人? 珍しいじゃん」

 ある日の放課後、昇降口を出ようというところで青柳先輩とかち合った。

「珍しくないですよ」

 最近は毎日一人で下校している。かれこれ十日ほどだが、以前の日々が取り戻せないものとなったせいか、一人が当たり前のような感覚だった。
 
「いっつも早瀬が一緒にいるだろ。なに? 喧嘩でもした?」

 俺が早瀬といないことがよほど奇異に映るようで、遠回しだったり直接的にだったり、クラスメイトたちからも何度となく同じことを訊かれた。
 そのたびに押し寄せてくる後悔に、胸がずきりと痛む。
 
「……いえ、別に喧嘩とかじゃないです」
「なんだよ。悩みがあんなら聞くよ。喧嘩したってんなら取り持ってやるって。今日はバイト?」
「バイトはないですけど……」
「じゃ、マックにでも行こうぜ」
「……先輩、部活は?」
「見ろよ、制服着てんだろ? 捻挫して休んでんだ。だいぶよくなってるけど、練習に出るのは来週から。ってことで決まりな」

 戸惑い返答に詰まる俺を他所に、青柳先輩はついてこいとばかりに駅へと向かい出した。
 マクドナルドは学校の最寄り駅の近くにある。断りたいようなどうすべきかわからないまま、青柳先輩の後を追って店内へ到着し、カウンターで注文したテリヤキバーガーセットを受け取り二階席へと上がった。

「喧嘩じゃないってことは、もしかして早瀬から告られた?」

 コーラに口をつけた瞬間だった。何をと()せて、気管のほうへ流れていってしまった。

「……図星じゃん」

 げほげほと咳き込んでしまい、青柳先輩はそんな俺に同情の眼差しを向けてきた。

「図星じゃないですって」
「で、一緒にいないってことは振ったんだ?」
「ちが……いないからってなんでそんなふうに考えるんですか」
「おまえさ、早瀬がめちゃくちゃモテてること知ってる?」
「……へ?」

 唐突な問いに目が点になる。
 イケメンすぎるほどの早瀬がモテていると言われても、当然だろうとしか思えない。
 だとして、今なぜその話題を持ち出してきたのか、というかそもそも、なぜ早瀬が告白してきたことを知っているのだろう。

「何人もの女子が早瀬に告って振られてんだよ。その理由がおまえ」
「俺? 俺になんの関係があるんですか?」
「早瀬レベルに人気ある女子もバッサリ振られてるらしいんだけど、早瀬は誰が相手でも同じ断り文句を言うんだとよ。『成海先輩に片思いをしているので』って」

 驚くあまり、俺は絶句した。
 あんぐりと口を開けて放心した俺を見て、青柳先輩は納得したように頷き、またも憐れむような目を向けてきた。

「同性が好きなんて悪いほうの噂になりかねないのに、早瀬の場合は逆にそれがいいとかで、むしろ人気が高まったらしい。相手が男子なら女子の中で抜け駆けする子はいないし、相手が成海ならむしろ萌えるとかなんとかで、陰ながらファンクラブみたいなものもあるんだと。俺は最近まで知らなかったんだけど、学校中みんな知ってるらしい」
「学校中?」

 耳を疑うようなことばかりを言われて、俺は素っ頓狂な声をあげた。

「だから別行動してるおまえらのことは学校中の噂になってんだよ。早瀬が振られたのか、喧嘩したのかって」
「そ……な……ええっ?」
「おまえ早瀬の他に親しいやついる?」
「い……ますよ。青柳先輩とか」
「そこで俺が出てくるわけ? 知らないのも当然だな。つーか、早瀬がガードしてたのか」
「ガード?」
「おまえに変な虫がつかないようにとか。でもおまえはそんな早瀬を振ったんだ? なんで? 男同士だから?」

 青柳先輩から早瀬のことを持ち出されるとは思わなかった。
 まさかの事態だが、目下の悩みはまさにそのことだ。真剣に案じてくれている青柳先輩を無下にもしたくない。

「男同士ってことは別に、偏見なんてないんですけど……」
「ま、確かに部内でも付き合ってるやついるしな」
「そうなんですか?」
「いるいる。普通に。じゃ、なにが問題なわけ? まさか他に好きな相手がいるとか?」

 絶対にあり得ないという顔で、まさに想いを寄せていた青柳先輩が苦笑した。
 俺はそんな先輩を見て、微塵も動揺していない自分に驚いた。後輩としてしか見られていない事実を突きつけられたわけだが、なんのショックも受けていない。そもそもが先輩を前にしている自分が以前とはまるで違っている。昇降口で声をかけられたときも、面と向かっている今も、緊張もしなければ身体が熱くなることもない。
 考えてみたら、早瀬のことを考えているほうがよほど動揺しているような気がしてきた。
 顔を思い浮かべるだけで身体が熱くなるし、会えないというだけで涙が滲んでくるほどなのだから。
 
「俺に問題があるわけじゃなくて、早瀬のほうが俺を避けてるんです」
「そんなのおまえ、振られたら気まずくなるのは当然じゃん」
「いえ、ですから振ってないんで」
「振ってないんならオーケーしたってこと?」
「なわけないじゃないですか!」
「は? じゃ、なんて答えたわけ?」

 訊かれて、俺は返答に詰まった。
 なんて答えたっけ?
 早瀬から好きと言われて、男がありなら自分じゃだめかを訊かれて──
 考えてみるも、自分がなんと答えたのか覚えていなかった。覚えているのは気もそぞろに帰宅して、翌朝家の前で少し会話をしたことだけだ。
 
「おまえもしかして、告られて驚いて、そのままってことじゃないよな?」

 嘘だろ?というように苦笑した青柳先輩を見ながら、さーっと血の気が引いた。
 
「……そのとおりです……俺、早瀬になにも答えてない」

 なんてバカだったのだろう。
 早瀬に信じがたいことをしてしまった。
 早瀬は翌日、なかったことにしたいと言っていた。理由は自分じゃなく俺のほうにあると説明して、でも俺はできないと答えて、俺のその反応から早瀬は振られたと悟って、だから避け始めた。
 俺が青柳先輩を避け始めたのと同じ理由で、叶わない恋を諦めようとして、離れたんだ。

「じゃあ、成海はいまも考え中てこと?」

 考え中というか、答えは出ている。
 早瀬のことを好きかどうかを問うならば、考えるまでもなく答えは明白だ。早瀬からの想いを知って、迷惑だとか不快感なんてものは微塵も感じなかった。驚いただけで、大半は嬉しいという気持ちだった。
 ただ、青柳先輩に対して抱いていたようなものとは違う。そこははっきりと自分でもわかった。だから早瀬が向けてくれているものとは別種の好意なのだと思う。
 だから、付き合うかどうかという二択となると、想いには応えられないことになる。
 応えられないけど、早瀬とこんなふうに会えないままなのは嫌だ。離れていたくない。前とまったく同じじゃなくてもそばにいたい。
 だめだろうか? ずるいだろうか?
 こんな答えじゃ、早瀬は不満に思うだろう。
 だけど、口で答えを伝えないまま終わりたくない。

「すみません。ちょっと、早瀬んとこに行ってきます」
「え? 今から?」
「すみません。ありがとうございました」
 
 返事を聞かないまま頭を下げ、トレーを片付けて店を出た。