「……それって、どういう意味ですか?」
ぼくが尋ねると、先輩は「あー、」とつぶやいて斜め下に視線を下げた。考えるように少し首を傾げてから、ちょっとだけ言いづらそうに口を開く。
「『幽霊くん』って呼ばれてたから」
ぼくは記憶を探って、それが昨日、自動販売機の前で先輩が助けてくれた時のことだと気づく。
先輩が声をかけた女子たちはぼくと同じ一年生で、確かにぼくのことを「幽霊くん」と言っていた。
「あれは全然、いじめとかじゃないんで大丈夫ですよ。ほらぼく、見た目も地味だし、性格もパッとしないし、名字も難しいじゃないですか。皆ぼくの名前とか顔とかなかなか覚えられないみたいで。それでいつの間にか噂になっちゃったんです。目立たないことで目立つって面白いですよね!」
よけいな心配をかけなくていいように、いつもよりもあえて明るく話してみる。ぼくは本当に、全然気にしてないんだけど、先輩は不安みたいだから。
「面白いって……。前にスタジオの前でぶつかられそうになった時もそうだけど、ニレはもっと怒ってもいいと思う」
「そんな、怒るなんて。直接言われたわけでもないし、怪我したわけでもないんだから大げさです」
「でも気持ちは傷つくでしょ。それで怒るのは全然、大げさじゃない」
灰崎先輩は珍しく、わかりやすく眉間にシワを寄せて不満げだ。
その表情に、あ、と気づく。この人は本当に、心の底からぼくのことを心配してくれているんだ。
「……ぼくは、」
――そんな風に気遣ってもらったら、このまま誤魔化して話を終わりにするのは、あまりに不誠実な気がして。
ぼくは気づけば、自分がずっと思っていたことをぽろりと口にしていた。
「ぼくは、自分が怒ったり悲しんだりして誰かに迷惑や心配をかけるより、誰にも見えない自分でいたいんです」
ぼくの言葉を聞いた先輩の眉が、続きを促すように少しだけ持ち上がる。
それを見て、ぼくはなぜか少し、泣きそうになった。
「ぼくの母親は結婚しないでぼくを生んで、その後すぐに病気で亡くなってます。そんなぼくを、母の姉であるおばさんが引き取って、ずっと育ててくれました。きっとやりたいことがいっぱいあって、子どもの面倒なんて見ている暇なかっただろうに。それでもちゃんと、ここまで育ててくれたんです」
おばさんは忙しく働いていて、帰ってくるって言ったのに帰ってこない夜とか、なにも言わずにいつの間にか出かけている朝とか、そんなのばっかりだ。
だけど、一生けん命ぼくの面倒を見てくれている。それは、一緒に暮らしていればちゃんと伝わってくる。自分のやりたいことと、ぼくを育てること。その両方を諦めなくていいように、おばさんは毎日がむしゃらに生きている。
だったらぼくは、それを一ミリだって邪魔したくない。
「こんなぼくでも、怒ったり悲しんだりしていれば、おばさんは絶対に心配してくれます。でも、それはぼくが嫌なんです。おばさんには毎日忙しく仕事して、ぼくのことなんてなんにも気にしないで、いつでも元気に笑っていてほしい。だから『幽霊』でちょうどよかったなって、ぼくいつも思うんです。そりゃ、傷つきますけど。でもそれ以上に、よかったなって気持ちの方が大きくて」
こんなこと、誰かに話したのは初めてだ。ぱちっとまばたきをした拍子に左の目尻から涙がこぼれて、ぼくは慌ててうつむいた。
急に真面目な話して、引かれたかな。
先輩の顔を見るのが無性に怖くて、涙が乾いてからも、ぼくはなかなか顔を上げられなかった。
そんなぼくの鼓膜に、先輩の滑らかな声がそっと触れる。
「じゃあ、俺に言っていいよ」
思いがけない言葉に、ぼくは恐る恐る視線を上げた。目が合った先輩は、なぜかすいっと顔を横に逸らしつつ、自分の手元のマグカップを持ち上げる。
「俺、ニレの淹れる紅茶気に入ってるから、そのお礼。本当は嫌なこととか悲しかったこととか、俺にはちゃんと、言えばいいんじゃない」
――窓からふんわりと差し込む朝の光に、そんな風に話す灰崎先輩の鼻筋がくっきりと綺麗に浮かび上がっていた。まばたきをするたびに長いまつ毛が震えて、白い頬はホットミルクの表面みたいに滑らかで。
やがてその頬に、じわじわじわって朱色がにじむ。先輩は戸惑ったように目を泳がせて、横髪をいじり、最終的に「あーっ……」とうめきながら机に突っ伏した。
「無理。無理だこれ。見るな、ニレ」
「……あはっ」
「いや、笑うなよ」
そんなことを言われたって、サラサラの銀髪から真っ赤な耳が覗いているんだから。笑うでもなんでもして声を出さないと、ぼくの心臓が爆発してしまいそうだった。
そのすぐ後、ちょっとだけ涙が戻ってきて焦ったけど。
先輩は相変わらず机に突っ伏していたから、「顔を見られなくてよかった」ってぼくは思った。
ぼくが尋ねると、先輩は「あー、」とつぶやいて斜め下に視線を下げた。考えるように少し首を傾げてから、ちょっとだけ言いづらそうに口を開く。
「『幽霊くん』って呼ばれてたから」
ぼくは記憶を探って、それが昨日、自動販売機の前で先輩が助けてくれた時のことだと気づく。
先輩が声をかけた女子たちはぼくと同じ一年生で、確かにぼくのことを「幽霊くん」と言っていた。
「あれは全然、いじめとかじゃないんで大丈夫ですよ。ほらぼく、見た目も地味だし、性格もパッとしないし、名字も難しいじゃないですか。皆ぼくの名前とか顔とかなかなか覚えられないみたいで。それでいつの間にか噂になっちゃったんです。目立たないことで目立つって面白いですよね!」
よけいな心配をかけなくていいように、いつもよりもあえて明るく話してみる。ぼくは本当に、全然気にしてないんだけど、先輩は不安みたいだから。
「面白いって……。前にスタジオの前でぶつかられそうになった時もそうだけど、ニレはもっと怒ってもいいと思う」
「そんな、怒るなんて。直接言われたわけでもないし、怪我したわけでもないんだから大げさです」
「でも気持ちは傷つくでしょ。それで怒るのは全然、大げさじゃない」
灰崎先輩は珍しく、わかりやすく眉間にシワを寄せて不満げだ。
その表情に、あ、と気づく。この人は本当に、心の底からぼくのことを心配してくれているんだ。
「……ぼくは、」
――そんな風に気遣ってもらったら、このまま誤魔化して話を終わりにするのは、あまりに不誠実な気がして。
ぼくは気づけば、自分がずっと思っていたことをぽろりと口にしていた。
「ぼくは、自分が怒ったり悲しんだりして誰かに迷惑や心配をかけるより、誰にも見えない自分でいたいんです」
ぼくの言葉を聞いた先輩の眉が、続きを促すように少しだけ持ち上がる。
それを見て、ぼくはなぜか少し、泣きそうになった。
「ぼくの母親は結婚しないでぼくを生んで、その後すぐに病気で亡くなってます。そんなぼくを、母の姉であるおばさんが引き取って、ずっと育ててくれました。きっとやりたいことがいっぱいあって、子どもの面倒なんて見ている暇なかっただろうに。それでもちゃんと、ここまで育ててくれたんです」
おばさんは忙しく働いていて、帰ってくるって言ったのに帰ってこない夜とか、なにも言わずにいつの間にか出かけている朝とか、そんなのばっかりだ。
だけど、一生けん命ぼくの面倒を見てくれている。それは、一緒に暮らしていればちゃんと伝わってくる。自分のやりたいことと、ぼくを育てること。その両方を諦めなくていいように、おばさんは毎日がむしゃらに生きている。
だったらぼくは、それを一ミリだって邪魔したくない。
「こんなぼくでも、怒ったり悲しんだりしていれば、おばさんは絶対に心配してくれます。でも、それはぼくが嫌なんです。おばさんには毎日忙しく仕事して、ぼくのことなんてなんにも気にしないで、いつでも元気に笑っていてほしい。だから『幽霊』でちょうどよかったなって、ぼくいつも思うんです。そりゃ、傷つきますけど。でもそれ以上に、よかったなって気持ちの方が大きくて」
こんなこと、誰かに話したのは初めてだ。ぱちっとまばたきをした拍子に左の目尻から涙がこぼれて、ぼくは慌ててうつむいた。
急に真面目な話して、引かれたかな。
先輩の顔を見るのが無性に怖くて、涙が乾いてからも、ぼくはなかなか顔を上げられなかった。
そんなぼくの鼓膜に、先輩の滑らかな声がそっと触れる。
「じゃあ、俺に言っていいよ」
思いがけない言葉に、ぼくは恐る恐る視線を上げた。目が合った先輩は、なぜかすいっと顔を横に逸らしつつ、自分の手元のマグカップを持ち上げる。
「俺、ニレの淹れる紅茶気に入ってるから、そのお礼。本当は嫌なこととか悲しかったこととか、俺にはちゃんと、言えばいいんじゃない」
――窓からふんわりと差し込む朝の光に、そんな風に話す灰崎先輩の鼻筋がくっきりと綺麗に浮かび上がっていた。まばたきをするたびに長いまつ毛が震えて、白い頬はホットミルクの表面みたいに滑らかで。
やがてその頬に、じわじわじわって朱色がにじむ。先輩は戸惑ったように目を泳がせて、横髪をいじり、最終的に「あーっ……」とうめきながら机に突っ伏した。
「無理。無理だこれ。見るな、ニレ」
「……あはっ」
「いや、笑うなよ」
そんなことを言われたって、サラサラの銀髪から真っ赤な耳が覗いているんだから。笑うでもなんでもして声を出さないと、ぼくの心臓が爆発してしまいそうだった。
そのすぐ後、ちょっとだけ涙が戻ってきて焦ったけど。
先輩は相変わらず机に突っ伏していたから、「顔を見られなくてよかった」ってぼくは思った。


