「ニレ、ここはさ。このXにこれを代入して」
「……」
「ここでこの公式を使って、あとはカッコを外してそれから」
「…………」
黙りこくってしまったぼくの隣で、灰崎先輩が困った感じで眉根を寄せる。それを見たぼくはとっても申し訳ない気持ちになるんだけど……。
ヤバい。さっぱりわからない。
七月も中旬を迎えて、日が昇るのがずいぶんと早くなった。だから朝のキッチンはもうだいぶ明るい。
日課通りの、登校前の家での作業時間。窓から差し込む清々しい朝日と湯気のたつ紅茶はとっても優雅だ。ただ一つ、ぼくの目の前のバツだらけのノートを除いて。
「ニレは本当に数学が苦手なんだね」
灰崎先輩がしみじみとつぶやいた。
ここ数日、朝の小説時間は期末テストに向けた勉強時間に変わっている。いつもは先輩と向かい合って座るところを、勉強を教わりやすいように隣同士で座っているんだから、距離の近さにドキドキしっぱなし……かと思いきや。
全くそんなことはなかった。っていうか本当に、真面目に、それどころじゃない。
ぼくだって、自分がこんなに数学ができないとは思わなかった。六月の中間テストの後から特に、難しいなあって思いつつどこから手をつけていいか悩んで後回しにしていた分のツケが、完全に今回ってきてしまっている。
「もうさ、期末は基礎問題に絞ろう」
「はい」
「目標は低く。赤点回避だよ」
「はい……」
憧れの、大好きな先輩にこんな姿を晒してしまって、恥ずかしさと落ち込みでぼくは深くうなだれる。「目標は低く」なんて初めて聞いたよ……。
「……」
黙り込んでノートを見つめるぼくを、灰崎先輩がじっと見つめてくる。その視線に気づいて、ぼくは「どうしたんですか?」と尋ねながら先輩の方に顔を向ける。
「……ご褒美、あったら頑張れそう?」
こてんと首を傾げながら尋ねられて、ぼくの思考は一瞬ショートした。
「ご褒美、ご褒美……ご褒美?」
「なんでもいいよ。数学の赤点回避できたら、ニレのお願いなんでも一個叶えてあげる」
相変わらずの綺麗な顔で、灰崎先輩はイタズラっぽく微笑んだ。その可愛さたるや。
「なんでも」なんてそんな、軽率に言っちゃいけません!
あわあわと目を泳がせるぼくの顔から、先輩はなかなか視線を外してくれない。ぼくの方が目を逸らせば、その逸らした先に顔をもってきて、戸惑うぼくの反応を楽しんでいる。
「ねえ、どうするの?」
「え、あ。あ……」
「ほんとになんでもいいよ」
「ええっと、」
「それとも、ご褒美いらない?」
「そんなことないです!」
前のめりに叫んだぼくを見て、先輩は目をしばたたかせた。しばらくの沈黙の後、ふはっと息を吹き出し、そのままお腹を抱えて笑い続ける。
「っははは、はは。ニレ、テンパりすぎ」
「なっ……!」
からかわれたことが恥ずかしくて、だけど先輩が笑ってるのは嬉しくて。結局なにも言えずに口をぱくぱくさせるだけのぼくに、先輩はすごく柔らかくて穏やかな視線を向けてくる。
「ニレ、海行こうよ。赤点でも、赤点じゃなくても」
「え?」
「俺が行きたいんだ」
付き合って、と顔を覗き込まれれば、ぼくに断る選択肢はない。
「はい」と小さく返事をすると、先輩は満足げにうなずいて口元を緩めた。


