吾輩の城の二階には、本棚と長机しか置かれていない書斎なる部屋があってな。
 ミシマ氏の蔵書なるものが所狭しと並べられておって、氏はいつもこの部屋で駄文の執筆に勤しんでおる。ミズキンも時折、この部屋に出入りしておるようであるな。図書館に行かぬでも資料集めができて大いに助かる、などと言うておったわ。
 はてさて、この書斎であるが、入ってすぐ左脇の本棚の最下段に漱石全集なる、いかにも古めかしい書物群があっての。三十冊近くも同じタイトルが並んでおるのであるな。
 その日、マイ・ボスと霧島ニャーはどこかにお出掛けしており、ミズキンは三階の自室に籠って脚本の執筆中、ミシマ氏は書くのに飽いたのか、縁側で読書という体であってな。
 誰も吾輩に構ってくれぬゆえ、手持無沙汰に書斎に忍び込んでみたのであるな。
 マイ・ボスには、この部屋にだけは入ってはいけないと前々より忠告されてはおったが、この日は咎める者も不在であったゆえ、こっそりと書斎にお邪魔してみたのである。
 入ってはいけないと止められると、俄然入ってみたくなるものであろう?
 古びた書物の匂いであるのか部屋中カビ臭くて、窓からはうず高く積まれた書籍の山のせいで光も射さぬ有様であったな。あの饐えた匂いには少々閉口するが、あの丁度良い具合の薄暗さは吾輩の好みであるな。長机の上には、書きかけの原稿用紙とパソコンなる箱が無造作に置かれておった。
 吾輩、いつになく爪が伸びておってな。同じ本が何冊もあるのであるから、一冊ぐらいは爪研ぎに使うてもよかろうと思うて、漱石全集の一冊で爪を研いだのであるな。
 丁度吾輩の背丈の届くような高さに蔵されておったのも幸いしたのであるが、気付いたら古書をボロボロにしてしもうていた。
 休憩から帰ってきたミシマ氏は、とにかく悲しそうな顔をしておったな。どうやら吾輩、取り返しのつかぬことをしてしまったらしい。
 漱石の署名があるゆえ、かの漱石本人から直接譲り受けたものであるのやもしれぬ。
 そんな貴重な代物であるとは露知らず、爪研ぎがてらに引き裂いてしもうた。
 マイ・ボスに懇々と膝詰め説教されてな。反省の意を示すために、終始視線を逸らしておったら、半刻か一刻か判然とせぬがかなり長いことそのままで、食事もその日一日抜きであった。
 ごろごろとお腹が鳴っても、うにゃあと和解交渉を持ちかけてみても、まるで取りつく島のない感じでの。
 哀れに思うたのか、夜半にミズキンが吾輩に餌を与えてくれようとしたようだが、マイ・ボスが無言で一睨みすると、ひとつ年下のミズキンは一切逆らえんようであったの。
 翌朝のことであったな。吾輩、あまりに腹が減って頭がぐるぐる回って目眩までしておったゆえ、普段なら目覚めぬことのない早朝に起きてしまったのであるな。
 深夜に執筆するミシマ氏は朝に起きてくることは滅多になく、猫まっしぐらの霧島ニャーに至っては律儀に昼まで惰眠を貪ることが常態と化しておる。
 ゆえに、朝の食卓の席に並ぶ顔ぶれは、必然マイ・ボスとミズキンということになる。
 ミズキンが台所で包丁を握っておったゆえ、背伸びして台所の縁に爪を立ててみたのである。マイ・ボスがごく近くに控えておる手前、駄目もとの食事の催促であるな。
 けれど、ミズキンは食事の用意に夢中であったのか、吾輩の気配に気づく様子もなくてな。ミズキンは普段は聡いのだが、どうにも抜けておるところが時折見え隠れするのが玉に瑕であってな。
 吾輩の魂の叫びをあっさりとスルーするとは、今後の信頼関係が揺らぎかねない失態であると猛省を促す次第であるな。にゃあ。
「ソラ、お腹すいたでしょう。食べなさい」
 吾輩、しょんぼりと項垂れておったら、なんとマイ・ボスが吾輩の傍らに朝ご飯を用意してくれたのであるな。
 霧島ニャーと同じく朝起きぬ吾輩にとって、はじめての朝食であった上に、一日ぶりの食事であったからの。吾輩、感動で打ち震えて、ろくに味も分からなかったのであるが、マイ・ボスの偉大さと寛大さを身を持って知ったのである。
 なるほど、これが飴と鞭。
 頭の内ではその手筋の妙を分かっていてすら、絶大なる効力があるものよのう。
 人心掌握、もとい猫心掌握術なるものをよく心得ておるわ。
 さすがに、零細とて芸能事務所を一手に取り仕切る上役のことはある。
 猫族の端くれだけにどこか甘っちょろいところのある霧島ニャーと、厭世的な文筆家であるミシマ氏と、見習い脚本家で、それでなくとも精神的に折れやすいミズキンを束ねる器量は、素直に感心せらるるものがあるな。
 ミシマ氏と霧島ニャーとマイ・ボスが同い年であるなどとは到底信じられぬ。
 まだ三十路にすらなっていないというのに、マイ・ボスのあの威圧感たるや、げに恐ろしきなり。立場が人を作るのか、はたまた生まれし時から賜りし素養であるかは知らぬが、この城内でマイ・ボスにだけは逆らうてはならぬと吾輩悟った次第である。
 以来、マイ・ボスが吾輩の周囲数メートル範囲まで近接せしは、敬意と畏怖の念を持って、しかと目を逸らすのである。が、マイ・ボスとしてはその態度がどうにもお気に召さない様子。
 いつも上の空で、常に目を逸らすからソラ。
 なんとも皮肉なる名を吾輩に与え賜ったのである。まあ、その名をマイ・ボスに呼ばれると、えも言われぬこそばゆい感じがして悪い気はせぬのだが。にゃー。
 マイ・ボスとミシマ氏が夫婦別姓なのは、対外的に舐められないためにとの配慮なのであろうかの。本人たちがそれで納得しておるのであれば、それで良いのではないかな。男女のことにとやかく嘴を挟むのは野暮というものであろうよ。
 まあ、ミシマよりウチダの方が、語の響きからしてよほど強そうであるからの。
 島は海にぷかぷか浮かんでおるもので、田は土地に根を下ろして、作物が実るよう荒れ地を耕すものであるしのう。おおっ。そういえば、霧島も三島も、どちらも島であるな。たしかに、どちらも世間から浮かんでおるわ。
 美月とて同じであるな。月なるものは、空に浮かんでおるものであって、三者とも誰も地に足が着いておらぬわ。
 マイ・ボスと吾輩がおらねば、この城はゆうに人の手に渡っておるであろうな。
 ミシマ氏と霧島ニャーとミズキンが心患うことなく、世間の波をふわふわと漂っておられるのは、ひとえにマイ・ボスのひとかたならぬ献身あってのことである。
 内田真紀と書いて、マイ・ボスと読む。
 ゆえに、マイ・ボスにソラと名を呼ばれるのは光栄でもあり、いささか不本意でもある。
 吾輩も、荒れた大地に田畑を築く者の一匹であるゆえ。
 吾輩も、弱卒なれど野を駆けるハンターの端くれゆえ。
 ……にゃー。