吾輩には、敬する先輩猫が二匹いる。
「ハルボーイ、ちょっと押してくれんか」
 吾輩のお城を囲う塀の中央に取り付けられた鉄製の門扉。その格子の間に挟まって動けない様子の肥えた黒猫が吾輩に向かって懇願しておる。
 隣家に住みついている老猫、ラムセス三世の声である。
 左頬に大きな十字傷があるのが特徴で、なんでも戊辰戦争の頃に負った刀傷であるという。戦争という、これまでに聞いたこともない大仰な言葉をそれとなく操る賢人である。
 ラムセス師は、IQ740もある超頭脳を有しているらしく、人語を解するだけでなく、人間との対話まで可能であると聞く。
 うむ、それは少しばかり羨ましい限りである。
 吾輩、餌が欲しい時に頭を撫でられても腹が立つばかりゆえ、言葉が通じるのであればいちいちを身振り手振りで示す必要もなくなるというものだ。
「しばし待たれよ、ラムセス師」
 吾輩、門扉の前に近寄ってみるが、これまた見事に嵌まったものである。師の巨腹が格子にめり込んで閊えておる。非力な吾輩の力では、押しても、引いてもびくともしそうにない。
「小こいのに、相変わらず古風な喋り方するのお、ハルボーイ」
 格子に嵌まりながらも、目を細めて笑みを浮かべるラムセス師の超然とした態度には、一種の余裕すら漂っているかのようであった。さすがの吾輩にも真似のできぬ泰然自若の所作である。
「何ゆえ、吾輩をハルボーイと呼称するのであるか、ラムセス師」
 動けぬラムセス師に常なる疑問をぶつけてみることにした。
「そりゃあ、ハルボーイがこの家に飼われた季節が春だったからさ」
 さも億劫そうにラムセス師がそう告げた。
「飼われる? 吾輩の誕生日は二月二十二日である」
 春ではなく、冬である。
「なんだい、ハルボーイ。猫の日に生まれたんか、そうかそうか」
 ラムセス師は一人楽しそうに笑っておられる。いったい何が可笑しいのであろう。
「何が可笑しいのであろうか、ラムセス師」
 もう少し吾輩にも理解できるよう配慮してほしいものである。まったく。
「何って、そりゃあ二月二十二日だろう?」
 吾輩、こくりと小さく頷く。だから、それの何が可笑しいのであろうか。
「ニャンニャンニャンの日。つまり、猫の日さ」
 至極、真面目な顔で言い腐りおった。
「……なるほど、語呂合わせでござったか」
 溜め息交じりに呟くと、ラムセス師がわずかに怪訝そうな顔をした。
「どうした、ハルボーイ。悩み事か?」
 悩み事というほどのことでもあるまい。そもそも猫族に悩みなど似つかわしくなかろう。
「吾輩もラムセス師のように人語を操りたいのであるが、その術、いかにして身につけたのであるか?」
「なんだ、そんなことかい」
 師はけらけらと笑った。
「IQ740を超えると、人間との会話が可能になるようだのう」
 ラムセス師のひしゃげた髭が微風に揺れる。
「それは真であるか?」
「なんなら、人間がこの場にいれば、話して見せられるのであるがなあ」
 師はさも残念そうに呟いた。残念、至極。吾輩とて心は同じである。
「吾輩、まだIQが740の水準に達しておらぬのか」
 思わず、空を見上げてしまった。抜けるような青空が眩しい。
「心配なさんな、ハルボーイ。君はまだ若い」
 諭すような声であった。格子に嵌まりながらも、その声はいかにも長老のそれであった。
「IQはある日、指数関数的に伸びるものだからな。猫らしく、安心して惰眠を貪っておればよい」
 なるほど、左様であるか。ならば、吾輩もいずれは人語を操れるようになるであろう。
「やはり、師は物知りであるな」
 ラムセス師は、猫端会議における吾輩の先生である。かように偉大なる師が隣家に住んでいるその幸運に感謝せねばなるまい。アーメン。
 と、その時、門扉の近くから聞き慣れた靴音が二つ。
 図らずも、吾輩庭先に身を潜める次第である。端的に言えば条件反射である。にゃあ。
「おうい、ハルボーイ」
 くぐもった声が風に乗って耳に運ばれてきたが、吾輩、断腸の思いで耳を塞ぐ所存。
 すまぬ、ラムセス師。吾輩、貴兄よりも敬うべき上位の存在があるのである。
 扉の外で、何かを叩く音が聞こえた。ぎいっと古めかしい音がして、門扉が開かれる。
「おっ、助かった」
 片開きの門扉が開閉することによって幾分の隙間ができたのか、格子に嵌まり込んでいたラムセス師は何ごともなかったかのような顔をして、去って行ったようである。庭先からちらと様子を伺うと、師の短い尻尾が揺れていた。今後は助けろよ。そういう意味であることはすぐに知れた。
 面目ない、ラムセス師。次回は必ずやお助け申し上げる。
「ねえ、いま喋らなかった? あの黒猫」
 一人と一匹が連れ立って、吾輩の城に帰ってきたようだ。
「はあ? そんな訳ないでしょ」
 ハイヒールの靴音を響かせて、颯爽と歩く黒髪の女性がそう答えた。
 並んで歩く、小さい方の一匹。栗色の毛並みが揺れている。
 霧島綾という名であるらしい。
 霧島、綾。
 吾輩の高性能な耳には、霧島ニャーと聞こえるのであるが。
 いや、ほんと。
 霧島、ニャー。
 にゃーではなく、ニャーではあるが。
 そうか、お主もニャーと言うのか。
 うむ、いい響きであるな、ニャーよ。
 お主とは存外よい友達となれそうな予感がするぞ。
 今日はお出掛けのためにめかしこんでおるのか、尻尾は隠しておるらしい。髭も隠れておる。だが、こやつも吾輩と同じ猫族の生き物であろう。IQが740を超えているようには到底見えぬが、こやつも人語を操るようである。
 こんなに図体ばかりがデカくては不便であろうの。書棚の上では眠れぬし、洗濯機の中にも潜れぬ。せいぜいがソファの上で丸まって眠るくらいか。
「あらっ、ソラ。そこにいたの。ただいま」
 黒髪の女性、名を内田真紀という。内田女史が吾輩に優しげな声をかけてきた。
 思わず、ぷいと視線を逸らす吾輩。
「ソラじゃなくて、ハルだよ。真紀ちん」
 いつも上の空だからソラ。あんまりだ。
 哲学しているのだよ、マイ・ボス。寝惚けてはいるが、眠ってはおらぬ。
「ほんと、真紀ちんには懐かないよねー。すぐ目逸らすし」
 おっと、馬鹿を言うでないぞ、霧島ニャー。
 目を逸らすのは、吾輩一流の服従のポーズである。
 吾輩、そなたに一切の敵意は御座らぬ。そういう意味であろう。
 そういう、兜を脱いだ態度であろう。それがなぜ分からぬか。
 霧島ニャーは吾輩の先輩猫であるが、内田真紀は吾輩のボスである。
 何ゆえ、ボスであるのかと?
 それは、いずれ説明する。この場で言えることは唯一つ。
 逆らってはならぬものには歯向かわない。
 それは猫族に代々伝わる、いつの世も変わらぬ処世術である。
 ……眠い。
 ……にゃー。