小生は猫である。名前はラムセス3世と呼ばれておる。
 古代エジプトで絶大なる権威を誇った最後のファラオの名であるな。つまりは王である。隣家に住むハルボーイなんぞと違って、やんごとなき名であるのだよ。にゃー。
 そう。本来であれば、「吾輩は猫である」と独白を始めるのが常套なのであろうがのう。
 吾輩なる自称は、ハルボーイに先に使われてしまったゆえ、もういちど同じことを繰り返すのも癪である。
 二番煎じ。
 そう誹られるのも、あまり良い気分はせぬのでな。
 吾輩なる自称のひとつやふたつ、気前よく若いものにくれてやるわ。にゃあ。
 その代わり、励めよ、ハルボーイ。存外、その自称詞は博識でない若輩が気取って使うと、尊大さを含んで滑稽であるからな。
 小生の主人の名は、Murad Veil。
 日本語読みだとムラト・ヴェール。ないしはベールか、ヴェイルか。
 城東大学付属病院の眼科学教室を主宰するごきげん教授に仕える、トルコきっての秀才である。IQ740の小生ほどではないが、ヴェールも十分に天才であるよ。
 Veilという名には、元来、「保護者」という意味があっての。
 ほれっ、「秘密のベールに包まれる」とか、「ついにベールを脱ぐ」とか言うであろう?
 転じて、ベールには、「曖昧にする」とか、「隠すことで判読できないようにする」とか、「気付かれないようにする」などという意味もあるようであるの。
 Veilという単語の順番を入れ替えて、アナグラムを作ることもできてな。
 これがまた、傑作なのである。言葉遊びの一種であるな。

 ――levi イエスの弟子。
 ――live 人生を楽しむ。面白く暮らす。生き長らえる。(死なずに)生きている。
 ――evil 悪い。邪な。
 ――vile 不道徳な。堕落した。恥ずべき。
 ――vlei 砂地。

 なるほど、名は体を表すとはよく言ったものである。現状、小生のご主人はごきげん教の一番弟子であり、「ごきげんだから、うまくいく」なる教義を実践中であるからの。
 ヴェールの仕えるドクター・トキトーは、ごきげん教授の綽名の表すとおり、少々ぶっとんだ人物である。きっと職場では、ボスの保護者役なのであろうな。
 ドクター・トキトーのテキトーな失言やら虚言やらを曖昧にして、その場を丸く収めるのも仕事のうちらしいしのう。日本語が分からないふりをして、都合の悪いことをうやむやにできるのは異国の民の強みであるな。
 ごきげん教授がごきげんであるためには、いったい何人ほどの医局員が、常日頃からふきげんにならねばならないのかを想像すると、ちと寒気がするな。くわばら、くわばら。
 ごきげん教授は、研究の一環として、檻の中で飼っていたネズミを狭い筒の中に監禁したり、扇風機で風を吹き付けてみたりという拷問を敢行して、それでもごきげんでいられるかどうかを実験しているようである。
 聞くだに、恐ろしい話であるな。
 猫族の捕食対象であるネズミとて、同情を禁じ得ないのう。そも、檻の中のネズミがごきげんであろうはずはなく、更なる拷問を経た後にごきげんであるはずもないことなど、実験せずとも分かろうものであるがな。
 地頭の良いはずの大学人(アカデミシャン)が揃いも揃って、アホらしい実験をしているものよのう。
 ところでヴェールは、仲間内からはムラちゃんと呼ばれて、愛されているようであるな。
 そのムラちゃんの飼い猫だから、自分のニックネームを引っくり返して、ラムちゃんなどと付けたのではないかと勘繰られることも多いが、そんな安直ではないのだよ。
 小生の名には、深い叡智が込められているのである。
 小生、ヴェールに拾われる前は、アメリカのハリウッドなる彼の地で、ハリーという名の売れっ子脚本家と暮らしておった。ハリーと暮らした十年余りは、愉快な毎日であったな。取材と称して、国内、国外、いろいろな場所を旅したものである。
 餌はコーラとホットドックとポップコーンばかりで、ヘルシーとは無縁の日々であった。
 おかげで、いつのまにやらぶくぶくに太ってしまったが、それがハリウッドお抱えの脚本家と暮らす猫の唯一正しい食事であろうよ。
 ハリーと一緒に、古今東西の映画を観たものだ。くだらないものから歴史的な名作まで、ありとあらゆるものをな。
 思い返すに、ごきげんな毎日であったよ。
 こんな風に過去を回想するのは、老いた証拠であるのかの。まあ、二十年近くも生きていれば、享楽的な猫族とて、しみじみと過去に思いを馳せたくなる日もあろうて。
 実を言えば、ハリーという名は、もともとは小生に与えられた名であった。
 ハリウッドの脚本家に飼われた猫の名がハリーというのは、いかにも福を呼びそうな名であるしな。小生と暮らすようになってから、脚本家としての地位を確たるものにした小生の最初のご主人は、いつの頃からか自らもハリーと名乗るようになった。
 だから、ハリーという名は、忘れがたき小生の最初のご主人の名前であり、小生のかつての名でもあり、今のご主人であるヴェールに拾われて新しい名を与えられた際に、捨てた名でもあるのである。いろいろ、複雑なのであるよ。
 斯様な昔話は、ハルボーイに聞かせるには、ちと早かろう。
 ハリーと別れた際、小生はその名を捨てた。
 小生にごきげんな日々を与えてくれた、他ならぬハリーにこそ、その名は相応しい。
 ハリーが最後に小生の頭を撫で、なにも言わずに去って行ったとき、小生はハリ―という名を、その名を名乗るに相応しい唯一の人間に還すことにした。
 小生、ハリーの名がハリウッド・ウォーク・オブ・フェ―ムの“脚本家の星”に刻まれる日を見ずしては、死んでも死にきれぬ。
 ハリー、そなたの名は永久にハリウッドの地に刻まれたぞ。
 その日をしかと見届けずして、逝くことは許されぬ。猫族の誇りにかけて誓おう。
 小生、必要とあらば125歳まで生きようぞ。なに、簡単なこと。
 毎日ごきげんに過ごしていれば、あと百年やそこいらは生きられるのであろう?
 ヴェールの信ずる神たる、ごきげん教授がそう言っているのであるからな。小生、あと百年ばかりは惰眠を貪っておることにするよ。
「ごきげんでいれば、人間は125歳まで生きられる。私は、真剣にそう考えています」
 小生は生憎、無神論猫であるが、ごきげん教授のその言葉だけは信ずることにしよう。
 ごきげん教に入信まではせぬがな。にゃー。
 ふむ。だとすれば、晩年のハリーはあまりごきげんではなかったのか。
 それは、ちと寂しいことであるな。
 小生ばかりごきげんであったとは、不徳の致すところ。猛省次第。にゃあ。
 だが、たしかに、病を得てからのハリーは、どこか火の消えた蝋燭のようであった。
 猫族は、主人の死期を敏感に悟るものであるからの。
 ハリーが「トルコに旅行しよう」と言ってきたときは、永別の準備であったと小生ひそかに悟ったものであるよ。長年の不規則極まりない生活が祟ったのか、ハリーは末期癌を患っていたようでな。
 小生よりも先にその命が尽きるであろうことを、明確に予期していたのであろう。
 我々、猫族は自らに死が近づきし時は、ひっそりと身を隠すのが流儀である。それゆえ、死に様は見せまいと主人がその身を隠そうとするならば、追ってはならぬ。それもまた飼い猫の務めなり。敬すればこそ、別れねばならなかったのだ。
 書くことに生涯を捧げたハリーは、終生所帯を持つことがなかった。頼れるような身寄りもなく、小生だけが唯一、家族と呼べるものだったようである。
 養うものなき根なし草。それゆえにハリーは、誰よりも自由な精神を持っておった。
 そのハリーと最後に旅をしたのが、トルコのハットゥシャであった。
 ハットゥシャは、ヒッタイト帝国の首都であり、現在のボアズカレである。
 トルコの首都アンカラから高速バスに3、4時間も揺られた先にあるチョルム県なる場所に位置しておる。
 ヒッタイト帝国は、今から3500年以上も前に、アナトリアの大地に栄えた古代オリエントの三大強国のひとつ。最盛期は紀元前17世紀から13世紀、日本ではちょうど縄文時代にあたる時期であるな。
 鉄器文明の栄えたヒッタイト帝国の遺跡群は、世界遺産にも登録されておるらしいの。
 大きな石を組んで造られた城壁や、アーチを描いた石柱は、いまだに健在であった。
 北の大神殿から、南のスフィンクスの門まで、ハリーと並んでぶらりと歩いた。門の中に入ると、祭壇があったの。岩場に彫刻された神々の像や、祈りを捧げる王と王妃のレリーフが実に荘厳であったな。
 城砦の外に通ずる地下トンネルを歩いた時は、柄にもなくしんみりしたのう。
 高さ3メートル、長さは70メートルにも及ぶという代物であるからな。地下道は空気がひんやりとして、冷たかったの。薄暗いを通り越して、真っ暗であった。
 暗がりでも、猫族は夜目が利くからの。病状が進行していたのか、ハリーは右足を引きずって歩いておったのが、よく見えたよ。トンネルの出口から光が漏れておった。
 地上の光は即ち、旅の終わりであった。ハリーの表情を見ると、切ない気分になったものよ。
 外壁をたどって、小生は、ハリーと王の門の前で別れた。
 ハリーは屈みこんで、小生の頭を優しく撫でてくれた。
 腕は小刻みに震えて、往年の荒っぽい撫で方とはまるっきり違っていたことが、言葉よりも雄弁にすべてを物語っていた気がする。
 それが最期の挨拶代わりであった。別れの言葉は、何もなかった。
 ありがとう、ハリー。そなたと暮らせて、楽しかったよ。
 元来た道を引き返してゆくハリーの方を振り向かずに、心の中でそう呟いた。
 小生は、去りゆく亡国の王と共に生き、共に朽ちると、そのとき誓ったのだ。
 王の門の前で、主と別れた小生もまた、静かに死んでゆくつもりだった。
 いろいろな肌の色をした観光客が、王の門の前に屈みこんで動く気配のない小生を物珍しそうに眺めているのがよく分かった。騒々しい喋り声と、時折投げて寄こされる餌が、小生ならずハリーをも侮辱しているようで腹立たしかったことをよく憶えておる。
 ハリーと別れ、それから何日が経ったかは知れない。
 餌も水もとらず、飢えても、なかなか死ねずにいる自分が惨めに思えて仕方がなかった。
 そんな時であった。ふと、これまで耳にしたことのない異国の言葉を聞いたのは。
「おや、ユーも宿無しかい?」
 丸々と肥えた、撫で肩の男が右足を引きずりながら近付いてきて、小生の前に屈みこんだのである。一瞬、ハリーが思い直して、戻って来てくれたのかと思えた。
 内心の期待からか、ずっと地面に生えた下草ばかりを見つめていたが、思わず顔を上げてしまったのである。夕暮れの光が眩しく、男の顔は判然としなかったが、ハリーよりもだいぶ若いようであった。落胆した。ハリーではなかったから。
 けれど、右足をわずかに引きずったその歩き方は、ハリーに似てなくもなかった。
「ユーは、昨日もここにいたね。気になったから、今日も来たよ」
 そう言って、男は遠慮がちに小生の頭を撫でた。
 その撫で方はともかく、分厚い掌は、ハリーとそっくりであった。
「ワタシもユーも、ひとりぼっち」
 異国の言葉であったから、なにを言っているのか分からなかったが、男が言いたいであろうことの幾らかは察することができた気がする。
「付いてくるかい?」
 男は立ち上がると、ハリーが歩いて行った方とは別の方向へ、足を引きずりながらゆっくりと歩いていった。
 祭壇と反対の方向へ。城壁の外へ。死の世界ではなく、生の世界へ。
 小生はその時、悟ったのだ。
 地上の光は即ち、旅の終わりであったが、同時に旅の始まりでもあったのだと。
 意を決して、男の後を追った。男は、そんな小生を優しく抱き上げると、流暢な英語で話しかけてくれた。英語ならば完璧に理解できた。ハリーが毎日、小生に話しかけてくれた言語であったから。
 男の声音は、低く、落ち着いたものであった。
 自分の名は、ムラト・ヴェールであると。今は、日本という国で暮らしていると。
 トルコで眼科医をやっていた頃は、目の手術をして、患者に光を取り戻してやるのが仕事であったと。だが、国家試験なるものに合格しないと、日本では医療行為ができぬと。
 日本語という言語は、いかにも難解で、もしかすると合格は厳しいかもしれないと。
 だから、合否を待つまでの間、気晴らしに母国を旅していた最中であったと。
「目の手術をすると、ほんとうに感謝されるのです」
 男は、どこか昔を懐かしむかのように、そう言った。
 先生、世界はこんなに明るく見えるのかと。世界がこんなにも違って見えると。
 ねえ、ドクター。こんなことを言うのは、非科学的かもしれぬがな。
 小生もヴェールの治療を受けたわけではないけれど、世界が違って見える気がするよ。
「ユーの名前を決めなければなりませんねえ」
 歩きながら、ぽつりとヴェールがそう言った。
 小生の、かつての名はハリー。だが、その名は、その名を冠するに最も相応しい男に返還したばかりだ。ゆえに、小生には新しい名が必要である。
 だから、ドクター。小生に相応しい名を与えてくれぬか。
「ラムセス3世……で、どうですか?」
 ヴェールは、小生の頭を撫でながら愉快そうにその名を告げた。
 ヒッタイトの首都ハットゥシャの城砦跡からは、三万枚以上の粘土板が発掘されておるらしいの。紀元前1286年に始まり、エジプトのラムセス2世とヒッタイトのムワタリ王の間で戦われた「カデシュの戦い」と、十七年後に結ばれた世界最古の和平条約である「カデシュ条約」についての公式記録が楔形文字で書かれているそうである。
 王の門の外に佇んでいた小生と、トルコ人であるヴェールの邂逅を、世界最古の和平条約に例えるとは、いかにも知識人じみた発想であった。
 王の門の前で、城壁に背を向けてひとり闘いを挑むかのように佇んでいた小生は、古代エジプト最後のファラオと目されるラムセス3世の名が相応しい。
 小生を拾い起したときに、ヴェールは、その名を思いついたという。
 なるほど、最後のファラオであるか。多分に仰々しい名ではあるが、ハリーもきっと、喜んでくれるであろう。実に、良い名を賜った。深く感謝する次第。
 我が名はラムセス、王の名を賜りし猫なり。
 ごきげんの神に帰依し、後世の民草にその教えを説くものである。
 初代はハリー、二代目はヴェール。小生は三代目である。ゆえに3世。
 小生、ゆえあって、あと百年ほどは生きるつもりである。
 人の世に絶望せし時は、そっと我が頭を撫でるがよい。
 きっと、ごきげんなご利益があるであろう。にゃー。