残念なお知らせ。俺、来週転校するらしい。


 朝、通学路の空気が冷たくて、風が顔に当たるたびに昨日のドキドキがよみがえる。

 ほんと、朝日陽翔という男は、俺の心臓のスイッチを勝手に押すタイプだ。でも、押されるたびに俺の世界のコントラストが上がる。眩しくて、ちょっと悔しい。
 
 校門をくぐった瞬間、空がやたら青かった。

あー……なんか……またフラグだな。絶対今日、なんか起きるやつ。

 昇降口の前で待ってた陽翔が、いつもの笑顔で手を振った。

「おりー! おはよ!」
「元気すぎ。なんで毎朝そんなソーラーパワー全開なの」
「昨日の織の『明日行く』ってメッセージで充電満タン」
「え、俺、行くとか言ってないって」
「既読=了承って法則知らねぇの?」
「初耳!」
(ほんと、陽翔辞書は常に強引。)
でも、強引なほど、記憶にはっきり残ってしまう。


 放課後のチャイムが鳴ると同時に、陽翔が俺の机をトントン叩いた。

「行くぞ」
「だからどこに」
「サプライズ」
「怖いんだけど」
「いいから」
「『いいから』がいちばん信用ならない!」

 それでも結局、荷物を持ってついて行ってしまうあたり、俺もだいぶ慣らされてる。

 鞄の重さより、胸のほうが落ち着かない。
今日は、何かが変わる気がした。

 駅を二つ越えた小さな海沿いの町。潮の匂いと風の音。陽の光がゆらゆらして、風は冷たい。
 波がほどけるたび、心拍が一拍ずつ整っていく。なのに、期待だけは逆に早くなってる。

「……海?」
「うん」

「ここ……なんで?」
「昔、夏に一回来ただろ」
「え……あー、あの花火大会のとき?」
「そう」
「よく覚えてんな」
「忘れるわけないだろ」

 ……あのときの花火。海の向こうで上がるやつ。
俺が転んで、陽翔が笑ってた。小学生の夏の記憶。

「ほら、こっち」

 陽翔が堤防の上を歩いていく。風が強くて、髪が顔にかかる。

「寒くね?」
「ちょっと」
「ほら」

 陽翔が自分のマフラーを外して、俺の首に巻いた。ふわっと移った陽翔の体温があったかい。
 
「っ、なにしてんだよ」
(首元って……なんでこんなに弱いの、俺。)

「俺の方が厚着だし」
「そういう問題じゃないって!」
「似合ってるじゃん」
「今それ言うなって!」

顔が熱い。海風よりあったかいのやめて……!


堤防の端っこに、陽翔が紙袋を置いた。

「なにそれ」
「プレゼント」
包装紙のこすれる音が、波よりはっきり聞こえた。
 
「誕生日じゃないよ?」
「転校祝い」
「笑えねー」
「まぁ見ろって」

 袋の中には、小さなフォトフレームが二つ。
中には二人の制服姿のプリクラ。
確か高校入ってすぐのとき、ふざけて撮ったのを覚えてる。
 そのフォトフレームの中にもう一枚写真がはまってる。
2人でスマホで自撮りした写真だった。
これも中学の時、何気なく学校の帰り道に陽翔が「自撮り!ポーズして」と急かされて撮ったやつだ。
 陽翔は太陽の笑顔でイケてる。対して俺は焦ってしまって、ピースサインが微妙な形で顔も口を開けて「ぽかん」とした表情。

「え、これ……」

「俺の分と、織の分。
 俺のは部屋に飾る。
 お前のは、引っ越したら部屋に置いとけ」

「……」

「俺、約束する。離れても、毎週会いに行く」
「バカ、そんなの――」
「マジだよ」

 あー、もう。こいつ、真っ直ぐすぎる。
 冗談でも軽口でもなく、本気で言ってる声だ。

「……ありがと」
「素直」
「言うなって」
「そーいうとこ好き」

「……」

「顔、赤っ」
「寒いんだよ!!」
「じゃ、あっためてやる」
「な――」

 陽翔の腕が、また背中にまわった。
息が止まる。波の音と心臓の音だけが聞こえる。

「織……キスしていい?」
「っ……」
 
「ダメなら言え」
「……ダメって言ったら?」

「しない」
「……じゃあ」
「うん?」

「……言わない」

 陽翔が小さく笑って、顔が近づく。
まつげの先が触れたと思った瞬間には触れていた。

――キス、してた。

時間がとまる。
静かになる。

潮の匂いと、陽翔の甘い息。
 
 ……ああ、やばい。心臓の音、ぜんぶ聞かれてる。

 ゆっくり離れたあと、陽翔が目を細めて笑った。
陽翔の指が、そっと俺の頬をなぞった。その指先が離れるまで、何も言えなかった。
(なにか言わなきゃ、って思うのに、言葉がどっか行ったわ。)
 波の音が代わりに全部しゃべってくれてるみたいだった。

「……やっと、キス、できた」

「……バカだね」
「バカ同士おそろい」
「しらないよ……」

 でも、この風の冷たさも、波の音も、きっと今日のことと一緒に忘れないと思う。


 帰りの電車の中は、さっきの海みたいに静かに感じた。

 隣の席に座る陽翔は、あまり喋らなかった。
でも、腕と肩が触れてる。
何度か目が合って、そのたびに、どっちからともなく視線を逸らした。

(……夢じゃないよな?あれ。)

 陽翔の指先が、シートの間でそっと俺の指に触れる。
言葉じゃなくても、全部伝わるってこういうことなのかもしれない。

 あの時唇が、重なったとき。
ほんの数秒だったのに、その間、なんの音も聞こえなくなった気がした。

「なぁ、織」
陽翔が小さくつぶやく。

「ん」
「俺、今日のこと一生忘れないわ」
「忘れろよ」
「無理」
「だからそういうこと簡単に言うなって……」
「簡単に言うわけない」

「……」

「ずっと言いたかったこと、全部詰め込んだから」

(あー、もう、そういうの!そういうとこだって……)



◇◇

 駅に着いて、降りたホームの風が冷たかった。家までの道を一緒に歩く。

「はぁ、織……そろそろ帰んなきゃな」
「うん」
 
「明日、荷物詰めるんだろ?」
「うん」
 
「手伝おうか?」
「いや、家族いるし」
 
「知くんに会いたい」
「やめろ、絶対茶化される」
 
「それはそれで見たい」
「ドMすぎ」
「織だけだもん」

「もういいから……」

陽翔が少し笑って、ホームの端で空を見上げた。

「ね。好きって言葉、もう一回聞いてもいい?」
「え……言ってないし」

「じゃあ、今」
「いやいやいや!」
「いや、の顔じゃないけど?」

「うるっさいっ!!」

「俺ばっか言ってんの、不公平」
「しらねーよ」

「言え、とは言わないよ。
 でも、思ってるなら、伝わってるから」

(……うわ、ずるい。
 ほんとにずるい。
 何も言えなくなる言い方、ずるすぎ。)

 でも言葉にするより、今は温度でわかってほしい。
そう思った自分に、少し驚いた。

「……じゃあ、伝わってんなら
 ……それでいいじゃん」

「うん。それでいい」

笑って、陽翔が俺の頭をぽん、と軽く叩いた。

(ほんと、これで最後みたいな顔しないでよ。)



 夜、部屋で段ボールを組み立てながら、頭の中では陽翔の笑顔ばかり浮かんでた。

「……もおおお〜!」

 叫んだ瞬間、スマホが震えた。

陽翔:おり、今日はありがとな
陽翔:明日、行っていい?
織:だめ
陽翔:なんで
織:泣く
陽翔:じゃあ、泣くの見に行く
織:お前ほんとにバカ
陽翔:バカでよかった
陽翔:おやすみ、織

画面を見つめながら、笑いそうになって、でも胸が痛くなる。

(ほんと、俺の人生に、どんなタイミングで入り込んできたの、お前。)


 夜風がカーテンを揺らして、冷たい風が入った。少し開いていた窓を閉める。
明日は、引っ越し準備の土曜日。

(今日を合わせたらあと二日……。)

カウントダウンの数字より、今日の出来事のほうが現実的だった。
 
もう数えたくもないのに、自然と数えてしまう。

 だけど不思議と、
今はちょっとだけ――怖くなかった。

 

〈残念なお知らせ。〉

今日俺は、
もう”離れられなくなった”らしい。
さよならが近いのに、まだ全然終わる気がしない。