「ねえ、聞いてよ、小虎〜」
帰宅するなり、史音はリビングのソファにいた飼い猫の小虎に頬をこすりつけた。
小虎は眠っていたが、すりすりと毛並みを撫でられ、片目を開けた。
「史音、小虎寝てるんだから起こさないのよ」
母親の言葉に史音は、ぷくう、と頬を膨らませる。
「最近、小虎寝てばっかりだよね。
昔は公園で走り回ってたのに」
「それはそうよ、小虎はおばあちゃん猫なんだから」
キッチンで鍋をかき混ぜながら、母親が苦笑する。
メスにも関わらず『小虎』という名前をつけたのは祖父だ。
由来は、茶トラだったから、それだけだ。
「小虎〜」
頬を寄せると、にゃあ、と小さく小虎が鳴いた。
「どうしたの、なにかあった?」
母親はごく自然に促してきたが、史音は「小虎にしか話せないこと」とやんわり話すことを拒否し、小虎を抱きかかえると自室へと向かった。
「まったく、いつまで経っても小虎にべったりなんだから」
背中で母親の呆れたような声を受けながら、史音は階段を上がった。
部屋に入るなり史音がベッドに突っ伏すと、ベッドの定位置にちょこんと座った小虎が前脚で、ちょいちょいと史音の髪を撫でる。
ちらりと顔を上げると、史音は小虎に向かって話しだした。
「ねえ、小虎、由希人くんって覚えてる?
小学校のとき、よく遊んだ……小虎と仲良かったミルクの飼い主のあの、男の子。
あたしが、小学校のときにアメリカに引っ越していった、歌川由希人くん」
小虎はじっと史音を見つめ、大人しく話を聞いている。
「帰って、きたんだって、日本に」
史音は複雑な表情で昼間あった出来事を思い出す。
高校に入ってから、史音は積極的な性格ではなくなった。
あまり友達も多くなく、クラスでも目立たない存在だった。
2年生になり、史音はますます塞ぎ込むようになった。
自分に自信が持てなくなり、学校に行く以外は、家に引きこもるようになった。
鬱屈とした日々を過ごすなか、今日、懐かしい名前を聞いた。
小学校が同じだったクラスメイトの女子に話しかけられたのだ。
「史音ちゃん、歌川くんて覚えてる?」
派手な茶髪に短いスカートのクラスでも目立つほうの女子、金沢さんにそう突然言われた。
「歌川……由希人くん?」
「そう、バスケ留学のために小学校のとき……何年生のときだったかな、アメリカにお母さんと引っ越していった、歌川由希人くん。
歌川くんがね、帰ってきたらしいよ」
「……え」
史音はその言葉に硬直した。
『約束の日』が近づいていることを最近よく思い出していたからだ。
──まさか、由希人くん、あたしとのあの『約束』を覚えているの?
だから、帰ってきたの、と。
とたんに、史音の胸が締めつけられる。
──もう、あのころのあたしじゃない。
「でね、その歌川くんなんだけど、実はさ……」
そう言いかけた金沢さんの言葉を、「ごめん、授業はじまる前にトイレ行きたいから」と強引に遮って、史音は教室を飛び出した。
誰もいない女子トイレで、史音は項垂れた。
鏡の中の自分を見て、さらに深い溜め息を漏らさずにはいられなかった。
「会いたくない……。
こんなあたしを、由希人くんに知られたくない……」
虚しく史音の声が反響した。
史音は、部屋の隅に追いやられたキャンバスに、ちらりと視線を送る。
描きかけのキャンバスには布がかけられ、埃が薄く積もり、時間が止まったようだった。
「会えないよ、こんなあたしを、由希人くんに見られたくない」
そう呻く史音を、小虎が真っ直ぐに見下ろす。
「由希人くんは、バスケ選手として中学のときからレギュラーで、アメリカでプロになるのも夢じゃないって言われてる。
それに引き換えあたしは……。
由希人くんがいなくなってからは、ただの落ちこぼれ」
史音は、幼いころから『天才』だと評されながら育った。
才能がある、将来がある、世界的な画家も夢ではない……。
周りの大人はそう史音を持ち上げた。
小学生のときから絵画を描くたびに、子ども離れした画風だと称賛された。
コンクールでは優勝するのが当たり前だったし、スポットライトが当たることが当然だとも、自分でも思っていた。
大きくなったらヨーロッパに渡って本格的に絵の勉強がしたい。
自分の未来は約束されているのだ、そう思って疑わなかった。
小学校、中学校とも、クラスで特別視されてきた。
みんなとは違う天才少女。
クラスメイトは、史音をそう扱った。
だが、それにも終わりがきた。
中学の終わりごろから、描いても描いても評価されなくなった。
本当にあの稲葉史音の作品なのかと、疑われてるほどになり、才能は枯渇したと酷評されるまでに落ちぶれてしまった。
史音はどんどん自信を失くし、だんだん絵を描くことが怖くなった。
作品に向き合う勇気が持てなくなった。
中学校卒業前に発表した作品を最後に、史音は絵を描くことをやめた。
高校では、史音が天才だと持て囃された過去を知る者はほとんどいない。
その環境が居心地良くもあったし、将来の夢に向かって部活や勉強に邁進するクラスメイトを見ることはつらくもあった。
自分の『夢』は終わってしまった。
早すぎる失望であった。
今の史音は、将来のこと、卒業後のことは考えられないでいる。
クラスメイトが眩しかった。
羨ましいとさえ思った。
羨望の眼差しを向けられていたのが、遠い過去のことのように思えて仕方なかった。
7歳のとき、大きな夢と希望を抱いて渡米した歌川由希人は、史音がなにものにもなれなかったことを知らない。
挫折した醜い姿を、由希人くんには見られたくない──。
由希人くんにだけは、知られたくない──。
その一方で、7歳のとき由希人と交わした約束を、史音は忘れられないでいた。
『10年後の僕の誕生日、この公園の桜の樹の下で会おう』
その約束を交わした7歳のころ、17歳という年齢はひどく大人に思えた。
10年後、史音は人気画家として、由希人はアメリカの高校で成果を出し、レギュラーを獲得してプロを目指している──。
そんな青写真を、7歳の子どもだった史音と由希人は疑いもせず描いていた。
「ねえ、小虎、由希人くん、約束覚えてると思う?」
小虎はこてん、と可愛らしく小首を傾げ、にゃあと一声鳴く。
その毛並みを撫でると、小虎が気持ち良さそうに目を閉じる。
「小虎、小虎。
小虎だけだよ、こんなこと話せるの。
小虎になら、どんなあたしでも見せられるのに……。
小虎なら、あたしがどれだけ駄目な子になっても、変わらないでそばにいてくれるよね」
中学卒業後から、両親の態度にも変化が見られるようになった。
腫れ物に触るような、よそよそしく接してくるようになったのだ。
あれだけ天才少女として名を馳せた娘の才能が枯れた。
両親は、自分の将来に期待していたはずだ。
両親も、祖父母も、みんな。
期待に、応えられなかった。
裏切ってしまった。
がっかりさせてしまった。
そんな思いで自分を責め、苛んだ。
変わらずにいてくれたのは、小虎だけだった。
史音が2歳のころにやってきた、小虎。
一緒に育った、きょうだいみたいな存在。
いつも寄り添ってくれて、話をきちんと聞いてくれる。
夜、史音のベッドに潜り込んできては、足元にうずくまってすやすやと眠っている小虎。
その息遣いと温かさが、史音を安心させた。
起きたら小虎を抱きしめていたこともある。
小虎は大人しく史音に抱きしめられていた。
しかし、小虎ももう14歳だ。
母親の言う通り、おばあちゃん猫である。
最近は一日中寝ていることも増え、食欲もなさそうなことが多くなってきた。
小虎がいなくなったら、自分はどうなるのだろう。
小虎がいない生活なんて考えられない。
つらいとき、苦しいとき、小虎を撫でられない。
いつまでも、元気で長生きしてほしい。
「ごめんね、小虎。
いつも愚痴ばっかり聞かせてるね、あたし」
小虎を、ぎゅうと抱きしめて、その匂いと温かさを確かめる。
柔らかくてミルクみたいな甘い匂いがする。
飽きもせずに小虎を抱きしめていると、「史音、お風呂入っちゃってー」と母親が一階から叫ぶ声が聞こえた。
史音が小虎を解放すると、小虎は史音が開けたドアから駆け出していってしまった。
さっきまで真摯に話を聞いてくれていたのに、ずいぶん冷淡なものである。
こういうとき、小虎もツンデレの猫なんだなあ、と痛感する。
着替えを手にすると、史音は部屋を出た。
その夜、夢に小虎が出てきた。
不思議と、史音はこれが夢であると認識できていた。
『史音ちゃん』
小虎がそう言った。
『こ、小虎、喋れるの?』
驚きのあまり史音は飛び上がりそうになった。
──これは夢なんだから、小虎が喋ったって不思議でもなんでもない。
そう納得するまで、少しの時間を要した。
初めて聞く小虎の声は、高くて澄んでいた。
『小虎、小虎、喋れるんだね』
『うん。
神様が、特別に許してくれたみたい』
『神様……?』
『史音ちゃん、よく聞いて、大事なことなの』
『なに、改まって』
『わたし、もうすぐ死ぬんだ』
『……えっ?』
小虎の台詞に、史音は絶句し喉がひゅっと鳴った。
『わたしももうおばあちゃんだからね。
寿命が、もうそんなにないの。
たぶん、そんなわたしを可哀想だと思って、神様が史音ちゃんとお話しできる機会を与えてくれたんだと思うの』
『……し、死んじゃうの、小虎……?』
衝撃を受けた史音の瞳には、堪えきれない涙が浮かんでいた。
小虎はバツが悪そうに身じろぎする。
『ごめんね、そうなの』
『そんなっ、あたし、小虎がいなくなったらどうすればいいの?』
すがりつくような史音の言葉に、小虎は困った顔を作る。
『史音ちゃんのおかげで、幸せな一生だったと思う。
だから、未練はないと思ってたんだけどね。
史音ちゃんから由希人くんの話を聞いて、気づいたの』
『な、なにに?』
史音の舌が興奮のあまりもつれる。
『ミルクのこと。
由希人くんが飼ってた、ミルクに、せめてもう一度会いたいって、そう思ったの。
ミルクは、わたしの初恋の相手だから』
『好き、だったの、ミルクのこと』
史音が言うと、小虎は恥ずかしそうに笑った。
『そう。
史音ちゃんが子どものころ、由希人くんが連れてくるミルクとお話しすることが、なにより楽しみだったの。
あ、一番ってわけじゃないよ、一番楽しかったのは史音ちゃんとお喋りすることだったよ』
史音は苦笑した。
『気、使わなくていいよ。
小虎に気を使われるなんて変な感じ』
小虎が居住まいを正す。
『もうすぐ約束の日でしょ。
由希人くんに会いにいかないの?』
『それは……。
行く勇気がないというか……』
気まずそうに史音が頬を掻く。
『今の自分を知られることが怖い?』
『うん。
由希人くんは、あたしがまだ画家になることを諦めたことを知らない。
普通の人になったことを知らない。
幻滅されたくないよ』
『でもそれは、史音ちゃんのプライドの問題でしょ?』
小虎の指摘に、史音は息を呑む。
『自分をより良く見せたい、誰にも認められる特別な存在だと思われたい。
気持ちはわかるよ。
でも、そんな虚勢を張る必要があるのかな?
由希人くんは、『特別な』史音ちゃんじゃないと、受け入れてくれない人だと思う?』
『それは……。
小虎、あたし、由希人くんに会うべきだと思う?』
『それは史音ちゃんが決めることだけど……。
わがままを言わせてもらえるなら、わたしはミルクに会いたい、生きているうちに、もう一度』
──生きているうちに。
小虎の一言が重くのしかかる。
『そんなに……すぐに死んじゃうの……?』
『あまり、長くは保たないと思う』
『そんな……』
史音が涙に暮れる。
──小虎とお別れの時が迫っている。
──小虎の願いを叶えてあげたい。
──でも。
でも。
──あたし、由希人くんと会えるの?
輝かしい未来を失って、自信を失った自分のままで、由希人と向き合うことが、可能なのか?
それは小虎の言う通り、史音の身勝手でちっぽけなプライドの問題であった。
『……小虎の、ためだもんね』
史音はなにかを決意したような、或いはなにかを諦めたような声音でそう呟いた。
──小虎のため。
もし本当に、由希人が自分との約束を覚えているのなら、という大前提ではあるが、再会して小虎とミルクを会わせてあげたい。
プライド云々と言っている場合ではないのだ。
──約束の日、桜の樹の下で、由希人を待とう。
大好きな家族の──小虎のために。
鳥のさえずりで史音は目覚めた。
レースのカーテンからはさんさんと太陽が差し込んでいる。
朝だった。
史音はいつも通り声をかける。
「小虎、おはよう」
珍しく枕元にいた小虎を、注意深く眺める。
小虎が喋りだすのではないかと思ったからだ。
しかし、小虎は「にゃあ」と一声鳴くだけで、喋ることも、人間のように表情を変えることもない。
「夢、だよね、やっぱり」
史音は小虎を力いっぱい抱きしめた。
やけにリアルな夢だった。
普段なら、起きたその瞬間に見ていた夢の内容なんて忘れてしまっているのに、小虎の一言一句を覚えている、初めての体験だった。
「小虎、ミルクに会いに行こう」
決意を込めて言うと、小虎はまた、にゃあ、と鳴いた。
☆
歌川由希人は卓上のカレンダーを見て溜め息をついた。
7月16日の日付けに赤ペンで丸がつけられている。
──『約束の日』を、彼女は覚えているだろうか。
由希人が17歳になるこの日のことを。
由希人は忌々しげに自分の太ももを拳で殴りつけた。
渾身の力で殴ったはずなのに、痛みも、拳が触れた感触すらなかった。
──こんな姿、決して史音ちゃんには見せられない。
車椅子を操作して、ベッドに乗り移る。
横になって天井を仰いだ。
──どうしてこんなことになったんだろう。
7歳のときに別れを告げた子ども部屋の天井を、17歳を目前にした今、こんな絶望の眼差しで見上げる未来なんて、誰が想像しただろう。
少なくとも、由希人は考えたことすらなかった。
みゃあ、と声がして由希人は頭を持ち上げる。
「ミルク、おいで」
由希人のベッドに、白猫が飛び上がってきた。
純白の毛並みを撫でてやると、ミルクは気持ち良さそうに喉を鳴らす。
「お前だけだよ、ミルク。
変わらずになんでも話せるのはお前だけだ」
由希人は力任せにミルクを抱きしめる。
柔らかくて温かい、血の通った、大事な大事な家族のひとりである飼い猫。
由希人が唯一、心の内を明かせる相手。
きょうだいのようでも親のようでもある、かけがえのない存在。
そんなミルクも、最近は動きが緩慢になってきた。
人間でいえば立派なおじいちゃん猫である。
動物病院に連れていくことも増えた。
日に日に衰弱していくようにも見える。
「長生きしてくれよ、ミルク」
ミルクは大人しく由希人の腕に収まると、みゃあと鳴きながら頬ずりするご主人にされるがままになっていた。
「……会えるわけないよな。
こんな身体で。
史音ちゃんは、俺が帰国したことも、こんな脚になったことも、知らないもんな。
……こんな俺の姿を見たら、絶対に失望される。
そんなの、耐えられない」
稲葉史音は、絵画の天才として名を馳せている。
そのことは、由希人の耳にも届いていた。
史音の未来は明るい。
──それに引き換え、俺は──。
劣等感が頭をもたげる。
由希人はもう一度溜め息をつく。
アメリカから帰国してから、編入した高校には一日も通っていない。
バリアフリーに対応した学校であると聞くが、とても普通の高校生活を送れる精神状態ではなかった。
ともに帰国した母親も、日本に残り生活費の支援をしてくれていた父親も、由希人に無理に学校へ行けとは言わない。
いや、言えないのだと思う。
将来を嘱望された息子の夢が断たれ、ショックなのは由希人だけではなかった。
両親は、自分の未来に懸けてくれていた。
だから、母親はアメリカまでついてきてくれたし、父親は由希人の願いを聞き入れて渡米することを許してくれた。
だが、今、由希人にはなにもない。
引きこもり同然の生活を送っていても、両親はなにも言わなかった。
その気遣いがまたつらい。
由希人は現実から逃れるように目を閉じた。
幼稚園のころ、歌川由希人はバスケットに魅了された。
豪快にダンクを決める海外のバスケットプレイヤーに憧れを抱き、バスケットボールを手に取った。
将来はアメリカでプロのバスケットプレイヤーになりたい。
アメリカでの生活を見据えて5歳から英語を習いはじめた。
バスケスクールにも通い、腕を磨いた。
小学生になると、由希人と両親は、本格的に『夢』への道を探りはじめた。
由希人が、アメリカのプロチームの関係者の目に止まったのだ。
同い年の子どもの中でも、由希人は長身であり、手足も長かった。
ぶつかりながらもボールをキープするフィジカルにも優れ、天賦の才がある、数々のプロ選手を見てきたスカウトがそう由希人を絶賛した。
7歳のとき、歌川家は一大決心をする。
由希人をアメリカへ留学させる。
本場のバスケットに触れ、才能をさらに伸ばす。
父親は、由希人がアメリカでの暮らしに困らないように日本に残り仕事を続ける。
違う人種に囲まれ、超高速で流れていく英語にまごつきながらも、バスケのクラブチームに入り由希人の生活は英語の勉強とバスケ漬けになった。
子どもならではの頭の柔軟さで、英語での日常会話ができるようになるまでにそう時間はかからなかった。
食生活の違いにも悩まされたが、母親が献身的に食事の管理を行い、由希人がバスケだけに集中できる環境を築いてくれた。
アメリカでは、由希人の身長やフィジカルの強さは平凡そのものだった。
アメリカでは自分は通用しないのではないかと高学年になるころには由希人は自信を喪失しかけていた。
が、アメリカまできてしまったのだ、もう後戻りはできないし、諦めるという選択肢は由希人にはなかった。
だから、朝から夜までバスケの練習に励んだ。
努力して努力して努力した。
その結果、中学生になると、背もぐんぐん伸びて、地域のクラブチームでレギュラーとなり、一躍由希人は注目の選手となった。
コーチには才能があると言われた。
同年代の子どもの中で、由希人は飛び抜けた存在だった。
ボールを持ったらゴールに入れるまで離さない。
由希人へパスを回せば確実に点を取れる。
チームメイトの信頼を勝ち取った由希人は、ピンチのとき、必ずボールを託された。
そして、その期待に応えるだけの実力が由希人にはあった。
本気でプロを目指せる日本人選手──。
由希人の評価はうなぎのぼりだった。
やはり、思い切ってアメリカにきて正解だった。
試合では面白いように活躍できた。
点も取れたし身体を張った守備もできた。
オールラウンダーとして、めきめきと頭角を現した。
──行ける。
由希人はプロになることを、もはや『夢』とは言わなくなった。
夢はいつしか『目標』に変わった。
高校に入学しても、由希人の快進撃は続いた。
そして、自分も、周囲も、その活躍を疑わなかったそんなとき、魔が差した。
試合中、敵チームのプレイヤーに体当たりされた。
190を超える長身で筋骨隆々とした選手に全力でぶつかられ、由希人は転倒した。
転倒の衝撃と、その後プレイヤーに次々踏まれたことが致命傷となり、由希人は大怪我をして病院に運び込まれた。
一時は命の危機すらあった。
それでも、由希人は意識を取り戻した。
母親は泣いて喜んだ。
由希人自身も、自分が生きていることに感謝した。
が、由希人に告げられたのはあまりにも残酷な現実だった。
『プレイヤーとして再起は不能』
それどころか、下半身が麻痺し、自力で歩くことは、一生無理だと医師は言った。
目の前が真っ暗になった。
信じられなかった。
自分には、バスケしかないのに。
そのためだけに、努力して、生きてきたのに。
すべては、無駄だったというのか。
由希人は病室で、来る日も来る日も涙に暮れた。
脚はまったく動かなかった。
感覚もない。
食欲もなくベッドの上で過ごすだけの日々を送るうち鍛えた筋肉も落ち、やせ細っていった。
あれほど齧り付いて観ていた試合の中継を観ることもなくなった。
一度はバスケに関する情報をシャットアウトした。
しかし、バスケしか知らない由希人の胸に、むくむくと情熱が去来した。
──もう一度バスケがしたい。
その思いに突き動かされるようにして由希人はリハビリを志願した。
無意味だと周りからは止められた。
その雑音を無視して、由希人は再起を懸けてリハビリを続けた。
だが、高校1年生が終わるころ、由希人の心は折れた。
もう限界だった。
由希人はアメリカから帰国した。
実家に戻り、部屋に引きこもった。
由希人のささくれだった心を癒してくれたのは、実家で由希人の帰りを待ってくれていたミルクだった。
アメリカではペットを飼う余裕はなかったので、再会したミルクが愛おしくてたまらなかった。
気がつくと、ミルクは寄り添ってくれていた。
その身体を撫でると心が温かくなった。
離れている間があっても、ミルクは由希人を忘れてはいなかった。
日本とアメリカでできた友達と連絡を取ることはなかった。
──今は孤独でいたい。
でも……。
由希人は頭を巡らせて机の上のカレンダーを見やる。
──稲葉史音との約束が、忘れられない。
こんな約束覚えてるの、気持ち悪いかな?
もし、彼女が自分を待っていてくれたら……。
今の自分のありのままの姿を見せることができるのか?
──小学生のころの約束なんて、きっと忘れている。
覚えているはずがない。
由希人は頭から布団を被った。
夢を見た。
ミルクが喋る夢だ。
なぜ人間の言葉を喋れるのか由希人は訊いた。
──夢だからだ。
そう由希人は納得した。
普段から、ミルクと話すことができたら、どんなにいいかと思っていた由希人は、ミルクと話せることがなにより嬉しかった。
ミルクは思いも寄らないことを言った。
『小虎に会いたい』と。
──小虎。
史音の飼い猫だ。
懐かしい名前に、由希人は目を細める。
おじいちゃん猫であるミルクは、自分にはもう時間が残されていないと言った。
由希人はそれがなによりショックだった。
──最期に小虎に会いたい、だって、小虎はぼくの初恋の相手だから。
そうミルクは言った。
ミルクの願いを叶えてやりたいと思った。
しかし、由希人は迷った。
車椅子の自分を史音に見られたくない。
そんな由希人に、ミルクは厳しい口調で言った。
──くだらない見栄を張るな、後悔するぞ、と。
その言葉は、由希人の心にぐさりと刺さった。
誰よりもそばにいてくれたミルクの最期の願い、ミルクはそれを最初で最後のわがままであると言った。
ミルクへの感謝を伝えるためには、己の虚栄心になど囚われている場合ではない。
残りわずかなミルクの寿命を考えれば時間はあまりない。
──すべてはミルクのためだ。
稲葉史音に会おう。
約束の日、あの桜の樹の下に、車椅子で向かおう。
史音が受け入れてくれなくても、自分のことは二の次だ。
まずはミルクと小虎を合わせてやりたい。
それが、今自分にできる唯一のことだ。
決意を固めたその瞬間、はっと目が覚めた。
目覚まし時計が枕元でやかましく鳴る。
床に敷かれたラグの上で、ミルクが眠っていた。
「夢……だよな」
由希人がそう呟くと、その声に反応したミルクがいつもと変わらぬ声で一声鳴いた。
人間の言葉を話す様子はない。
当たり前だ、だってあれは夢なのだから。
由希人はカレンダーの赤丸を、眠い目を擦りながら見つめた。
☆
5歳の夏、史音は小虎を連れて家を出た。
いつも遊んでいる公園に小虎を連れて行こうと思ったのだ。
──ママにバレたら怒られちゃうけど。
家からほど近い公園には、あまり遊具はなかった。
ブランコと、滑り台と、砂場、やけに存在感のある太い幹の桜の樹、周囲は雑草に囲まれたこぢんまりとした公園だった。
小虎は嬉しそうに公園内を走り回った。
そのあとを追いかけて、史音も走った。
じゃれ合いながら、史音は小虎との追いかけっこに夢中になった。
ところが、一時間ほど経ったころ、小虎が姿を消した。
それに気づいた史音は、真っ青になって小虎の名前を呼び、その姿を探して雑草をかき分けた。
──どうしよう、小虎が逃げてしまった。
ひとりのときに、小虎を外に連れ出さないようにと母親に口酸っぱく注意されていた。
──ママの言うことを聞けばよかった。
史音は泣きながら小虎を探し回った。
夕闇が迫りつつある時刻になって、史音の焦りは極限に達した。
「どうしたの?」
そのとき、後ろから声をかけられた。
史音は飛び上がらんばかりに驚きながら、涙で濡れた顔で相手の正体を確かめた。
綺麗な黒髪が印象的な知らない男の子だった。
両手に白猫を抱えて立っている。
「こ、小虎……小虎が、いないの」
史音はたどたどしく説明にならない説明をした。
「小虎?
ペット?」
男の子は首をかしげる。
「ね、猫……猫なの」
「猫、いなくなったの?」
「そう……ずっと探してて」
半泣きの史音に、男の子はにっこりと笑みを浮かべた。
「ぼくも一緒に探してあげるよ」
「え……いいの?」
「うん、もう暗くなるし、ふたりで手分けして探そう」
史音は泣きながらうなずいた。
男の子の存在が、心強かった。
「あの……名前は?」
「しおん、稲葉、史音」
「史音ちゃんだね。
ぼくは歌川由希人、5歳」
「い、一緒……」
「そうなんだ、じゃ、探そう」
史音は再びうなずいた。
手の甲で涙を拭う。
それから、ふたりは公園やその周辺をくまなく探した。
しかし、ふたりでも、なかなか小虎を見つけられなかった。
「大丈夫、すぐ見つかるよ」
由希人は笑って史音を励ましてくれた。
それが、どれだけ史音の心を救ったのか、由希人にはわからないだろう。
辺りが暗くなってきたころ、にゃあ、と鳴き声が聴こえた。
「小虎!?」
ガサガサと茂みをかけ分けて、小虎と、由希人が連れていた白猫が二匹そろって顔を覗かせた。
「ミルク、よくやった!」
由希人は満面の笑みで白猫を抱きしめる。
史音が手を差し出すと、小虎はなにごともなかったかのように手に飛び乗ってきた。
その感触と温かさに、安堵の涙が溢れた。
「由希人くん、ありがとう、本当に……」
「見つかってよかったね、史音ちゃん。
これでおうちに帰れるよ」
史音には由希人が神様のように見えた。
「もう遅いから、帰ろう」
「うん……ありがとう、由希人くん」
「じゃ、またね。
ばいばい」
由希人は朗らかに手を振ると、夕焼け空の下をミルクをしっかりと抱きながら去って行った。
史音はいつまでも、その後ろ姿を見つめていた。
家に帰ると、案の定、母親から雷が落とされた。
さんざん叱られ、最後には、心配させるなと泣かれてしまった。
史音は泣きながら謝った。
小虎は我関せずでソファの上でうずくまり目を閉じていた。
翌日から、史音は由希人と頻繁に遊ぶようになった。
母親同伴でなら、小虎を連れ出すことが許可され、由希人が連れてくるミルクと小虎は仲睦まじく顔を寄せ合っていた。
由希人は、バスケットボールを習っていて、『あめりか』に行くために『えいご』を勉強しているのだと話してくれた。
史音も、『かいが』を描いていることを話すと、由希人は興味津々で聞いてくれた。
遊ぶたび、史音の中で由希人の存在が大きくなっていった。
初恋だった。
やがて、ふたりは同じ小学校に入学した。
由希人のバスケの才能と、史音の絵画の才能が開花し、ふたりは学校でも『特別』な存在だった。
ふたりはいつも、一緒に帰り道を歩いた。
「史音ちゃん、また絵のコンテストで優勝したんでしょ、すごいなあ」
由希人が言うと、史音ははにかんで謙遜した。
「絵画教室に行ってるから、みんなよりちょっと上手いだけだよ。
ずるしてるの」
史音がぺろっと舌を出すと、由希人が声をあげて笑った。
それにつられて史音も笑った。
ずっとそばにいたい。
言葉にはしなくとも、ふたりの思いは通じ合っていた。
しかし、7歳になったふたりを、別れという初めて体験する運命が待ち受けていた。
由希人が、バスケットの本場、アメリカに引っ越すことになったのだ。
「もうすぐ行っちゃうんだね」
いつもの通学路で、史音はぽつりとそう言った。
「うん……」
由希人の引っ越しの日にちが近づいていた。
「ねえ、史音ちゃん、タイムカプセル埋めない?」
湿っぽい空気になりかけたときに、出し抜けに由希人が提案したことに、史音は首をかしげた。
「タイムカプセル?」
「未来の自分への手紙を書いて、宝物と一緒に埋めようよ。
で、大人になったらふたりで開けるんだ。
そうだな、10年後、とか。
10年後、史音ちゃんは有名な画家になってて、ぼくはアメリカでプロになるためにチームでレギュラーメンバーになってる。
それまで会えないけど、必ず10年後、日本に帰ってくるから」
「でも、10年後かあ。
すごい先の話だね。
17歳になる自分なんて想像つかないよ」
史音は遠い目で彼方を眺める。
「きっとぼくたちは夢を叶えてる。
埋める場所は……どこにしようか。
いつもの公園の、桜の樹の下、なんてどうかな?」
「うん、いいね、やろう!」
史音は由希人の腕を取ると、走り出した。
ひとけのない公園に鎮座する大きな桜の樹の下に、クッキーが入っていた缶に手紙と、駄菓子屋で買った、お揃いのおもちゃの指輪を入れて、協力して掘った土の中に埋めた。
指輪に込められた意味をふたりは理解していたが、気恥ずかしさから互いに口に出して思いを告げることはしなかった。
タイムカプセルを埋めた目印として埋め戻した土の上にアイスの棒を刺した。
『10年後の7月16日、由希人の誕生日にタイムカプセルを開けよう』
そう約束した数日後、由希人はアメリカへと渡った。
しばらくは手紙のやり取りが続いたが、まだ小学生の男の子の由希人は筆まめではなく、すぐに手紙はこなくなった。
それでも、お互いの活躍ぶりはきちんと耳に届いていた。
10年後、胸を張って会えると、ふたりは疑いもしなかった。
☆
「小虎、あたし変じゃない?」
史音は部屋の姿見の前で、忙しなく前髪を整え、スカートをひらひらさせては難しい顔をしている。
「スカート、ちょっと短すぎかなあ……。
ノースリーブも露出しすぎかな……。
ワンピースのほうが清楚に見えていい?」
服を取っ替え引っ替えしている史音には目もくれず、ベッドの上で小虎は眠そうに瞳を閉じている。
「ねえ、小虎!
小虎のために公園に行くんだからね!
ちょっとはアドバイスしてよ!」
猫は喋らない、とわかっているけれど、夢を見て以来、史音が小虎に話しかけることがぐっと増えた。
両親はそんな史音を気味悪そうに見ている。
今日は7月16日日曜日。
由希人と約束を交わした日、時間を決めていなかったので、史音は昼前には家を出ようとしていた。
髪型と服装が決まると、まだ梅雨が開けない街へと、小虎を連れて家を飛び出した。
例の公園は、徒歩わずか数分の位置にある。
心臓がばくばくうるさく、緊張した面持ちの史音は胸元で小虎をぎゅっと抱きしめた。
不安で仕方なかった。
やがて見えてきた公園に足を踏み入れる。
近年すっかり花びらの数が減り、樹齢も相当なものであろう桜の樹のその下に、人影があった。
ごくりと喉を鳴らして近づいていく。
その人物は、どうやら車椅子に乗っているようだった。
車椅子に座る『彼』が軽く手を挙げ微笑んだ。
「待ってたよ、史音ちゃん」
「……由希人、くん……?」
由希人は、はにかむように苦笑して言った。
「久しぶり。
史音ちゃんは、変わってないね。
見ての通り、ぼくはこんなふうに変わってしまったけど」
よく日に焼けた利発そうな子どもだった歌川由希人は、線の細い儚さを漂わせる美少年になっていた。
史音の目が嫌でも車椅子に吸い寄せられてしまう。
「身体、どこか悪いの……?」
「うん、脚がね。
動かなくなっちゃったんだ」
「そんな……どうして……?」
「試合中に怪我してね。
下半身不随ってやつ」
史音はなにも言葉を発せられなかった。
脳裏に金沢さんの言葉がよみがえる。
──『その歌川くんなんだけど、実はさ……』。
その先を聞くことなく遮ってしまったけれど、金沢さんは、由希人が帰国した理由が、車椅子になったからだと伝えたかったのではないか。
史音の手が小刻みに震え出す。
「そんな……そんなのひどいよ」
泣き出しそうな史音に、由希人が困り顔をする。
「だよね、ぼくもそう思った。
でも、もうどうしようもないことなんだ。
これが、現実で運命」
「……運命……」
由希人の膝の上から、白猫が飛び降り、史音の腕から小虎が弾かれたように飛び出した。
ミルクと小虎がお互いの鼻先をこすりつけ合う。
「……会いたかったんだよね、小虎、ミルク……」
仲睦まじい猫たちに目を細めて史音が呟く。
「こんなこと、信じられないと思うけど、夢にね、ミルクが出てきたんだ。
小虎に会いたいって。
ミルクに背中を押されてここにきたんだ」
「えっ……嘘、あたしも同じ……なんだけど」
由希人が驚愕に目を見開く。
一方で、史音はどこか腑に落ちた表情になる。
「神様が寿命がわずかな小虎とあたしが話すことを許してくれた、そう夢で小虎は言ってた。
きっと、ミルクも同じだったんだよ。
よかったね、小虎、ミルク」
史音が屈み込んで小虎とミルクの毛並みを撫でてやる。
くうん、と二匹が喉を鳴らした。
「ぼくのことは置いておいて、史音ちゃんはどうだった?
絵、まだ描いてるんでしょ?」
「……あー……」
史音はきまり悪そうに猫たちに視線を泳がせた。
「実は、挫折しちゃったんだよね、絵」
「挫折?」
「才能がね、枯れたって、みんな言いたい放題。
今のあたしには、なにもないの。
唯一の取り柄だった絵がなくなったら、あたしなんて、なにもないも同然」
「そんな……」
「あたしは、特別でも天才でもなかった。
ただの人、凡人だよ。
いや、今は凡人以下かな。
凡人に失礼なくらい、今のあたしにはなにもない」
「でも、史音ちゃんには自由に動かせる脚があるじゃない。
五体満足なのは、それだけで恵まれたことなんだよ」
「そっか……ごめん」
「謝らないでよ、なんか惨めじゃん」
場に沈黙が落ちる。
「……ごめん、そんなこと、言いたくてここにきたわけじゃないんだ。
まだ自分の中でも、車椅子になったことを受け入れきれてなくて、人に当たっちゃったりするんだ、本当、ごめん」
「だ、大丈夫、あたしも悪かったし……」
空気を変えるために、由希人はつとめて明るく声を弾ませた。
「タイムカプセル、掘らない?」
真新しいスコップを由希人が取り出す。
史音はすかさずそれを手に取った。
「あ……」
「あたし、掘るよ」
「ごめんね」
「いいって。
埋めた場所、わからなくならないようにときどき確認してたんだ」
さくさくと史音が土を掘りはじめる。
「……約束、ずっと覚えててくれたんだね」
顔を真っ赤にした史音が無言で土を掘り続ける。
──なんか、恥ずかしいな。
土の中からクッキーの缶が姿を現した。
そっと蓋を外す。
中には、少しだけ土のついた封筒とおもちゃの指輪が入っていた。
ふたり同時に封を切り、7歳のときの自分が書いた手紙を読みあげる。
『17さいのあたしへ
小虎は元気ですか?
10年後のあたしは、りっぱな画家になっていますか?
ヨーロッパへ、りゅう学していますか?
由希人くんと、こいびとになっていますか?
ラブラブですか?
あたしのことだから、由希人くんにまだ好きだって、言ってないかもしれないな。
未来のあたし、勇気だせ!
今のあたしが代わりに言ってあげる。
由希人くん、大好きです。
あたしと結婚してください!』
読み終わった史音は、そっと由希人の顔をうかがう。
途中から、声に出して読み上げたことを後悔しながら、史音は過去の自分の気持ちが書かれた手紙を代読する形で、由希人へと思いを告げた。
次は、由希人が手紙を読み上げる。
『17さいのぼくへ
由希人、たん生日おめでとう!
アメリカでバスケのせん手になっていますか?
ミルクはさびしがってないかな?
背はのびましたか?
ぼくのことだから、だいじょうぶだと思うけど。
この手紙を読んでるとき、となりに史音ちゃんはいますか?
史音ちゃんに、ちゃんと好きって言いましたか?
けっこんしようって、プロポーズしてますか?
史音ちゃんとだけは、はなれちゃだめだよ。
言葉で大好きっていわないと、伝わらないからね。
ゆびわをわたして、史音ちゃんのだんなさんになってね』
読み終わると、過去の自分の言葉を借りて由希人も史音への思いを口にした。
そして、由希人がおもちゃの指輪を手にする。
「生意気な子どもだったね、ぼく。
……でも、驚くほどあのころと気持ちは変わっていない。
昔は恥ずかしくて言えなかったけど、ぼくは、変わらず史音ちゃんのことが好きだよ。
でも、迷惑だよね、こんな身体のぼくが相手じゃ」
史音がうつ向いて左手を差し出す。
びっくりしたように、由希人が目を見開いた。
きゅっと唇を引き結ぶと、由希人が指輪を史音の左手の小指へと嵌める。
史音は小さく笑った。
「おもちゃじゃもう小さいね、成長したんだ、あたしたち」
樹脂でできた指輪を陽に透かして眺めながら、史音がしみじみと言う。
「由希人くん、車椅子はハンデでもなんでもないよ。
由希人くんが歩けなくなったからって、それを理由に離れたりなんて絶対にしない。
由希人くんは由希人くんだもん」
「……本当は、怖かったんだ、ここにくるまで。
こんな姿じゃ史音ちゃんに嫌われるだろうなって。
だから、受け入れてくれて本当に嬉しい」
「怖いのは、あたしも同じだった。
由希人くん、もうあたしは特別でもなんでもないよ。
なにも、持ってない。
そんなあたしでも、いいって言ってくれる?」
史音が上目遣いに由希人を見た。
「昔も今も、ぼくには史音ちゃんだけだよ。
変わらない、変われない」
史音は笑いながら泣いていた。
由希人が左手を差し出す。
史音は指輪を由希人の左手の小指へと嵌める。
指輪は第一関節も通らなかった。
「本当だ、成長してるね、ぼくたち。
思ってたような大人にはなれそうにないけど……。
でも、まだまだ人生は長い」
妙に達観した態度で由希人が空を見あげた。
「史音ちゃん、笑わないで聞いてくれる?」
そう前置きしたあと、由希人は話し出した。
「車椅子バスケって知ってる?
ぼく、存在は知ってたけど、プレイを見たのはつい最近なんだ。
見てたら、なんか熱くなった。
もしかしたら、ぼくの夢を叶える場所って、ここかもしれないなあって、思ったんだ」
小虎とミルクが澄んだ瞳でふたりを見上げていた。
史音は無言でうなずく。
「だから、挑戦してみようかなって。
ブランクあるから、かなり厳しいだろうけど、やってみようと思うんだ」
「そうなんだ……。
由希人くんは相変わらず前向きだね、変わってない」
「ここまでくるのに、かなり時間はかかったけどね。
でも、ぼくにはいつも、史音ちゃんに見られても恥ずかしくない自分でいたいって思いがずっとあった。
ぼくの背中を押してくれるのは、いつも史音ちゃんなんだよ」
そのとき、足元で猫が鳴いた。
「ああ、ごめん、もちろんミルクのおかげだとも思ってるよ、安心して」
またも、みゃあ、とミルクが鳴く。
史音と由希人は顔を見合わせて吹き出した。
「実は、あたしもね」
小虎を抱き上げながら史音が零す。
「描いて、みようかなって」
「……え?」
由希人に会うことを決めた夜、キャンバスから布を剥ぎ取った。
いつかの描きかけの油彩画。
まずはこれを完成させよう。
史音はそう決意した。
「あたし、周りの評価に振り回されてたんだと思う。
天狗になって、褒められなくなったら子どもみたいにいじけて。
全力で足掻くってこと、してこなかった。
もっと泥臭く、足掻いてみようって」
「いい心がけだね」
「ふふっ、お母さんみたい、由希人くん。
これからは、自分が描きたいものを描く。
評価は気にしない」
「うん、それでこそ史音ちゃん」
それから、ふたりは長い時間をかけて語らい合った。
離れていた期間にあったこと、これからのこと、お互いの気持ちも確かめ合った。
ブランコに座る史音の足元では、小虎とミルクが身体を寄せ合っている。
またすぐに会おう、猫たちのために、と約束して史音と由希人は別れた。
「見て見て、小虎〜」
史音はソファで寝ていた小虎に、チェーンに通した指輪を見せた。
過去からやってきた、由希人との『婚約指輪』だ。
しかし、小虎は微動だにしない。
「ねえ、ママ、小虎、なんかおかしいよ」
「え?」
母親が小虎の呼吸を確かめると、険しい顔をした。
「すぐに病院に連れていかないと」
「えっ、小虎、死んだりしないよね?
大丈夫だよね?」
「いいから、史音も行くわよ」
母親は、言いにくそうに告げると、着替えるために寝室へと消えた。
小虎とミルクが再会したその夜、小虎は動物病院で、ミルクは自宅で息を引き取った。
史音は号泣しながら、母親に抱えられるようにして小虎の亡骸を抱いて帰宅した。
泣き疲れて眠ってしまった史音の夢に、小虎が現れた。
『死んじゃったんだね、小虎』
史音がそう言うと、小虎は困惑顔で笑った。
『ごめんね、もうお別れ。
わがまま、聞いてくれてありがとう、史音ちゃん』
『わがままなんて……。
小虎がいてくれたから、由希人くんと会えたんだよ、感謝するのはこっちだよ』
『由希人くんと仲良くね、これで心残りなくミルクの居る場所へ行けるよ』
『ありがとう、小虎』
『史音ちゃんと出会えてよかった。
元気でね、またね、史音ちゃん』
『うん、ばいばい、またね、また会おうね、約束だよ、絶対だよ、小虎』
小虎は嬉しそうにうなずくと、光りの中へ消えた。
目覚めた史音の頬は涙で濡れていた。
「大好きだよ、小虎」
史音は無理やり笑顔を作って、天国へ昇った小虎の姿を追うように朝日に照らされた空を見上げた。



