昨日の夜、何度も頭で唱えた。
――普通にしよう。普通に。
でも、脳がその言葉を信用してくれない。
朝、教室のドアを開ける前に、深呼吸した。
(……今日は、できるだけ自然に。
昨日みたいにペース乱されるのはもうゴメンだ。)
が、扉を開けた瞬間。
目の前の光景が、一瞬で眩しくなる。見慣れた教室なのに、太陽が一個増えたみたい。
「おりー! おはよ!」
「うわっ!」
陽翔がすでに俺の席の横に立ってた。
笑顔全開、光量過多。
「お前、朝からテンション高すぎ」
「いつも通りだろ」
「嘘だ。昨日より明るい」
「昨日より織の顔が見えたからかなー」
「お前さ……」
(もう無理。朝から心臓がフル稼働。)
陽翔が鞄を机に置きながら、当たり前みたいに言う。
「なぁ、今日部活休みだし、帰り――」
「無理」
「まだ何も言ってない」
「なんとなく分かる」
「エスパー?」
「学習した」
「帰り、一緒に――」
「だから無理って!」
陽翔が眉を下げた。
その顔されると罪悪感出てくるからやめて……。
「……そっか。避けてんの?」
「避けてない」
ほんとは自分でも分かってる。
避けるほど、余計に意識してしまうこと。
それが一番タチ悪いってことも。
「顔に避けてます、って書いてある」
「書いてないって!」
うわ、もうこれどうしよう。普通に話すだけでドキドキすんのが悪いんだって。
だから、距離を置いたほうが落ち着けるって、ほんとに思ってんのに。
◇◇
1時間目が始まっても、集中できない。陽翔が鉛筆回してる音、ノートの紙の音、全部がうるさく感じる。
「織」
「なに」
「寝てんの?」
「起きてる!」
「ならいい」
(なんなの、その安心の仕方……!)
休み時間になった。教室の空気がちょっと違うことに気がついた。なんかこう、みんなの視線が……痛い。
何があった? 俺、なんかやらかしたっけ?
……いや、やらかしたわ。昨日の手つないで帰ったんだった……!
そのタイミングで陽翔が顔を覗き込んできた。
「織、今日一緒に帰りたい。いーだろ?」
「ちっか!!」
その瞬間、クラスの女子がざわっと笑う。
「昨日見た?」
「駅前で手つないでたよね?」
「やっぱりそうなんだ〜!」
(……見られてたぁぁぁ!!!)
机の上のシャーペンを握る手が汗で滑る。心臓が教室の中心にでもあるみたいに、ドクドクいってる。
ああ、終わった。完全に終わった。
「……陽翔」
「ん?」
「お前……バレた」
「何が」
陽翔がぽかんとした顔で聞き返す。
「いや、もう全部」
「全部って?」
「手とか!」
「手?」
「お前、わざと!?」
「わざとじゃねーよ。自然現象」
「自然現象って言うな!」
(頼む、先生、早くチャイム鳴らして……!)
◇◇
昼休み、俺はわざと席を外して、誰もこなさそうな屋上につづく階段でパンを食べてた。
一人になりたくて。
落ち着きたくて。
……なのに。
背後の気配だけで分かった。
この感覚、もう身体が覚えてるのが最悪だ。
「ここいた」
「!!」
陽翔が袋持って立ってた。
「……探すなよ」
「そりゃ探すだろ」
その言い方が、優しすぎて反論が弱くなる。
「なんで」
「織がいないと昼、味しない」
「……お前、どんだけ俺中心だよ」
「俺のソーラーパネルみたいなもんだから」
目の前の笑顔が、ほんとに眩しすぎて視線を逸らした。
太陽の話なんて冗談なのに、絶妙に説得力あるわ。
「うるせー太陽エネルギー」
「褒め言葉?」
「違うわ!!」
陽翔は隣に座って、パンの袋を開けた。何も言えない。言ったらまたペース握られる。
(ていうか、俺の「避け期間」短すぎない?半日もってないよ?)
放課後になって、教室を出ようとしたら、背中を軽く掴まれた。指先の感触が、制服越しでも分かる。逃げようとした足が、その一瞬で止まった。
「なに」
「ちょっと」
陽翔が俺の前に回り込む。
「なんで今日、俺から逃げてんの」
「逃げてないよ」
「じゃあなんで目そらす」
「そらしてないし!」
(俺の顔が勝手に答えてる気がする……!)
「今もそらしてる」
「……うるさい」
陽翔が苦笑する。でもその目は真っ直ぐだった。
なんで俺、逃げられないって分かってるのに、逃げたいふりだけ上手くなっていくんだ。
「なぁ。昨日、手つないだろ」
「忘れてないよ」
陽翔は少し息を吸ってから、言った。
「俺さ、あれから、織を手放したくなくなった」
「……お前、ほんっとバカ!」
「バカでいい」
「開き直るな!」
「お前にだけ、バカって言われていい」
「……」
笑って誤魔化せない。さっきまで避けようとしてたのに、顔を上げたらもう距離が近くて、あの茶色の瞳に全部見透かされてた。
「……ほんと、うざい」
「うざいって言われるの、結構好きかも」
「ドM?」
「織にだけだし」
「しらねーよ……!俺ちょっと職員室に用事あるから!お前先帰れよ!」
ほんと、避けようとしても、全然避けらんない。
俺はなるべく人目を避けて移動して、校舎裏の自販機の影でジュース飲んで、息を整えていた。
あー、あと3日。俺、どうすんだよ。
完全に“朝日の相方”ポジ確定じゃん。
転校する前に、なんか青春の全イベント制覇してる気がする……。
「隠れてんの?」
「うわっ!!びっくりした!」
陽翔が自販機の影に立ってた。ポケットに手を突っ込んで、笑いながらこっちを見る。
「見っけ」
「追跡やめろ!」
「……お前、嘘つくの下手だもん」
陽翔は自販機のボタンを押して、笑いながら少しだけ声を落とす。
「……俺、噂になってみんなにどうみられても困んないし」
「俺は困る!!」
「なんで」
「なんでって……」
言葉が詰まる。ただ、陽翔の声が少し震えてるのだけ、分かった。どうしてか分からないけど、理由を説明したら、本音まで出てしまいそうで怖かった。
陽翔は少し黙って、一口飲んだペットボトルを隣に置いた。
「俺は平気だけど、お前が困るなら……」
「……」
「気をつける。でも、離れたくはない!」
その言葉が、胸に刺さる。
「ねぇ、陽翔」
「ん」
「俺、転校する実感まだなくてさ」
「……俺も。実感ないけど、焦ってる」
「焦ってる?」
「時間足りない」
風が強くなって、制服の裾が揺れた。陽翔が一歩、近づいてきた。
「ちょっと……近づきすぎ」
「逃げんな」
「お前、またそれ……」
肩を触られた瞬間、一気に熱くなる。逃げようと体を引いたのに、逆に引き寄せられた。
次の瞬間、陽翔の腕が俺の背中に回った。
抱きしめられて、呼吸が止まった。
(……はっ? な、なにしてんの!?)
「静かにしてろ」
「お前が静かにして!」
「……落ち着く」
「え!俺は落ち着いてない!」
「うるさいな、織」
二人の鼓動が響く。どっちの音かもう分からない。
たぶん、俺のほうが早い。
「ちょ、ほんと、なにして……っ」
陽翔が、すこし力を弱めて耳元で囁く。
「……こうしてると安心する」
「……ばっかじゃないの」
「お前も安心してんじゃないの?」
「してない!」
「顔、赤くなってんだけど?」
「なるだろ!」
ほんとは、ちょっと安心してるけど。そんなこと、言えるわけない!!
◇◇
帰り道、いつもより歩くペースが遅かった。陽翔が手をポケットに突っ込んだまま、言った。
「なぁ、織」
「ん」
「転校しても迎え行く。駅まで。毎週でも」
「どんな距離感だよ……」
「恋愛の距離」
「うっせーよ!」
ふざけた言葉なのに、声が少し震えて聞こえた。笑って誤魔化してるのは、たぶん俺の方だ。
陽翔が笑って、俺もつられて笑う。ほんと、しょうがねぇやつ。
でも、その笑顔を見て胸が締めつけられた。
(このまま時間が止まればいいのに)って思った自分に、いちばん驚いた。
でも……このまま進んだら、俺はもう、「戻れない場所」に足を踏み入れる気がしてる。
〈残念なお知らせ。〉
俺はもう、逃げる理由を思い出せなくなっている。

