朝、通学路の空気が冷たくて、
風が顔に当たるたびに昨日の鼓動がよみがえる。

(ほんと、朝日陽翔という男は、
 俺の心臓の電源スイッチを勝手に押すタイプだ。)
それでも、押されるたびに俺の世界のコントラストが上がる。
眩しくて、ちょっと悔しい。
 
 校門をくぐった瞬間、空がやけに青かった。

(あー……なんか……またフラグだな。
 絶対今日、なんか起きるやつ。)

 昇降口の前で待ってた陽翔が、
いつもの笑顔で手を振った。

「おりー! おはよ!」
「元気すぎ。なんで毎朝そんなソーラーパワー全開なの」
「昨日の織の“明日行く”ってメッセで充電満タン」
「え、俺、行くとか言ってないって」
「既読=了承って法則知らねぇの?」
「初耳だわ!」

(ほんと、陽翔辞書は常に強引。)
でも、強引なほど、記憶にはっきり残ってしまう。


放課後のチャイムが鳴ると同時に、陽翔が俺の机をトントン叩いた。

「行くぞ」
「だからどこに」
「サプライズ」
「怖いんだけど」
「いいから」
「“いいから”がいちばん信用ならない!」

 それでも結局、
荷物を持ってついて行ってしまうあたり、
俺もだいぶ慣らされてる。

 鞄の重さより、胸のほうが落ち着かない。
今日は、何かが変わる気がした。

 駅を二つ越えた小さな海沿いの町。
潮の匂いと風の音。
陽の光がゆらゆらして、風は冷たい。
 波がほどけるたび、心拍が一拍ずつ整っていく。
なのに、期待だけは逆に早くなってる。

「……海?」
「うん」

「ここ、どうしたんだよ」
「昔、夏に一回来ただろ」
「え……あー、あの花火大会のとき?」
「そう」
「よく覚えてんな」
「忘れるわけないだろ」

(……あのときの花火。
 海の向こうで上がるやつ。
 俺が転んで、陽翔が笑ってた。
 小学生の夏の記憶。)

「ほら、こっち」

 陽翔が堤防の上を歩いていく。
風が強くて、髪が顔にかかる。

「寒くね?」
「ちょっと」
「ほら」

 陽翔が自分のマフラーを外して、俺の首に巻いた。
ふわっと移った陽翔の体温があったかい。
 
「っ、なにしてんだよ」
「俺の方が厚着だし」
「そういう問題じゃないって!」
「似合ってる」
「うるさい!」

(顔が熱い。海風よりあったかいのやめて……!)


堤防の端っこに、陽翔が紙袋を置いた。

「なにそれ」
「プレゼント」
包装紙のこすれる音が、波よりはっきり聞こえた。
 
「誕生日じゃないぞ」
「転校祝い」
「笑えねーよ」
「まぁ見ろって」

 袋の中には、小さなフォトフレームが二つ。
中には二人のプリクラ。
制服で撮ったやつ。
少し前、確か高校入ってすぐのとき、ふざけて撮ったのを覚えてる。
そのフォトフレームの中にもう一枚写真がはまってる。
 2人でスマホで自撮りした写真だった。
これも中学の時、何気なく学校の帰り道に陽翔が「自撮り!ポーズして」と急かされて撮ったやつだ。
 陽翔は太陽の笑顔でイケてる。対して俺は焦ってしまって、ピースサインが微妙な形で顔も口を開けて「ぽかん」とした表情。

「おい、これ……」

「俺の分と、織の分。
 俺のは部屋に飾る。
 お前のは、引っ越したら部屋に置いとけ」

「……」

「俺、約束する。
 離れても、毎週会いに行く」
「バカ、そんなの――」
「マジだよ」

(あー、もう。こいつ、真っ直ぐすぎる。
 冗談でも軽口でもなく、本気で言ってる声だ。)

「……ありがと」
「素直」
「うるさいな」
「そーいうとこ好き」

「……」

「顔、真っ赤」
「寒いんだよ!!」
「じゃ、あっためてやる」
「な――」

 陽翔の腕が、また背中にまわった。
息が止まる。
波の音と心臓の音だけが聞こえる。

「織……キスしていい?」
「っ……」
 
「ダメなら言え」
「……ダメって言ったら?」

「しない」
「……じゃあ」
「うん?」

「……言わない」

 陽翔が小さく笑って、
顔が近づく。
まつげの先が触れたと思った瞬間――

二人の唇が、重なった。

時間が止まる。
静かになる。

潮の匂いと、陽翔の甘い息。
それだけで、今日が一生ものになった。
 
(……ああ、やばい。
 心臓の音、ぜんぶ聞かれてる。)

 ゆっくり離れたあと、陽翔が目を細めて笑った。
陽翔の指が、そっと俺の頬をなぞった。
その指先が離れるまで、何も言えなかった。
(なにか言わなきゃ、って思うのに、言葉がどっか行ったわ。)
 波の音が代わりに全部しゃべってくれてるみたいだった。

「……やっと、キス、できた」

「……バカだね」
「バカ同士おそろい」
「しらないよ……」

(でも、
 この風の冷たさも、波の音も、
 きっと今日のことと一緒に忘れないと思う。)


 帰りの電車の中は、さっきの海みたいに静かに感じた。

 隣の席に座る陽翔は、いつもより口数が少ない。
でも、腕と肩がかすかに触れてて、そのぬくもりがまだ残ってる。

(……夢じゃないよな、あれ。)

 陽翔の指先が、シートの間でそっと俺の指に触れた。
言葉じゃなくても、全部伝わるってこういうことなのかもしれない。

 あの時
唇が、触れたときの熱。
ほんの数秒だったのに、
その間、なんの音も聞こえなくなった気がした。

「なぁ、織」
陽翔が小さくつぶやく。

「ん」
「俺、今日のこと一生忘れないわ」
「忘れろ」
「無理」
「だからそういうこと簡単に言うなって……」
「簡単じゃねぇ」

「……」

「ずっと言いたかったこと、全部詰め込んだから」

(あー、もう、そういうの!そういうとこだって……)



 駅に着いて、
降りたホームの風が冷たかった。
街灯がひとつずつ灯って、人の声が遠くに響いている。

「はぁ、織……そろそろ帰んなきゃな」
「うん」
 
「明日、荷物詰めるんだろ?」
「うん」
 
「手伝おうか?」
「いや、家族いるし」
 
「知くんに会いたい」
「やめろ、絶対茶化される」
 
「それはそれで見たい」
「ドMすぎ」
「織限定だもん」

「うるさい……」

陽翔が少し笑って、
ホームの端で空を見上げた。

「なぁ」
「ん」
「“好き”って言葉、もう一回聞いてもいい?」
「……言ってねぇし」

「じゃあ、今」
「いやいやいや!」
「“いや”の顔じゃねぇけど」

「うるさいっ!!」

「俺ばっか言ってんの、不公平」
「しらねーよ」

「言え、とは言わないよ。
 でも、思ってるなら、伝わってるから」

(……くそ、ずるい。
 ほんとにずるい。
 何も言えなくなる言い方、ずるい。)

 言葉にするより、今は温度でわかってほしい。
そう思った自分に、少し驚いた。

「……じゃあ、伝わってんならそれでいいだろ」

「うん。それでいい」

笑って、
陽翔が俺の頭をぽん、と軽く叩いた。

(ほんと、これで最後みたいな顔すんなよ。)



 夜、部屋で段ボールを組み立てながら、
頭の中では陽翔の笑顔ばかり浮かんでた。

「……もおおお〜!」

 叫んだ瞬間、スマホが震えた。

陽翔:おり
陽翔:今日はありがとな
陽翔:ちゃんと帰れた?
織:帰れた
陽翔:明日、行っていい?
織:だめ
陽翔:なんで
織:泣く
陽翔:じゃあ、泣くの見に行く
織:お前ほんとにバカ
陽翔:バカでよかった
陽翔:おやすみ、織

画面を見つめながら、
笑いそうになって、でも胸が痛くなる。

(ほんと、俺の人生に、
 どんなタイミングで入り込んできたんだよ、お前。)


 夜風がカーテンを揺らして、冷たい風が入った。
少し開いていた窓を閉める。
明日は、引っ越し準備の土曜日。

(今日を合わせたらあと二日。)

カウントダウンの数字より、今日の出来事のほうが現実的だった。
 
もう数えたくもないのに、自然と数えてしまう。

 だけど不思議と、
今は少しだけ――怖くなかった。

 

残念なお知らせ。

今日俺は、もう”離れられなくなった”らしい。
さよならが近いのに、まだ全然終わる気がしない。