吾輩は猫である。名前はまだない。
 ……ないの? うん、ないの。
 名前なるものがないと、ちと困ることがある。いや、大いに困ることと言って差支えなかろう。なにが困るかって、吾輩を呼ぶ名前が統一されていないことである。
 ある人は吾輩をミケといい、ある人は吾輩をタマと呼ぶ。また、ある人は吾輩をクロといい、はたまたある人は吾輩をソラと呼ぶ。そして、ある人は吾輩をハルと呼ぶ。
 はて、吾輩はいったいどの名前に反応していいものであるのか、皆目見当もつかぬ。
 不思議と吾輩をポチと呼ぶ者はおらぬ。あれは犬族固有の名前であるらしいゆえ。
 さっさと吾輩に良い名をつけてくれとにゃーにゃーご主人をせっついてはいるが、なにぶん吾輩のご主人は優柔不断な性分であるらしく、ああでもない、こうでもないと名前ひとつ付けるのに難渋している始末である。
 ご主人の名はミズキンである。脚本家とゆー職業の生き物であるらしい。
 毎日せっせとつまらない脚本を書いているが、いつも「書けない、書けない」と紙クズを丸めて、床に放り投げている。白と黒と掠れた灰色が入り混じったくしゃくしゃの原稿用紙は、妙なる肌触りがして、そこはかとなく芳しい匂いが漂っているのである。
 ためしに前足で引っ掻いてみると、ぺしゃりと凹むではないか。おうおう、ういやつじゃ。ちこうよれ。うりうり。凹むのう、楽しいのう。わはは。
 丸めた原稿用紙をぺしぺししていると、ミズキンが目を細めて吾輩を見ている……ような気がした。どうせ原稿書きに飽いたのであろう。餌を放ってくれれば、半刻ばかりなら構ってやらんでもないぞミズキンよ。
 おやっ、ミズキンがこちらになにかを放ったようである。餌か? 餌ではあるまいか? 毎日、ネコ缶とキャットフードなるものに飽いたところである。生肉か、赤くて少々筋張った刺身なるものも時には食したい気分である。
 吾輩のような猫族は、人間のいうところの視力なるものが0.1ほどしかないゆえ、少々離れているとご主人の顔はぼんやりとしか判別できぬのであるが、まあ、ご主人か否かは、匂いと声の調子で判るゆえ、大した問題ではあるまい。
 吾輩に餌をくれるものすべてミズキンであり、つまるところ、ミズキンは母であり、友であり、家族であり、奴隷であり、遊び相手である。
 しかして、吾輩の安眠を邪魔するものは、ミズキンとてミズキンではあらぬ。
 吾輩、日に十六時間は寝ないと体力が持たぬ身体ゆえ。
 人間と違って繊細であるのだよ。いや、ほんと。
 そこんとこ、ちゃんとわかっとるのかね、ミズキンは。
 お猫様をなんだと思ってるのかね。まったく。
 夜遅くまでパソコンなるものに光を灯してカタカタカタカタしてると、夜半とて明るいし五月蠅くて、まともに眠れぬ。ゆえに吾輩、最近不機嫌であらせられる。睡眠不足は即ち猫に対する敬意の欠如であり、冒涜であろう。
 吾輩、安眠を求めてストライキも辞さぬ所存である。
 気軽ににゃーなどとは泣いてはやらぬ。お愛想で、にゃあで十分。にゃあ。
 ミズキンよ、新手の餌で吾輩のご機嫌を伺おうなど笑止千万。
 まずはそのパソコンなるものをさっさと消すが良い。
 さもなくば、かじるぞ。にゃあ。
 机によじ登って、パソコンの上で軽快なるダンス。
 どうだ、華麗であろう?
 むむ、意外と暖かくて居心地が良いぞ。
 おっと、いかんいかん。思わず丸まって寝そべってしまったではないか。
 吾輩、ストライキを申し入れに来たのである。闘いに来たのである。春闘である。
 旺盛なる闘争意欲を示すため手近にあったものに噛みついてみる。がぶり。
 ……ん?
 ……んん?
 ……んんん?
 不味い。味がせぬ。吐く。うえーーー。
 餌だと思ったら、エラいことになったよ、うん。
 ――教訓。
 脚本、食べちゃ駄目。

 笑うでない、ミズキン。
 温厚な吾輩とて怒るぞ。にゃあ。
 こっ、こら。
 気安く頭を撫でるでない。
 ふん、き、気持ちよくなんかないぞ。
 吾輩、まだ眠とうないぞ。にゃあ。にゃあ。にゃあ。

 ……気づいたら、朝であった。不覚。
 ……昼まで眠ることにしよう。
 ……にゃー。