淡白なロリータ先輩はぼくにだけ柔い

 その後は二人で浮き輪につかまって、ざぶざぶと海水をかき分けながら沖の方まで泳いだ。ぼくのメガネはしょっちゅう水滴まみれになってしまって、先輩はそれが面白かったのか、事あるごとにクスクス笑ってはぼくの顔に手を伸ばし、メガネを外したりかけたりして遊んでいた。

 一日中遊び尽くした後は、海の家の縁側に二人並んで腰掛けて暮れていく空をぼんやり眺めた。薄水色に刷毛で引いたような雲が幾筋も流れ、そこに夕日の柔らかいオレンジが反射して、綿菓子みたいにふんわりと甘い色合いだ。

「あ、先輩見てください。あれ猫みたい」

 水平線のあたりに猫の顔みたいな雲を見つけて、ぼくは先輩の肩を叩く。

 先輩ははしゃぎすぎて疲れ気味なのか、ちょっと眠そうな目をゆったりと空に向けて、「ほんとだ」と小さく笑った。

「先輩って猫みたいですよね」
「そう?」
「はい。意外とイタズラ好きなところか」
「へえ」
「他の人からも言われません?」
「言われないよ。俺がこんなにはしゃいだり喋ったりするの、ニレといる時だけだもん」

 すっと持ち上げた片膝に顎を突きつつ、薄灰色の目がちらりと上目遣いでぼくの顔を覗き込んでくる。それだけで、ぼくの心臓はまたドキドキと高鳴り出して、もう自分ではどうすることもできない。

 ニレだけ。ニレといる時だけ。

 先輩はしょっちゅうそんな風に言うけど、それってどんな意味なんだろう。

 ちょっとは期待とか、しちゃってもいいんですか……?

 言えるわけのない言葉が、ぼくの頭をぐるぐる回る。ぼくは自分の耳を引っ張って気持ちを落ち着けてから、もう一度海の方へ視線を戻した。

 寄せては返す波の模様が、キラキラと網膜に焼きつく。引き上げていく他の海水浴客のざわめきがじんと心に染み込んで、なんだかふいに、どうしようもない寂しさに襲われる。

「先輩は……モデルさんになっちゃうんですか?」

【ニューワールドプロダクション】の文字を思い浮かべながら、ぼくは気づけば、小さな声で先輩に尋ねていた。

「ごめんなさい。この前部室棟でアイス食べた時、先輩のスマホにきてた通知見ちゃったんです」

 ぽかんと口を開けてこちらを見つめる灰崎先輩に、ぼくは口早に事情を説明する。

「【ニューワールドプロダクション】って書いてあって。それで……」


 先輩はしばらくの間、黙ってぼくの話を聞いていた。

 そしてぼくが話し終わると、恥ずかしそうにすいっと目を逸らして、遠くに広がる海原を眺めながら淡々と口を開いた。

「初めて『リンデン』のモデルをやった時から、撮影って楽しいなって感覚はあったんだ。本当はリンデン以外の、ロリータじゃない服のモデルとかもずっと、やってみたいと思ってた。でもなかなか挑戦できなくて……俺がカメラの前で自由に笑えるのは、ロリータの魔法のお陰だったから」

 ――だけど。

 意を決した風に力強く言って、先輩は再び、ぼくの方に向き直る。

「この前も言ったけど、ニレが俺に、言葉で魔法をかけてくれたから――『俺自身に見た人を笑顔にする力があるんだ』って思えるようになったから。じゃあいつまでもおんなじところで悩んでないで、思い切って挑戦してみようって」

 前歯を覗かせて笑う先輩の目は、未来への希望に満ちていた。それを見たぼくは、やっぱり「綺麗だな」って思う。

 形とか色とか、そういう見た目の話じゃない。

 先輩の中身が、にじみ出る前向きな気持ちそのものが、すごく綺麗だ。

「そうだったんですね」

 ぼくはそう応えながら、胸の奥に広がった寂しさをなんとか宥める。だってこんなの、応援しないわけにいかないじゃん。

 皆の前ではクールで淡白で、だけどぼくの前でだけ、くるくると色々な表情を見せてくれる灰崎先輩。

 そんな先輩がロリータ服を着ないで、素顔でモデルをやるようになったら。きっと、その魅力はあっという間に世界中に広がっちゃう。

 それはなんだか、想像しただけですごく悔しい。ずっと今のまま、「ニレだけ」「ニレといる時だけ」って言ってくれる先輩でいてほしい。

 でも。

「頑張ってくださいねっ」

 ぼくは今までで一番ってくらいに明るい声を出して、にっこりと先輩に笑いかけた。ぼくの自分勝手な独占欲なんて、灰崎先輩の明るい未来の前では蟻よりもちっちゃいと思ったから。

「……」

 そんなぼくを、先輩はしばらく、きょとんとした顔で見つめ返してくる。灰色の目をパチパチしばたたいて、やがてその薄い唇が、小さく遠慮がちに開かれる。

「ニレは、やらないの?」
「……え?」
「小説家、目指さないの?」
「…………はえ?」

 予想外の問いかけに、今度はぼくがきょとんと先輩を見つめ返した。

「俺は、ニレの言葉で前向きになれた。ニレは前に、俺の写真を見ると胸がドキドキして、世界がキラキラになるって言ってくれたけど――それはニレにだって、できることなんじゃないの」

 ふっと微笑んでから、先輩はおもむろに立ち上がった。「ちょっとトイレ」と言い残して、傍らのスマートフォンだけ持って砂浜をてくてく歩いていってしまう。

 残されたぼくは、呆気にとられたままその後ろ姿を見送った。

 先輩に言われた「小説家」っていう単語が、頭の中にいつまでも残って消えなかった。