朝、スマホの通知音で目が覚めた。
枕元で光っていた画面には、
昨日のやり取りがそのまま残っている。
陽翔:今日はありがとな
陽翔:楽しかった
陽翔:明日も空けとけ
……。
(あー……これ、何回見てもなんかニヤける。
やばい。顔、緩んでる。昨日結構楽しかったんだよ。)
ベッドの上でゴロゴロ転がって、
「いや、別にそういう意味じゃないし」って誰にともなく言い訳した。
子どもの頃、あいつに“明日も遊ぼう”って言われたら、
俺は次の日の朝5時に起きてた。
あの頃から、“また明日”の言葉に弱いのは変わってない。
でもどう考えても“デートのおかわり”っぽい。
(あいつの「明日」って、だいたい強制イベントだからな……。)
リビングに降りると、
母さんが新聞片手にコーヒー飲んでた。
テーブルの上にはパンの皿と、封筒。
「織、ちょうどよかった。学校から書類届いたわよ」
「ん? なにこれ」
「転校手続きの案内」
「……あ」
昨日まで“冗談の延長”みたいに話してたことが、
現実の紙になってテーブルに置かれていた。
紙一枚の重さって、こんなに重かったか?
現実って、ほんと静かにやってくるんだな。
「来週の金曜までに引っ越し先決めて、
その次の週には向こうの学校行くことになるって」
「……早すぎない?」
「父さんの転勤が急だからね」
「父さん、今どこ行ってんの?」
「もう新しい支社の近くの仮住まい探してる」
(おい……もう確定コースじゃん。)
弟の知がトーストをくわえながら言った。
弟は今中2だ。
「俺も転校なんだろ? 友達に言っとかなきゃ」
「そりゃそうだろ、一人だけ残れるわけねーし」
知が眉をしかめた。
「うわ、めんど……でも新しい学校もちょっと楽しみ」
「お前は順応早ぇな」
「兄ちゃんもすぐ友達できるって」
「できるか!」
知が笑って、ジュースを飲み干した。
「でもハル兄は、たぶん泣くね」
「お前、なんでそこ陽翔の心配してんの」
「だって兄ちゃんよりハル兄のほうが顔に出る」
「お前なぁ……」
母さんが吹き出した。
「ほんと、仲良いわね、織と陽翔。それで家族全員引越しなのに、心配されてるのは織じゃなくて陽翔なのね」
家の中で“陽翔”の話題が出るのなんて日常茶飯事だった。
それが当たり前すぎて、誰も“特別”なんて言葉を使わなかった。
部屋に戻りスマホを開いて、
陽翔にメッセージを打つ。
織:転校、確定っぽい
織:来週の土曜に引っ越すかも
既読がつかない。
たったそれだけのことで胸がざわつくの、
ほんとに俺も寂しがってるんだなって思う。
それから、10分、20分。
既読がつかない。
(おい……未読スルーとか、そういうキャラじゃないだろ)
なんか、胸のあたりが落ち着かない。
昨日まであんなに近かったのに、今日は画面の向こうが急に遠い。
(やっぱ、デートっぽかったから? 意識した? 俺が? いや、あいつが?)
頭の中がぐるぐるしてる間に、母さんが声をかけてきた。
「織ー、段ボール持ってきたから荷物まとめてねー!」
「……まだ1週間あるのに!」
「1週間しかないじゃない。
早いに越したことないでしょ!」
「いや、越したくないんだけど!」
母さんの声は聞こえてないふりをした。
俺は机に突っ伏した。
「……くそ」
段ボールが、
未来を形にしてるみたいで気分が悪い。
昼過ぎになって、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
(まさか、宅配? いや、このタイミング……)
ドアを開けると、そこに陽翔が立ってた。
パーカーにデニム、昨日と同じ格好。
目の下に少しクマ。寝てない顔だった。
「行くぞ」
「……は?」
「行くぞ」
「どこに」
「いいから」
「いやいや、誘拐犯みたいな誘い方すんな」
「顔見たら、なんか我慢できなくなって」
「え?」
「行くぞ」
「だから、どこ――」
手首を掴まれた。
昨日と同じ手の熱さ。
昨日よりほんの少し強い。
(……なんだよ、もう。
既読つけないくせに、
来るとか、意味わかんねーよ。)
でも、
掴まれた手を、振り払えなかった。
商店街を抜けて、歩きながらも陽翔は何も言わなかった。
昨日までの軽口も、からかいも、全部どこかへ消えてる。
ただ、隣で歩く足音だけがやけに近い。
子どもの頃、俺が迷子になったときも、
あいつは無言で手を引いてくれたっけ。
その手の温度がやたら安心したのを、いまだに覚えてる。
でも、今。
同じように隣にいるのに、
胸がそわそわして落ち着かない。
(……なんだよ、この感じ。)
「……ねぇ、どこ行くんだよ」
「公園」
「また急だな」
陽翔の歩幅が少しだけ速くなって、
追いつこうとした俺の肩が軽く触れた。
その瞬間、変なふうに心臓がドクッと音を立てた。
(やめろって。歩いてるだけだろ。普通だろ……?)
「急じゃない。昨日の続き」
「昨日の……?」
「デート」
「はっ!? やっぱりそう思ってたの!?」
「思ってた」
「言い切んな! てか、それ昨日の段階で言ってよ!」
「言ったら、お前逃げるだろ」
「逃げないし!」
「嘘つけ。お前、顔に出るタイプだし」
「うっ……」
陽翔が小さく笑った。
でもすぐに、ふっと真顔に戻る。
公園に着くと、ベンチの上に落ち葉がちらほら。
去年の春、ここで花見してたとき、
陽翔がカメラ越しに俺を撮ったことを思い出す。
あのときはこの公園、一面桜の色してた。
日曜の午後なのに、意外と人はいない。
自販機で買った缶コーヒーを渡されて、俺はなんとなくベンチに座った。
「なぁ、織」
「ん?」
「転校、マジなんだな」
「うん……今朝、書類届いた」
「そっか」
それっきり、陽翔は黙った。
缶のプルタブをいじる金属音だけが響く。
(……何か言えよ。
昨日あんなに“減るから”とか言ってたくせに、
黙るとなんか怖いんだよ。)
「……なんか言えよ」
「言ったら泣きそう」
「は?」
「冗談」
「全然冗談の顔してないんだけど」
陽翔が笑って、でもすぐに真顔に戻る。
その切り替えが速すぎて、胸が騒いだ。
「……冗談じゃないかも」
「おい」
空気が少しだけ変わった気がした。
風の音が止まったような気がした。
代わりに心臓の音だけが耳に響いてた。
陽翔がベンチから身を乗り出した。
そのまま俺の顔を覗き込む。
距離、近い。
瞳に空の色が映ってる。
琥珀みたいな茶色が、やけに柔らかく見えた。
「織」
「……なに」
「俺さ、いつからなんだろうな」
「は?」
「お前のこと、普通に見られなくなったの」
「はあ!?」
俺が声を上げると、陽翔は少しだけ笑った。
でも、その目は冗談じゃなかった。
「やっぱり中学のときからかな、いやまだ小学生のときかな」
「な、なに言ってんの」
「気づいたら、お前のこと探してた」
「……」
息を呑む。
たった一言なのに、空気が一気に変わる。
「で、昨日さ。
“楽しかった”ってメッセージ打ちながら、気づいた。
あー、これやっぱ完全に好きだなって」
(……え、え、なにその急展開。今、こ、告った?
え、昨日のUFOキャッチャーの流れから恋愛告白ってアリ?
頭追いつかないんだけど。)
「……俺が転校するから焦ってるとか、そういうことじゃなくて?」
「それもある」
「やっぱあるんかい」
「でも、前からだよ。
今さらちゃんと気づいたけど、ずっとだったんだと思う。中学んときはもう特別だったし」
「……」
陽翔は小さく息をついた。
それが震えてるように聞こえたのは、俺のせいだろうか。
「お前が遠く行くって聞いて、
初めて“俺のものじゃない”って思ったら、
ムカついた」
陽翔が視線を落とした。
「誰が誰のものだよ」
「だからムカついた」
「意味わかんねぇ……」
「わかんなくてもいい。
でも、俺は――お前が好きだ」
風が止まったみたいに、空気が静かになる。
心臓がうるさい。
缶コーヒーの熱が、まだ指先に残ってる。
(なに言ってんだよ、こいつ。
ほんとに言った?
“好き”って言った?
しかも俺に?
なんで、そんな普通に……)
「……嘘だろ」
「嘘じゃない」
陽翔の声が静かで、やさしかった。
その“静かさ”が逆に怖い。
俺は口を開いた。
「でも……」
「でも?」
「俺たち、ずっと一緒にいたし。
なんか、そういうのじゃなくて……」
「……そういうのって、どれのこと言ってんの?」
「友達とか、幼なじみとか……!」
「じゃあ聞くけど、
お前、他のやつに手つながれてドキッとするか?」
「っ……!」
「他のやつに“可愛い”って言われて赤くなるか?」
「や、やめろって!」
陽翔が一歩近づく。
吐息がかすかに触れて、言葉が喉につまる。
「答えろ」
「……っ、知らねーよ!」
陽翔が小さく笑って、俺の肩を軽く押した。
「じゃあ、今は知らなくていい。
けど、俺は諦めないから」
「は?」
「転校しても、諦めない」
「なにそれ……」
「“好き”って言ったんだ。引っ込めるわけねーよ」
その言葉が落ちる瞬間、
夕日が俺の背中を照らしてた。
帰り道は、ふたりとも何も言わなかった。
小学校の帰り道も、こんなふうに並んで歩いてた。
その頃から、沈黙のときほど、あいつはなにか決めてる顔してた。
隣を歩く陽翔の姿をチラッと横目で見た。
その肩の線とか、歩き方とか、今さら気になる。
(……あいつ、いつからこんなに“男”っぽくなったんだ?)
鼓動がはやくなった。
でもその音を、陽翔に気づかれるのが怖くて、歩幅を少しだけ速めた。
街灯がひとつずつ灯って、
どこかで子どもが「また明日!」って叫んでる。
(……“また明日”。
それ、俺らにはもうないかもしれないのに。)
家の前で陽翔と別れて部屋に入った時、
ポケットの中でスマホが震えた。
陽翔からのメッセージ。
陽翔:今日もありがとな
陽翔:明日も空けとけ
(……バカかよ。)
でも、笑ってしまう。
涙が出そうなくらい、笑った。
残念なお知らせ。
明日、俺は“もう逃げられそうにない”かも。

