昨日の夜、何度も“普通にしよう”って頭で繰り返した。
けど、脳がその言葉を信用してくれない。
 
 朝、教室のドアを開ける前に、深呼吸した。
(……今日は、できるだけ自然に。
 昨日みたいにペース乱されるのはもうゴメンだ。)

が、扉を開けた瞬間。
 
 目の前の光景が、一瞬で眩しくなる。
見慣れた教室なのに、太陽が一個増えたみたい。

「おりー! おはよ!」

「うわっ!」

 陽翔がすでに俺の席の横に立ってた。
笑顔全開、光量過多。

「お前、朝からテンション高すぎ」
「いつも通りだろ」
「昨日より明るいだろ」
「昨日より織の顔が見えたからかなー」
「お前さ……」

(もう無理。朝から心臓がフル稼働。)

「なぁ、今日部活休みだし、帰り――」
「無理」
「まだ何も言ってない」
「なんとなく分かる!」

会話が、追いかけっこみたいに続く。
逃げようとするほど、距離が近くなるのが不思議だった。
 
「エスパー?」
「学習した」
「帰り、一緒に――」
「だから無理って!」

陽翔が眉を下げた。
 
「……そっか。避けてんの?」
「避けてねーし」
 
 ほんとは自分でも分かってる。
避けるほど、余計に意識してしまうこと。
それが一番タチ悪いってことも。
 
「顔」
「……!」
「顔が“避けてます”って書いてある」
「書いてないって!」

(うわ、もうこれどうしよう。
 普通に話すだけでドキドキすんのが悪いんだ。
 だから、距離を置いたほうが落ち着けるって、ほんとに思ってんのに。)



 1時間目が始まっても、隣の席が気になって集中できない。
陽翔が鉛筆回してる音、ノートの紙の音、
全部がうるさく感じる。
 ペンの先がノートに当たるたび、
その音だけが近くで響いて、ついでに俺の胸にまで響いてくる感じ。

「織」
「なに」
「寝てんの?」
「起きてる!」
「ならいい」

(なんなの、その安心の仕方……!)
 

 休み時間になった。
教室の空気がちょっと違うことに気がついた。
なんかこう、みんなの視線が……痛い。

(何があった?
 俺、なんかやらかしたっけ?
 ……いや、やらかしたわ。昨日の帰り、手つないで歩いたんだった……!)

 その時、
「織、あのさ、今日一緒に帰りたい。いーだろ?」
陽翔が顔を覗き込んで至近距離で話してくる。
 
その瞬間、クラスの女子がざわっと笑う。

「ねぇ、昨日見た?」
「駅前で手つないでたよね?」
「やっぱりそうなんだ〜!」

(……見られてたぁぁぁ!!!)

 机の上のシャーペンを握る手が汗で滑る。
心臓が教室の中心にでもあるみたいに、ドクドクいってる。
ああ、終わった。完全に終わった。

「……陽翔」
「ん?」
「お前……バレた」
「何が」
陽翔がぽかんとした顔で聞き返す。
 
「いや、もう全部」
「全部って?」
「手とか!」
「手?」
「お前、わざとだろ!」
「わざとじゃねぇよ。自然現象」
「自然現象って言うな!」

(頼む、先生、早くチャイム鳴らして……!)
 


 昼休み、俺はわざと席を外して、誰もこなさそうな屋上につづく階段でパンを食べてた。

一人になりたくて。
落ち着きたくて。


なのに。


 背後の気配だけで分かった。
この感覚、もう身体が覚えてしまってる。
 
「ここいた」

「!!」

陽翔が袋持って立ってた。

「……探すなよ」
「そりゃ探すだろ」

その言い方が、優しすぎて反論できない。
 
「なんで」
「織がいねぇと昼、味しないし」
「……お前、どんだけ俺中心だよ」
「俺のソーラーパネルみたいなもんだから」
 目の前の笑顔が、ほんとに眩しすぎて視線を逸らした。
太陽の話なんて冗談なのに、妙に説得力あるわ。
 
「黙れ太陽エネルギー」
「褒め言葉?」
「違うわ!!」

 陽翔は隣に座って、勝手に自分のパンの袋を開けた。
何も言えない。
言ったらまたペース握られる。

(ていうか、俺の“避け期間”短すぎない?半日もってないぞ。)



 放課後になって、教室を出ようとしたら、
背中を軽く掴まれた。
 指先の感触が、制服越しでも分かる。
逃げようとした足が、その一瞬で止まった。

「なに」
「ちょっと」
「……なに」
 
「なんで今日、俺から逃げてんの」
「逃げてないよ」
「じゃあなんで目そらす」
「そらしてないし!」
 
 俺の顔が会話より先に答えを出してる気がした。
無駄に熱くて、嘘がつけない。
 
「今もそらしてる」
「うるせー」

 陽翔が苦笑する。
でもその目は真っ直ぐだった。
 
(なんで逃げられないって分かってるのに、逃げたいふりだけ上手くなっていくんだ。)

「なぁ」
「……」
「昨日、手つないだろ」
「忘れてねーよ」

「俺さ、
 あのときから、織を手離したくなくなったんだよ」

「……お前、ほんっとバカ!」
「バカでいい。
 お前にだけ、バカって言われたい」

「……」

心臓が、また忙しく働き始めた。
さっきまで避けようとしてたのに、顔を上げたらもう距離が近くて、
あの茶色の瞳に全部見透かされてた。

「……ほんと、うざい」
「うざいって言われるの、結構好き」
「ドMだな」
「織限定だし」

「しらねーよ……!
 俺ちょっと職員室に用事あるから!お前先帰れよ!」

(ほんと、
 避けようとしても、全然避けらんねぇ。)

 その後、俺はなるべく人目を避けて移動して、
校舎裏の自販機の影でジュース飲んでた。

(あー……明日からどうすんだ俺。
 完全に“朝日の相方”ポジ確定じゃん。
 転校する前に、なんか青春の全イベント制覇してる気がする。)

後ろから声がした。

「隠れてんの?」

「びっくりした!」

「見っけ」

陽翔が自販機の影に立ってた。
ポケットに手を突っ込んで、笑いながらこっちを見る。

「……お前、嘘つくの下手だし。噂になって人気者だし」
「お前のせいでな」
「俺のせい?」
「“俺の織”発言、流出したからだろ、絶対」

「あー……かも」
「“かも”じゃない!!」
「でもまぁ、いーじゃん」
「いーわけあるか」

 陽翔の“かも”の軽さに、
こっちの焦りだけが浮き彫りになる。
ふざけた口調なのに、声の奥の優しさがわかってしまう。
 
「俺は別に、みんなに知られても困んねぇし」
「俺は困る!!」
「なんで」
「なんでって……」

 言葉が詰まる。

 言葉にした瞬間、今の関係が壊れてしまう気がした。
だから、何も言えなかった。
ただ、陽翔の声が少し震えてるのだけ、分かった。
 
どうしてか分からないけど、
“理由を説明したら本音まで出てしまいそうで”怖かった。

 陽翔は少し黙って、
ペットボトルを俺の隣に置いた。

「……なぁ、織」
「ん」
「俺、別に周りになんて言われても平気だけど、
 お前が困るなら……」
「……」
「気をつける。
 でも、離れたくはない!」

その言葉が落ちる音が、風に混ざった。


 日が沈む前、グラウンドに、
夕陽が校舎のガラスに反射して、キラキラときれいな教室の影ができていた。

「なぁ、陽翔」
「ん」

「俺、転校する実感まだなくてさ」
「……俺も。
 実感ないけど、焦ってる」
「焦ってる?」
「時間が足りないし」

「なにそれ」
「……言いたいこと、全部言える気がしない」
「じゃあ、今言えよ」

「……」

 陽翔が少しだけ笑った。
「お前、マジで怖いくらい真っ直ぐだな」

「絶対お前には言われたくないやつだろ」

そのまま沈黙。
風が強くなって、制服の裾が揺れた。
陽翔が一歩、近づいてきた。

「ちょ……近い」
「逃げんな」
「お前、またそれ言う……」

 肩が触れた瞬間、一気に熱くなった。
逃げようと体を引いたのに、逆に引き寄せられた。

次の瞬間、
陽翔の腕が俺の背中に回った。
肩を抱き寄せられて、呼吸が止まる。

だ、抱きしめられてる?
(……は? な、なにしてんの!?)

「静かにしてろ」
「お前が静かにしろ!」
「……落ち着く」
「落ち着いてんの俺じゃなくてお前だろ!」
「うるさい」

 胸の鼓動が重なって、
どっちの音かもう分からなかった。
たぶん、俺のほうが早い。
 
「ちょ、ほんと、近……っ」

 胸の鼓動が耳のすぐ横で響いた。
心臓が暴れて、頭の中まで熱が上がっていく感じ。

陽翔の声がすぐ耳元で囁く。

「な、やっぱこうしてると安心する」
「……ばっかじゃねぇの」

「お前も安心してんじゃねぇの?」
「してない!」

「顔、真っ赤」
「うるさいってば!」

(ほんとは、ちょっと安心してるけど。
 そんなこと、言えるわけないだろ。)


 帰り道、いつもより歩くペースが遅かった。
陽翔が手をポケットに突っ込んで、小さく言った。

「なぁ、織」
「ん」
「俺、お前が転校しても、迎え行くから」
「は?」
「駅まで。毎週でも行く」
陽翔が小さく笑った。
 
「どんな距離感だよ……」
「恋愛距離」
「うるさいよ!」
 
 ふざけた言葉なのに、
その声が少し震えて聞こえた。
たぶん、笑って誤魔化してるのは俺のほう。
 
 陽翔が笑って、俺もつられて笑った。
ほんと、しょうがねぇやつ。

でも、
その笑顔が沈む夕陽の色に当てられてるのを見て、
胸がきゅうっとした。
 このまま時間が止まればいいのに、
なんて考えたのは、たぶん初めてだった。


残念なお知らせ。
太陽から逃げようとしても、光の速さには勝てなかった。