淡白なロリータ先輩はぼくにだけ柔い

「こんな時間に買い出し? 時子さん相変わらず忙しいのねえ」

 白いチワワのリードを握ってぼくに話しかけてきたのは、ぼくとおばさんが住んでいるアパートの大家さんだった。五十代くらいの上品な雰囲気の女性で、家に一人になりがちなぼくのことを昔から気にかけてくれている。

「お隣にいるのはお友だち? すっごくイケメンでおばさん照れちゃう」

 頬に手をあてて、大家さんはにこにこ嬉しそうだ。

「灰崎先輩は学校の先輩なんです」

 今一緒に住んでるんです! って喉まで出かかったけど、勝手に住人を増やしたってバレたら怒られちゃうかもしれないと気づいて言葉を飲み込んだ。代わりに「最近仲良くなったんです」と続けて、ぼくは灰崎先輩の方を振り返る。

「ね、先輩……先輩?」

 顔を覗き込んで、ぼくは思わず目を見開く。

 灰崎先輩が、びっくりするほど怖い顔で大家さんを睨んでいたからだ。

「あら、お邪魔だったかしら。急に声かけてごめんなさいね」

 先輩の表情に気づいた大家さんが、ひどく戸惑った表情で謝ってぼくたちの横を通り過ぎていく。

 その姿が見えなくなると、先輩は突然その場にしゃがみ込んでしまった。

「えっ? だっ、大丈夫ですか?」
 
 ぼくは慌てて、自分もしゃがんで先輩の顔を見ようとする。でも先輩は抱えた膝の間に顔を埋めていて、さらに長い腕で頭を覆うという二重ガード状態で、簡単にはその表情を見れそうにない。

「先輩、大丈夫ですか。具合悪いんですか? 顔見せてください」
「いい……ほっといて。先帰ってて」
「そんなことできるわけないじゃないですか!」

 ぼくは全体重をかけて、先輩の腕をぐいっと引っ張る――とにかく顔を見て、具合が悪くないか確かめないと。

 ぼくはとにかく心配だった。熱が出てないかとか、気持ち悪くないかとか、ちゃんと自分の目で見て判断したかった。

 だから、バランスを崩して尻もちをついた先輩を見て、目の前の予想外の光景になにも言えなくなってしまった。

「え……、え、えっ? うええ?」

 きょとんとするぼくの視線の先で、灰崎先輩の滑らかな頬が、りんごみたいに真っ赤に染まっていた。いつもは静かで無表情な目は涙でうるみ、薄い唇が、ふるふると小さく微かにわなないている。

「――悪い、俺だめなんだ。マスクなしで初対面の人と話すの。考えるよりも先に顔が真っ赤になる」

 緊張からなのか、恥ずかしさからなのか。それはわからないけど。

 先輩は申告通り、心配になるくらい赤い顔でぼくを見上げてきた。そのまま長い指をすっと伸ばして、ぼくのズボンの裾をキュッと掴む。

「引かないで、ニレ」

 先輩は潤んだ瞳のまま、子猫のごとく首を傾げた。

 その瞬間、ぼくの頭の中で「ズキュン!」と漫画みたいな効果音が鳴り響いた。

 音と一緒に思い浮かんだのは、先っぽがハートになった弓矢。それはぼくの心臓に見事に突き刺さっている。上空では、その矢を放ったキューピッドが、にこにこと得意げな表情でぼくを見下ろしている。

 心臓が、痛いくらいにドキドキと脈打っていた。普段はそっけない先輩の、それでいてカメラの前では向日葵のように明るく笑う憧れの人の、ぼくだけが知っている可愛い姿。

 震える指先にそっと触れたくなる。この人のことをもっと見ていたい、もっと知りたいと思う。そう、つまり。

 高校一年生の五月、ぼくは人生で初めて恋に落ちたんだ。