淡白なロリータ先輩はぼくにだけ柔い

 外に出たぼくのことを、先輩はすぐに追いかけてきた。先輩は足も速くて、すぐに追いつかれてしまいそうになったけど、細々とした路地を使ってなんとか撒くことができた。

 アパートがある住宅街の隅で呼吸を整える。そのまましばらく隠れ続け、先輩が諦めてくれるであろう頃合いを待って、ぼくはフラフラと表通りに出て街をさまよった。

 夕焼けの中を、下校途中の学生や買い物帰りらしき主婦たちが足早に歩いている。もう少ししたら、ここに会社帰りの大人たちも加わるのだろう。

 皆、みんな、帰る場所がある。でもぼくは帰れない――あんなものを見られてしまったんだから、灰崎先輩の顔なんて、もう二度とまともに見ることができない。

 朝起きた時の部屋着のまま、上着も着ずに出てきてしまったから、既にけっこう肌寒い。これから陽が沈めば、もっともっと寒くなるだろう。

 案の定、その予想は当たってしまって、二十時過ぎまで粘ったあたりで限界がきた。それでもなんとか、灰崎先輩が寝る二十一時まで待って、ぼくはずっと身をひそめていた公園を出た。

 足取りはすごく重い。細々とした街灯の明かりに照らされた街を、ぼくはとぼとぼと歩く。

 アパート前の路地から見上げると、部屋は真っ暗だった。おばさんはまだ帰ってきていなくて、先輩はいつも通り、もう寝てしまったのだろう。

 そのことに、ぼくは心底ほっとした。とりあえず今晩は、先輩と話をせずに済む。

 それはそれとして、明日からはどうしよう……そう思いながら外階段を上り、部屋の前までたどり着いて、ぼくは静かに玄関を開けた。もう癖になっている「ただいま」は、自分でも聞こえないくらい小さな声で言った。

 当然返事はなく、部屋はすっかり静まりかえっている。

 ダイニングの照明をつけてから、とりあえず荷物を置こうと、ぼくは先輩と共有になっている自室の扉を開けた。ダイニングから差し込む灯りだけを頼りに、なんとなく部屋を見回して……それで、気づく。

 ぼくが使っているベッドとは反対側の壁際、灰崎先輩が寝ている場所。

 そこに、敷いてあるはずの布団がない。当然、灰崎先輩の姿もない。

「えっ……」

 驚きのあまり、声が出てしまった。なんで? どうして?

 先輩がいない理由を考えて、ぼくは青ざめる――もしかして、ぼくのせい?

 ぼくの書いた小説の内容にドン引きして、先輩はこの家にはもういられないと思ったのかな。それで、自分の家に帰らざるを得なかったのかな。

 考えれば考えるほど、その予想は当たっているように思われた。だって、つい半年前まで他人だった同居の後輩が実は自分のことを好きで、勝手に小説まで書いていたんだ。

 今まで通り一緒に暮らすなんて、ぼくが先輩の立場だったらきっと、怖いなって思う。ただまっちゃんが留守にしてるっていうだけで、灰崎先輩の家自体は、このあたりに残っているわけだし。

 ……とにかく、おばさんに報告しないと。

 ぼくは震える手でスマートフォンを操作し、おばさんに電話をかけた。理由とか、深く聞かれたらどうしようとは思ったけど、それよりもまずは灰崎先輩がいなくなってしまったことをきちんと伝えなきゃと思った。

「もしもし? どうしたの。なぎさの方からかけてくるなんて珍しいじゃない」

 おばさんはすぐに電話に出て、心配そうな声で尋ねてくれた。ぼくは泣きそうになるのをこらえながら、「灰崎先輩が」と話を切り出す。

「灰崎先輩が……」
「え? 御仁くんがどうしたの?」
「いなく、なっちゃって……」
「え?」
「今日はその、ぼくは少し遅い時間まで外にいて。それで帰ったら、灰崎先輩が家にいなくて」
「そりゃそうよ。御仁くん今日の午後から大阪だもの」
「……へ?」
「聞いてなかったの?」

 状況が上手く飲み込めていないぼくに対して、おばさんは軽い感じで話を続ける。

「御仁くんね、受験はもちろんするけど、本格的にモデルの仕事やりたいみたいでね。まっちゃんの伝手でその辺アドバイスしてくれる人が見つかったらしくて、相手の都合とかもあって、今日は学校早退して午後から移動なのよ」

「だからいなくて当然よ」というおばさんの声が、ひどく遠く聞こえる。灰崎先輩が、大阪。本格的にモデルを目指す。

 瞬間、先輩のスマートフォンにきた【ニューワールドプロダクション】の文字を見てしまった時と同じ寂しさが、ぼくの胸に蘇って膨らんだ。

 先輩はこれからきっと、モデルとして活動するためのチャンスを上手に掴んで、あっという間に有名になるのだろう。

 そうしたらもう、ぼくみたいな人間とは目も合わせてくれないに違いない。ただでさえ、小説の件でキモがられてしまっているわけなんだし。

「なぎさ? なぎさー? 大丈夫? 直接言ってもらえてなくてショックなのはわかるけど、御仁くんべつに……」

 ぼくはおばさんの言葉を最後まで聞かずに通話を切った。暗い部屋の中、スマートフォンを持ったままその場にしゃがみ込み、膝を抱えて顔を埋める。

 ……ぼくが本当に、前に先輩が言ってくれた通り、「言葉の魔法使い」だったらよかったのに――あの原稿に幸せな続きを書いたら、それが全部本当になるような魔法がぼくに使えればよかったのに。

 じわりと、目尻に涙がにじむ。そのまま次から次へとあふれてきて、だけどぼくには、それを拭うだけの気力が残されていなくて。

 しゃがみ込んだ姿勢のまま、ぼくは延々と泣き続けた。