のう、美月よ。
 おぬしは憶えておるかのう。我輩がこの城に越してくる前に、そなたと二度ほど顔を合わせていたことを。
 そう、ガラス越しの対面であったな。傍らにおぬしの連れもおったと記憶しておる。
 名は、何といったか。確か、トモ、なんとかと言うたか。
 はて、その先がとんと思い出せぬのだが。トモなる字は、友達という意味であるのだろう。よい字であるな。吾輩、その響き嫌いではござらぬ。にゃー。
 トモ、トモ、トモ。
 時折、吾輩の頭を撫でながら、そう小さく呟くことがあるのは知っておるぞ、美月よ。
 吾輩に連れの男の面影を重ねているのであろう。
 まあ、英国紳士同士、面影が重なってしまうのも無理からぬことであるがな。
 食卓での会話を漏れ聞いたが、トモは香港で生まれたそうであるな。だとすれば、トモも英国紳士の端くれであるな。香港はかつて英国領であったそうであるからの。
 ミシマ氏と違って、快闊なインテリジェンスを感じる好人物であったな。
 吾輩、祖国に所縁があるからと、トモを贔屓している訳ではないからの。ゆめゆめ拗ねるでないぞ、ミシマ氏よ。そなたの、人生をまるで楽しんでいない感じはおそらく作家性の発露であり、市井の哲学者たる吾輩としては妙なる親近感を覚えることもあるのでな。
 トモ、トモ、トモ。
 ふうむ、その先はなんであったかのう。
 ……おおっ、トモスケ。
 そう、トモスケというたな。
 野口友輔、おぬしに連れ添っていた男の名じゃ。
 今は離ればなれに暮らしているのであろう。トモスケもきっとどこかに飼われていってしまったのであるな。人間の世界では、転勤と言うのであったか。
 愛し合うもの同士が、ひとつ屋根の下で暮らせぬとは、難儀な世の中であるな。
 吾輩も産まれたての頃、愛しき相手との別離を経験しているゆえ、そのやるせなさ、分からぬでもないぞ。
 猫種としてはアメリカン・ショートヘアーであるゆえ、吾輩は心の中でアメ姐さんと呼んでおる。淑女とは程遠い蓮っ葉な性格であったが、とにかく美しい声をしておった。
 姐さんはもう、名前を付けてくれる人間には巡りあえたのであろうか。
 居心地の良い城で何不自由なく過ごしているであろうか。
 それとも、まだ誰にも声は届かず、相も変わらずあの檻の中で暮らしておるのだろうか。
 ミズキンと違って心患わぬ吾輩ではあるが、唯一それだけが気がかりであってな。
 世界の成り立ちをよく知らなかったゆえ、姐さんと離れて暮らすようになってしまった。鏡の中で暮らしていたあの頃の吾輩にもう少しばかりの知恵があったならば、あるいは今頃、姐さんも吾輩の横にいてくれたやもしれぬ。
 どうすれば、そなたにもう一度会うことがかなうか。相すまぬが、その答えはまだ見つかっておらぬ。
「優しそうな人たちでよかったわね」
 美月と友輔に飼われることが決まった日、そなたは吾輩にはなむけの言葉を贈ってくれたな。吾輩を祝福してくれたその横顔、おそらく一生忘れまい。
 のう、美月。
 のう、トモスケ。
 どうして吾輩だけを連れていったのだ? 
 どうして彼女も一緒に城に招いてはくれなかったのか。
 吾輩の小さな身体には、あまりに大きな庭であり、持て余すほどに広い城であったというのに。

 
 ……おっと、起こしてしまったか美月よ。
 いかんな、少々感傷に浸りすぎたようである。
 ミズキンはまた三階の自室で、パソコンなる明るい箱に光を灯したまま寝入っていたようであるな。ベッドで丸まって寝ればよいものを、書きながら途中で力尽き、そのまま朝を迎えるというのが恒例のパターンであった。
 ミズキンは今現在、連続ドラマなるものの脚本を書いているそうであるが、視聴率が振るわぬと、光る箱の前で寝落ちするのが多くなるようである。
 はて、視聴率とな? 
 食べれるのであろうか、それは。名前からして不味そうであるな。
「ドラマの感想を見てると、寝れなくなっちゃって」
 いつだったか、食卓の場でミズキンがそんなことを言っておった気がする。
 寝れなくなるなら、いちいち見なければよいと吾輩は思うのだが、どうにもそうはいかぬ事情があるらしい。
「スポンサーの意向とか、いろいろあって」
 ふむ、スポンサーとな? それもまた不味そうな名前であるな。
「綾さんの主演作だし、せっかく真紀さんが制作サイドに無理言って私に回してくれた仕事だから、視聴率を取らなければいけないんだけど……」
 自室に籠って一人きりになると、ミズキンは電話越しにそんな泣き言を吐いたことが一度だけあったのう。電話先の相手は無論、トモスケであろうな。
「俺はあの脚本、良いと思うけど」
 トモスケの気遣う声は、姐さんのサイレント・ニャーの如く、か細いものであったな。
 お互い、声を聞くと何か思うところがあるのか、それからの連絡は電子文通が主になったようである。ラムセス師曰く、チャットというやつであろうかの。
 吾輩、電話よりチャットの方が好きであるな。未だ人語を操れぬゆえ、電話ではトモスケと喋れぬが、チャットであればキーボードをふみふみすれば交信が可能であるからの。
 時折ミズキンになりすまして、トモスケに返信しておることはきっと誰にも気付かれておらぬであろうよ。まあ、トモスケの名を語ってミズキンを励ましたことも数多あるがの。
 パソコンのエンターキーの上に乗ると、画面が一層明るく光りおった。
 起動じゃ、起動。筆を持てい、皆の衆。
 吾輩が文をしたためる時間であるぞ。
 ミズキンはトモスケとチャットをしながら、画面を分割して、ハーフウィンドウでドラマの感想サイトをクロールしていたようである。
 吾輩、いつものように箱の中の文字を追った。
 そこには聞き捨てならぬ一言が書き込まれておったわ。
 ――脚本家の自己満足感漂うクソドラマ。霧島綾の無駄遣い!
 はて、霧島ニャーの無駄遣いとな?
 なにを戯けたことを言うか、人間。貴様らにおめおめと使役せらるる猫族ではないわ。たわけめ。猫族を働かせようなどと、ゆめゆめ思うでないぞ。
 だいたいが、霧島ニャーは無駄に使うが丁度良いぐらい暇を持て余しておって、まるで擦り切れておらぬわ。戯言も大概にせい。
 なるほど、最近顔色が優れぬと思っとったが、このような理由であったか。
 斯様なる箱の中の住人の戯言など、吾輩の知をもって粉砕してやるというのに。
 のう、美月。あまり気に病むでないぞ。
 それでなくとも、そなたは精神が細いのであるからな。
 ――おやすみ、トモスケ
 チャットの末尾にそう記されておった。トモスケからの返信はまだないようである。
 メッセージを読みながら、返事を返さぬは重罪であるぞ、トモスケよ。磔刑じゃ。
 それでは吾輩、トモスケになり変わって、僭越ながら、その続きを記しておこうかの。
 ――夢を見るために、毎朝僕は目覚めるのです
 むう、少し違うか。これではまるで村上春樹ではあるまいか。春樹の春なるは、吾輩の呼び名の一つたるハルと同じ字であろうか。まあ、この際どうでも良かろう。
 ええと、この文字を消すのはどうやるのであったかな。バックスペース、バックスペース。おお、消えおった、消えおった。
 さて、気を取り直して書き直しである。
 ――恋に落ちると眠れなくなるでしょう。だって、ようやく現実が夢より素敵になったのだから
 ふむ、悪くない。吾輩、そうタイプして、そっとパソコンの箱の前を離れることにする。
 抜き足、差し足、忍び足である。にんにん。
 ふむ、余計なことであったかもしれぬな。まあ、トモスケは磔刑を免れたゆえ、吾輩に感謝すべきであるがの。翻って、あまり眠れぬとは、どのような苦しみであろうかの。
 吾輩、いつもぐっすりであるからの。せめて夢の中だけであっても、眠れなくなりたいものであるな。