土曜日の朝、今日俺は引っ越してしまう。
玄関の前に並んだ段ボールが、まるで“本当に終わり”を突きつけてくるみたいだった。
(あー……ついに、この日が来た。)
ガムテの匂いと段ボールの数。それだけで現実を突きつけられる。引越し業者は大物と段ボールを積んで先に出発した。
母さんがバタバタしてて、父さんは荷物を車に積んでる。弟の知はゲームしてる。
(こいつ、最後の朝もマイペースかよ。)
「兄ちゃん、ハル兄来る?」
「来ないよ、多分」
「絶対来るよ」
「なんで断言できんの」
「そりゃ来るだろ。ハル兄、兄ちゃんのこと大好きだし」
「……余計なこと言うな」
チャイムが鳴った。
(……え?)
玄関を開けると、案の定陽翔が立ってた。
白いTシャツに薄いブルゾン。
寝癖のままみたいな髪。
でも、整った顔が真っすぐだった。
ほんと、太陽みたいなやつ。
「おり。行く前に会いたかった」
「……来るなって言ったじゃん」
「聞いてないし」
「聞けよ」
「無理」
「……バカ」
「それ、褒め言葉で受け取る」
「勝手にすんなよ」
(もう、なんでこの人は、
全部“当然みたいな顔”して俺の中に入ってくるの。)
その時母さんがリビングの方から声を出した。
「織ー、車に荷物全部乗せるから、織は電車で行ってね」
「えっ、なんで俺だけ」
「荷物でギュウギュウだし、駅のほうが早いでしょ」
(電車か……最後の登校日みたいな気分だな。)
荷物を整理して、家の前の道を、ふたりで歩いた。
空気は少し冷たくて、どこかでカラスの声がする。
「織……ほんとに行くの?」
「行くしかないでしょ」
「そっか」
「そっか、って言うな」
このどうでもいい会話が、一番しんどい。
「じゃあ、言わない」
「言わないで黙るのも困る」
「めんどくさいな」
「お互い様じゃん」
ふたりで笑った。胸の奥がぎゅっと痛い。
駅に着いて、改札を通り、ホームで足が止まる。
電車のアナウンスが遠くで響いて、ホームには冷たい風が吹いていた。
「……なぁ、織」
「ん」
「俺、やっぱ好きだわ」
「いきなりなに?」
「最後くらい、ちゃんと言う」
「……」
「これからも会いに行く。
でも、友達じゃ足りない」
「……」
陽翔が少し息を吸い込んで、言葉を重ねた。
「恋人になってほしい」
「っ……」
(出た……!ついに、出た。もう逃げ道ないやつ!)
「……お前さ」
「ん?」
「こんなタイミングで言う?」
「今日言わなきゃ、後悔する」
「……」
「だから今、言う」
「……ほんと、びっくりするくらい真っ直ぐだな」
「それが俺」
「知ってる」
「で?」
「……」
「返事」
「……俺も、好きだよ」
声が震えた。自分の声なのに他人の声みたいだった。
陽翔の目が少し見開かれて、それから、ふっと笑った。
「だと思ってた!!」
「はぁ??なんなの!?」
「めっちゃ嬉しい」
「顔に出すな!」
「出るわ」
「出すなってば!」
「恋人だから、いいだろ」
「言うの早くない!?」
陽翔が笑って、ためらいもなく、俺の手を取り指を絡めた。流れるような動きで『恋人つなぎ』をしてきた。
人前とか関係なしに。
「ほら、もう離れないよ」
「駅員見てる!」
「見られてもいいの」
「よくねー!」
「恋人だもん」
「まじで黙って!!」
でも、手を離さなかった。
電車がホームに入ってくる。風が強く吹いて、マフラーが揺れた。
(来なくていいのに、って初めて思った。)
「……行くなって言いたいけど、言ったら泣く」
「言わなくていい」
「代わりに、約束する」
「なにを?」
「……また会いに行く。彼氏として」
「……マジで、バカ」
「おそろいだろ?」
電車のドアが開く。陽翔が俺の手をぎゅっと握った。
陽翔が俺の手をいったん緩めて、親指で手の甲をトン、トンと二回叩いた。
(やめろ、その合図。覚えるだろ。)
二回のトントン。
たしか、あれは『また明日』の合図。
「じゃあ、また」
「うん」
「『また明日』って言って」
「……また明日」
「……うん!」
陽翔が笑った。
太陽みたいな笑顔だった。
発車ベルに重ねて、
「また明日」がもう一回聞こえた気がした。
車窓の外で、小さくなる駅のホーム。
陽翔がまだ立っていて、手を振っていた。
涙がにじんで、それでも視線だけは外せなかった。
胸の奥が熱くて、
目の奥が痛くて、
でも、不思議と笑えた。
〈残念なお知らせ。〉
今日、俺は恋人ができた。
そして、それは世界一うるさい太陽だ。

