春の陽気の中、縁側でごろりと横になってお昼寝。
これ以上に至福の時間もそうはあるまい。
「いいのかい、ハルボーイ」
頭上で、ラムセス師の間延びした声が聞こえた気がした。
「こんなところでうたた寝しておって。どうやら、おぬしの待ち人が来とるようだぞ」
薄目を開け、寝がえりを打つと、師のひしゃげた髭が吾輩の頬に触れた。
「待ち人? それは誰であるか?」
「そんなもん、行けば分かるさ」
それもそうであるな。師は大仰に前足で髭を弄くっておられる。
四の五の言わず、とっとと行け。そういうことであろう。
師の言葉に導かれ、吾輩は二階の書斎横にある台所へと向かった。
来客がありし際は大抵一階の事務所に通されるが、親しき仲の場合はこちらである。
はて、吾輩の待ち人とは誰のことであろうか。皆目見当もつかぬ。
台所に入ると、椅子に腰掛けるマイ・ボスの背中が見えた。うむ、背中でよかった。
その向かいにミズキンが掛けておる。その横にもう一人。
おおっ、あれなるは! トモスケではあるまいか。
ト、モ、ス、ケー!!! 久しいな、久しいのう。
ほらっ、早よう抱き上げよ。感動の再会であるぞ。
「おう、元気だったか。チビスケ」
吾輩、チビスケではござらぬが。元気だったぞ。元気であったとも。
そなたはどうであったか?
ミズキンは、そなたがおらぬと夜毎寂しそうな顔をしておったぞ。
それがなんとも不憫であったな。
「そういえば、三島先生は?」
トモスケよ、もっと他に聞くことがあるであろう。唐変木め。
「パソコンの前でフリーズしてるわ」
マイ・ボスがあっさりとそう答えおった。
「は? パソコンがフリーズしてるのではなく、先生がフリーズですか?」
パソコンはサクサク動くがな。肝心のミシマ氏がフリーズしてるのであるよ。
「まあ、執筆前の儀式みたいなものね」
左様。パソコンなる光る箱に最初の文字列が紡がれるまでに、優に一刻ほどは待たねばならぬ。酷い時は、終日箱の前で固まったままであるな。
「最近じゃ、その子を抱いて前足でキーボードを押させていたもの」
あれはいい迷惑であったな。吾輩、暇すぎて欠伸を噛み殺すのに必死であった。
「なんか、意味あるんですか?」
意味など在らぬ。お陰で吾輩、タイピングなるものまで完全に覚えてしまった次第。
「猫の手も借りたいって言ってたわね」
ここは笑うところであるぞ、トモスケ。にゃあ。
ほらっ、おぬしが微妙な反応をするから、マイ・ボスがご立腹ではないか。
吾輩、怖くてそちらの方を見れぬではないか。くわばらくわばら。
「いやー、こいつ真紀さんが話しかけると本当に目を逸らすんですね。面白っ」
無理に頭をマイ・ボスの方に向けるでない。痛いわ。
向かぬぞ、そっちには向かぬ。絶対に向かぬー。
「ね、失礼しちゃうでしょう」
何故? 何故、吾輩に咎を求めるのであるかマイ・ボスは。
こら、ミズキン。にこにこ黙ってないで助け船を出すのじゃ。にゃあ。
「それで、看板女優殿は?」
阿呆。起きておる訳があるまい。まだ昼前であるからな。
マイ・ボスの盛大な溜め息が聞こえてくるようである。見ずとも分かるわ。
「寝てるわ」
そうであろうな。猫族は夜行性であるから仕方あるまい。
「相変わらずなんですね」
そこで苦笑いであるか。
おぬし、笑うタイミングがワンテンポ遅いと思うぞ。
「そ、相変わらず」
ミズキンは静かにお茶を啜っておる。
吾輩も餌が欲しいのであるが。それに喉も渇いたのう。
「それで、美月はどうですか。ご迷惑はおかけしてないですか?」
やっと本題であるな、トモスケよ。
「迷惑なんて全然。美月ちゃんにはとっても助けてもらってるわ。食事の用意とかまでしてくれるし。ね?」
最後の「ね」に某かの深い意味が込められている気もするが。
詮索するのは止めておく。マイ・ボスが恐ろしいゆえ。ね?
「……いえ、大したお手伝いも出来てなくて。仕事でもご迷惑おかけしてばかりで」
ミズキンがしきりに恐縮しておる。
大丈夫、マイ・ボスは怒っておらぬぞ。ね?
「そんなことないわよ。何より昼夜逆転してないのがいいのよね。やっと、まともな生活リズムの住人が住んでくれて、私は本当に嬉しいわ」
しみじみ。心の底からしみじみと言っておるようであるな、マイ・ボスよ。
「それで、友輔君はこっちではどこに住むつもり? 部屋ならまだ空いてるけど、美月ちゃんと一緒に住むのかしら」
トモスケも吾輩の城に住めば良いではないか。そうだ、それが良かろう。
「いえ。会社の近くに住めと言われているので、ここに住めるかは微妙な線ですね」
なんだ、一緒に住めぬのかトモスケよ。
「それにまだ引き継ぎがあるので、引っ越しはもう少し先になりそうなのですが」
トモスケはそう言うと、傍らに置いてあった木製の籠を開けた。
「ひとまず、この子を先に預かってもらえませんかね」
「あら、アメリカン・ショートヘアーね。女の子? 大人しいのね」
そこにいたのは、まさしく吾輩の待ち人であった。いや、正確には待ち猫であるな。
「チビスケをペットショップで見つけたときに、一緒のケージに入っていた子なんですよ」
トモスケ、余計なことを。
迎えに行くのは吾輩の役目であるというのに。まったく。
「気立ての良い子なんですけど、滅多に鳴かないんですよ。でも、歌うように鳴くんです。とっても綺麗な声なんですよ。……店員さんがそう言ってましてね」
昔を懐かしむように、トモスケはそう述懐しおった。
その声に合わせたかのように、アメ姐さんは小さく鳴いた。
「たしかに、綺麗な鳴き声ね」
――私を見つけてくれてありがとう、か。
そう言いたい気持ち、吾輩もよく分かる気がするの。それにしても、なんだ。
ちゃんとサイレント・ニャー以外の音域も操れるようになっているではないか。
ふん、そなたも世俗に染まりおったのう。少し、複雑な気分であるな。
「チビスケを買った後にこの子を見たら、なんだか物凄く寂しそうな顔をしているように見えたんですよ」
まさしくその通りであるよ、トモスケ。
――優しそうな人たちでよかったわね
美月と友輔に飼われることが決まったあの日、吾輩にそんな餞別の言葉をかけてくれた当の本人がいちばん寂しそうであったからの。
「俺も転勤で美月と離れなきゃならない状況だったから、余計にそう思えたのかもしれないですけど」
トモスケは照れ隠しであろうか頭を掻いて、いったん言葉を切った。
続きの言葉は言わずとも分かるぞ。トモスケ、おぬしは真の英国紳士であるな。
「ああ、こいつらを離ればなれにしたら可哀そうだ。だったら、この子は俺の転勤先に連れて行こう。また東京に戻ってきたら、みんなで一緒に暮らそうなって。そう思って次の日、この子を飼うことにしたんです」
美月も友輔もつれないの。
ひとことぐらい、言うてくれれば良かったのにのう。
「行こう。吾輩の城を案内しようぞ」
吾輩はそう言って、久方ぶりに会った姐さんの手を取って台所の外へ出た。
吾輩たちを引き止める声はなかった。それでは書斎以外の部屋を案内しようかの。
「素敵なお城ね」
そうであろう。吾輩、自慢の城である。
「それで、ここでは何て呼ばれているの?」
うむ、相変わらず良い声であるな。
喋り方も上品になっておる気がする。若干であるが。
「吾輩、名前はまだない」
「あら、どうして?」
そんなに心配しなさんな。冗句であるよ。
吾輩に名前がないのは、そなたが思うような理由からではあらぬ。
邪険に扱われてのことではない。むしろ、その逆である。
「正確に申せば名前がまだないのではなく、名前が多すぎて未だひとつに定まっておらぬ」
吾輩は人気者であるからな。誰もが吾輩に特別な名を授けたくなるようであるな。
加えて吾輩は顔も広いゆえ、住む世界ごとに名がいくつもあるのであるよ。
「ふーん。じゃあ、私がぴったりの名前をつけてあげるわよ」
そなたはトモスケに良い名を付けて貰ったようであるな。
その名をたいそう気に入っておるのであろう。聞かずともよく分かるぞ。
「それはかたじけない」
またひとつ、特別な名が増えてしまうな。
「エージ」
間髪置かず、迷いなき口調でそなたはそう言うたな。
「なにゆえ?」
「だって、あなた英国紳士なんでしょう? え、い、こ、く、し、ん、し。略してエージ」
いつも上の空だからソラ。すぐ目を逸らすからソラ並に安直なネーミングであるな。
どうして吾輩に近しい者は、皆我輩に皮肉めいた名を付したくなるのであろうか。
これもまた、吾輩の生まれが高貴すぎることがやっかみの遠因であるのかの。
そこはかとなく漂うノーブルな知性なるものは、ひたすらに隠そうと思っても、知らず滲み出てしまうものであるからの。市井の哲学者たる宿命であるな。うむ。
「あら、お気に召さない?」
お気に召すまいもなにも。
「吾輩は猫である」
いろいろな名で呼ばれる猫である。
時にソラであり、時にトモであり、時にハルであり、時にハルボーイであり。
ミシマ氏は吾輩の名を呼ぶことこそ滅多にないが、漱石全集をびりびりに破いた直後は、吾輩を漱石とかニャー石などと呼んでおったようであるな。
いずれにせよ安直極まりない名だがの。
売文家になり切れない作家先生であるから、名付けが下手でも仕方あるまいに。
「……何よ」
さりとて今度はエージか。ふむ、悪くはあるまい。格別良くもないが。
「名前は、まだない」
親しみを込めて吾輩の名を呼ぶ声あれば、その名は何であっても一向に構わぬ。
「ふん。せっかく名付けてあげたのに失礼しちゃうわね」
口元を尖らせている割には、存外楽しそうな顔つきであるな。
「して、そなたの名は?」
トモスケはそなたに何という名を付けたのであろうな。
「名前はまだないわ」
いや、そんなはずはあるまい。
トモスケがそなたに城を与えたならば、同時に名も与えたはずであろう。
それとも城だけ与えられて、名も呼ばれず放って置かれていたのであろうか。
「なにゆえ?」
吾輩心なしか詰問口調になってしまったやもしれぬが、そなたは余裕の笑みを浮かべておるな。ご主人から呼ばれる名が無くて、それの何が楽しいというのか。
「あなたに付けてもらった名前はまだないわ。だから名前はないの」
なるほど、意趣返しか。然らば吾輩受けて立とうぞ。
「では、吾輩がそなたにぴったりの名前をつけて進ぜようぞ」
おお、そなたに相応しい名が唐突に浮かんできおったぞ。
「シロ。そなたの名はシロであろう」
狭い檻から出て、念願の城を与えられしそなた。
汚れなき透明なる美声を持つそなた。
勝ち気で、なんでも白黒つけなければ気の済まぬそなた。
「お気に召さなんだか?」
よもや、これ以上に相応しい名前はとんと浮かんで来ぬな。
「なんだあ、知ってたんだ。私の名前」
無論、知っていた訳ではない。まさしく、今この場で思いついた名であるからな。
そう詰まらなそうな顔をするでないぞ。
とはいえ、吾輩とトモスケが与えた名は偶然にも一致したようであるの。
なるほど、良い名とは斯様に安直であるものであるか。
「……それで? あなたの名前はなんて呼べばいいわけ」
吾輩、どの名もそれぞれに気に入っておるが。
「そうさな。強いて上げるなら」
マイ・ボスには申し訳ないが、やはりいちばんはこの名であろうかの。
「吾輩の名は……」
吾輩が、この城を与えられし季節。
それゆえ一等、特別な季節である。
「ハル」
以後、吾輩の名はハルに統一してもらえると嬉しいの。もちろん、親しみを込めて吾輩の名を呼ぶ声あれば、たとえ他の名であってもきちんと反応はすると思うがの。
「吾輩はハルである」
言うまでもあるまいが、念のため。
吾輩は猫である。名は先に申し上げた次第。
にゃー。
これ以上に至福の時間もそうはあるまい。
「いいのかい、ハルボーイ」
頭上で、ラムセス師の間延びした声が聞こえた気がした。
「こんなところでうたた寝しておって。どうやら、おぬしの待ち人が来とるようだぞ」
薄目を開け、寝がえりを打つと、師のひしゃげた髭が吾輩の頬に触れた。
「待ち人? それは誰であるか?」
「そんなもん、行けば分かるさ」
それもそうであるな。師は大仰に前足で髭を弄くっておられる。
四の五の言わず、とっとと行け。そういうことであろう。
師の言葉に導かれ、吾輩は二階の書斎横にある台所へと向かった。
来客がありし際は大抵一階の事務所に通されるが、親しき仲の場合はこちらである。
はて、吾輩の待ち人とは誰のことであろうか。皆目見当もつかぬ。
台所に入ると、椅子に腰掛けるマイ・ボスの背中が見えた。うむ、背中でよかった。
その向かいにミズキンが掛けておる。その横にもう一人。
おおっ、あれなるは! トモスケではあるまいか。
ト、モ、ス、ケー!!! 久しいな、久しいのう。
ほらっ、早よう抱き上げよ。感動の再会であるぞ。
「おう、元気だったか。チビスケ」
吾輩、チビスケではござらぬが。元気だったぞ。元気であったとも。
そなたはどうであったか?
ミズキンは、そなたがおらぬと夜毎寂しそうな顔をしておったぞ。
それがなんとも不憫であったな。
「そういえば、三島先生は?」
トモスケよ、もっと他に聞くことがあるであろう。唐変木め。
「パソコンの前でフリーズしてるわ」
マイ・ボスがあっさりとそう答えおった。
「は? パソコンがフリーズしてるのではなく、先生がフリーズですか?」
パソコンはサクサク動くがな。肝心のミシマ氏がフリーズしてるのであるよ。
「まあ、執筆前の儀式みたいなものね」
左様。パソコンなる光る箱に最初の文字列が紡がれるまでに、優に一刻ほどは待たねばならぬ。酷い時は、終日箱の前で固まったままであるな。
「最近じゃ、その子を抱いて前足でキーボードを押させていたもの」
あれはいい迷惑であったな。吾輩、暇すぎて欠伸を噛み殺すのに必死であった。
「なんか、意味あるんですか?」
意味など在らぬ。お陰で吾輩、タイピングなるものまで完全に覚えてしまった次第。
「猫の手も借りたいって言ってたわね」
ここは笑うところであるぞ、トモスケ。にゃあ。
ほらっ、おぬしが微妙な反応をするから、マイ・ボスがご立腹ではないか。
吾輩、怖くてそちらの方を見れぬではないか。くわばらくわばら。
「いやー、こいつ真紀さんが話しかけると本当に目を逸らすんですね。面白っ」
無理に頭をマイ・ボスの方に向けるでない。痛いわ。
向かぬぞ、そっちには向かぬ。絶対に向かぬー。
「ね、失礼しちゃうでしょう」
何故? 何故、吾輩に咎を求めるのであるかマイ・ボスは。
こら、ミズキン。にこにこ黙ってないで助け船を出すのじゃ。にゃあ。
「それで、看板女優殿は?」
阿呆。起きておる訳があるまい。まだ昼前であるからな。
マイ・ボスの盛大な溜め息が聞こえてくるようである。見ずとも分かるわ。
「寝てるわ」
そうであろうな。猫族は夜行性であるから仕方あるまい。
「相変わらずなんですね」
そこで苦笑いであるか。
おぬし、笑うタイミングがワンテンポ遅いと思うぞ。
「そ、相変わらず」
ミズキンは静かにお茶を啜っておる。
吾輩も餌が欲しいのであるが。それに喉も渇いたのう。
「それで、美月はどうですか。ご迷惑はおかけしてないですか?」
やっと本題であるな、トモスケよ。
「迷惑なんて全然。美月ちゃんにはとっても助けてもらってるわ。食事の用意とかまでしてくれるし。ね?」
最後の「ね」に某かの深い意味が込められている気もするが。
詮索するのは止めておく。マイ・ボスが恐ろしいゆえ。ね?
「……いえ、大したお手伝いも出来てなくて。仕事でもご迷惑おかけしてばかりで」
ミズキンがしきりに恐縮しておる。
大丈夫、マイ・ボスは怒っておらぬぞ。ね?
「そんなことないわよ。何より昼夜逆転してないのがいいのよね。やっと、まともな生活リズムの住人が住んでくれて、私は本当に嬉しいわ」
しみじみ。心の底からしみじみと言っておるようであるな、マイ・ボスよ。
「それで、友輔君はこっちではどこに住むつもり? 部屋ならまだ空いてるけど、美月ちゃんと一緒に住むのかしら」
トモスケも吾輩の城に住めば良いではないか。そうだ、それが良かろう。
「いえ。会社の近くに住めと言われているので、ここに住めるかは微妙な線ですね」
なんだ、一緒に住めぬのかトモスケよ。
「それにまだ引き継ぎがあるので、引っ越しはもう少し先になりそうなのですが」
トモスケはそう言うと、傍らに置いてあった木製の籠を開けた。
「ひとまず、この子を先に預かってもらえませんかね」
「あら、アメリカン・ショートヘアーね。女の子? 大人しいのね」
そこにいたのは、まさしく吾輩の待ち人であった。いや、正確には待ち猫であるな。
「チビスケをペットショップで見つけたときに、一緒のケージに入っていた子なんですよ」
トモスケ、余計なことを。
迎えに行くのは吾輩の役目であるというのに。まったく。
「気立ての良い子なんですけど、滅多に鳴かないんですよ。でも、歌うように鳴くんです。とっても綺麗な声なんですよ。……店員さんがそう言ってましてね」
昔を懐かしむように、トモスケはそう述懐しおった。
その声に合わせたかのように、アメ姐さんは小さく鳴いた。
「たしかに、綺麗な鳴き声ね」
――私を見つけてくれてありがとう、か。
そう言いたい気持ち、吾輩もよく分かる気がするの。それにしても、なんだ。
ちゃんとサイレント・ニャー以外の音域も操れるようになっているではないか。
ふん、そなたも世俗に染まりおったのう。少し、複雑な気分であるな。
「チビスケを買った後にこの子を見たら、なんだか物凄く寂しそうな顔をしているように見えたんですよ」
まさしくその通りであるよ、トモスケ。
――優しそうな人たちでよかったわね
美月と友輔に飼われることが決まったあの日、吾輩にそんな餞別の言葉をかけてくれた当の本人がいちばん寂しそうであったからの。
「俺も転勤で美月と離れなきゃならない状況だったから、余計にそう思えたのかもしれないですけど」
トモスケは照れ隠しであろうか頭を掻いて、いったん言葉を切った。
続きの言葉は言わずとも分かるぞ。トモスケ、おぬしは真の英国紳士であるな。
「ああ、こいつらを離ればなれにしたら可哀そうだ。だったら、この子は俺の転勤先に連れて行こう。また東京に戻ってきたら、みんなで一緒に暮らそうなって。そう思って次の日、この子を飼うことにしたんです」
美月も友輔もつれないの。
ひとことぐらい、言うてくれれば良かったのにのう。
「行こう。吾輩の城を案内しようぞ」
吾輩はそう言って、久方ぶりに会った姐さんの手を取って台所の外へ出た。
吾輩たちを引き止める声はなかった。それでは書斎以外の部屋を案内しようかの。
「素敵なお城ね」
そうであろう。吾輩、自慢の城である。
「それで、ここでは何て呼ばれているの?」
うむ、相変わらず良い声であるな。
喋り方も上品になっておる気がする。若干であるが。
「吾輩、名前はまだない」
「あら、どうして?」
そんなに心配しなさんな。冗句であるよ。
吾輩に名前がないのは、そなたが思うような理由からではあらぬ。
邪険に扱われてのことではない。むしろ、その逆である。
「正確に申せば名前がまだないのではなく、名前が多すぎて未だひとつに定まっておらぬ」
吾輩は人気者であるからな。誰もが吾輩に特別な名を授けたくなるようであるな。
加えて吾輩は顔も広いゆえ、住む世界ごとに名がいくつもあるのであるよ。
「ふーん。じゃあ、私がぴったりの名前をつけてあげるわよ」
そなたはトモスケに良い名を付けて貰ったようであるな。
その名をたいそう気に入っておるのであろう。聞かずともよく分かるぞ。
「それはかたじけない」
またひとつ、特別な名が増えてしまうな。
「エージ」
間髪置かず、迷いなき口調でそなたはそう言うたな。
「なにゆえ?」
「だって、あなた英国紳士なんでしょう? え、い、こ、く、し、ん、し。略してエージ」
いつも上の空だからソラ。すぐ目を逸らすからソラ並に安直なネーミングであるな。
どうして吾輩に近しい者は、皆我輩に皮肉めいた名を付したくなるのであろうか。
これもまた、吾輩の生まれが高貴すぎることがやっかみの遠因であるのかの。
そこはかとなく漂うノーブルな知性なるものは、ひたすらに隠そうと思っても、知らず滲み出てしまうものであるからの。市井の哲学者たる宿命であるな。うむ。
「あら、お気に召さない?」
お気に召すまいもなにも。
「吾輩は猫である」
いろいろな名で呼ばれる猫である。
時にソラであり、時にトモであり、時にハルであり、時にハルボーイであり。
ミシマ氏は吾輩の名を呼ぶことこそ滅多にないが、漱石全集をびりびりに破いた直後は、吾輩を漱石とかニャー石などと呼んでおったようであるな。
いずれにせよ安直極まりない名だがの。
売文家になり切れない作家先生であるから、名付けが下手でも仕方あるまいに。
「……何よ」
さりとて今度はエージか。ふむ、悪くはあるまい。格別良くもないが。
「名前は、まだない」
親しみを込めて吾輩の名を呼ぶ声あれば、その名は何であっても一向に構わぬ。
「ふん。せっかく名付けてあげたのに失礼しちゃうわね」
口元を尖らせている割には、存外楽しそうな顔つきであるな。
「して、そなたの名は?」
トモスケはそなたに何という名を付けたのであろうな。
「名前はまだないわ」
いや、そんなはずはあるまい。
トモスケがそなたに城を与えたならば、同時に名も与えたはずであろう。
それとも城だけ与えられて、名も呼ばれず放って置かれていたのであろうか。
「なにゆえ?」
吾輩心なしか詰問口調になってしまったやもしれぬが、そなたは余裕の笑みを浮かべておるな。ご主人から呼ばれる名が無くて、それの何が楽しいというのか。
「あなたに付けてもらった名前はまだないわ。だから名前はないの」
なるほど、意趣返しか。然らば吾輩受けて立とうぞ。
「では、吾輩がそなたにぴったりの名前をつけて進ぜようぞ」
おお、そなたに相応しい名が唐突に浮かんできおったぞ。
「シロ。そなたの名はシロであろう」
狭い檻から出て、念願の城を与えられしそなた。
汚れなき透明なる美声を持つそなた。
勝ち気で、なんでも白黒つけなければ気の済まぬそなた。
「お気に召さなんだか?」
よもや、これ以上に相応しい名前はとんと浮かんで来ぬな。
「なんだあ、知ってたんだ。私の名前」
無論、知っていた訳ではない。まさしく、今この場で思いついた名であるからな。
そう詰まらなそうな顔をするでないぞ。
とはいえ、吾輩とトモスケが与えた名は偶然にも一致したようであるの。
なるほど、良い名とは斯様に安直であるものであるか。
「……それで? あなたの名前はなんて呼べばいいわけ」
吾輩、どの名もそれぞれに気に入っておるが。
「そうさな。強いて上げるなら」
マイ・ボスには申し訳ないが、やはりいちばんはこの名であろうかの。
「吾輩の名は……」
吾輩が、この城を与えられし季節。
それゆえ一等、特別な季節である。
「ハル」
以後、吾輩の名はハルに統一してもらえると嬉しいの。もちろん、親しみを込めて吾輩の名を呼ぶ声あれば、たとえ他の名であってもきちんと反応はすると思うがの。
「吾輩はハルである」
言うまでもあるまいが、念のため。
吾輩は猫である。名は先に申し上げた次第。
にゃー。

