淡白なロリータ先輩はぼくにだけ柔い

 ぼくの手を借りながら、先輩は震える足で立ち上がってメイクルームの丸椅子に腰を下ろした。カメラマンは変わるし、いつも気持ちを落ち着けるために飲んでいる紅茶も忘れるしで、やっぱり気持ち的にすごく大変だったみたい。

 それでもなんとか、カメラの前に立ったはいいものの。ポージングや表情管理が全然だめで、撮影は中断。メイクルームに引きこもって、初めは椅子に座ってたけど、貧血っぽくなってしまって危なかったから部屋の隅にしゃがんでいたらしい。

 ――そんな風に具合が悪いのに、服を汚さないように気を遣える先輩はすごく偉いなって、ぼくは思うんだけど。

 先輩はどうやら、そうは思えないみたいで。

「……俺もう、やめた方がいいのかも」

 ぼくが注いだ紅茶に口をつけながら、先輩は伏し目がちにつぶやいた。

「男でロリータモデルとか、そもそもがおかしな話だし。ましてや俺、こんなに緊張しいですぐ赤くなるのに……適性ないにもほどがあるよな」

 先輩と向き合ってもう一個の丸椅子に座ったぼくは、その言葉を聞いただけですごくすごく悲しい気持ちになった。「全然おかしくない。適性なくなんか、ない」ってすぐに否定したくなったけど、きっとそういうことじゃないんだよなって思い直して、ぐっと言葉を飲み込む。

 うつむく先輩を正面から眺めながら、一週間前の朝と反対だなって思った。あの時先輩がぼくの話を聞いてくれたみたいに、今度はぼくが、先輩の話を聞いてあげたい。

「先輩はどうして『リンデン』のモデルをやってるんですか?」

 ちょっとだけ勇気を出して、尋ねてみる。おばさんからは「試しに着てもらったら似合ってたから」って聞いてるけど、先輩側がどんな気持ちでモデルを引き受けて続けているのかは、そういえば教えてもらったことがなかったから。

「……魔法みたいだって思ったんだ」
「魔法?」
「そう。俺が俺じゃなくなって、母さんや周りを笑顔にできる魔法。これを着ていい写真撮ってもらってそれがカタログに載れば、見てくれた人を笑顔にできる。そうすれば母さんも喜ぶだろ。俺自身も、こういう服着て女の子にしか見えない格好をしてれば、いつもの自分でいるよりずいぶん気楽に笑える」

 ――キラキラで眩しくて、華やかで。

 普段の自分だったら絶対に行けないような場所に、この服は俺を連れていってくれるんだ。

「……!」

 先輩の言葉を聞いたぼくは、びっくりして目を見開いた。だってそれは、ぼくが普段から先輩に思っていることと同じだったから。

 先輩はどうやら、自分のキラキラに全く気づいていないみたい――そんなの、そんなの本当に、もったいなさ過ぎる……!

「じゃあ先輩は、魔法使いですねっ」

 気づけばぼくは、ぐっと上半身を乗り出して先輩に近づいていた。

 不安に揺らぐ薄灰色の目を、「大丈夫だよ」って気持ちを込めてまっすぐに覗き込む。

「ロリータ服が魔法なら、それを着た灰崎先輩は魔法使いです。ぼく、『リンデン』の最初のカタログからずっと、先輩のファンだったんですよ。先輩の写真を見ると、ぼくは自分が服を着なくても、胸がドキドキして、世界がキラキラになって……ずっとずっと、すごいなって思ってたんです!」
「え……、あ……?」
「ロリータ服は魔法の杖で、それを着こなして先輩が笑えば、周りの人も笑顔になる。先輩が使えるのは、そんな風にすっごくステキな魔法です。そんな魔法を使える先輩はもちろん、ロリータ服と同じくらいキラキラです!」
「ニ、ニレ。その……っ」
「それでも、どうしても不安なら、撮影の時はぼくのことを思い出してください! 先輩が魔法を使う時は、いつだってぼくが一番にかかってあげます」

 先輩は今までもこれからもずっと、ぼくの魔法使いです!

 自信満々に言い切った直後、「ニレっ!」と叫ばれて我に返った。

 気づけば、顔を近づけすぎて、自分の鼻先に先輩の鼻先が触れている。

「近い!」
「あっ、ああ、すすすすすみませんっ」

 慌てて後ずさりした拍子に、ぼくの座っていた丸椅子が、ガターンッと大きな音をたてながら倒れた。ぼく自身も足元がよろめいて、けっこうな勢いで壁に背中をぶつけて、そのまま尻もちをついてしまう。

「ニレ、大丈夫?」

 椅子から立ち上がった先輩が、不安そうな顔で近づいてくる。

「大丈夫」と答えながら、ぼくは腰をさすった。咄嗟に大丈夫って言っちゃったけど、やっぱ痛い。

 ――だけど。

「あは、」

 視界に映り込んだ先輩の足がもう震えていないことに気づいて、ぼくは思わず、全身の痛みを忘れて笑ってしまった。

「ニレ、本当に大丈夫? すごい痛そう」
「大丈夫です。それに、先輩ももう、大丈夫なんじゃないですか?」

 えっ、と驚いた表情で、先輩はぼくを見下ろした。

「足、もう全然震えてないじゃないですか。だからカメラの前に戻っても大丈夫なんじゃないかなって思って」

 キラキラの魔法使い、頑張ってください! と笑いかけた瞬間、先輩の綺麗なアーモンド型の目が、漫画みたいにぱあああって大きく大きく見開かれた。

「ありがとう、ニレ」

 ……ロリータ服を着て、ばっちりメイクをして。目の前に立つ先輩は、どこからどう見ても女の子だったけど。

 だけどなんでかな。ぼくの目にはその時、先輩の素顔が見えた気がしたんだ。