泣き虫健気エースはマネージャーの俺が好きらしい


 日曜日の早朝。
 学校に登校した俺は職員室にいた。監督から昨日足首を怪我した雨宮のために、監督が昨晩作成した練習メニューを渡された。
 ストレッチや上半身の筋トレなど、項目を確認していくと、不安そうに監督が尋ねてくる。

「矢吹、辛いなら帰って休んでいいぞ」
「大丈夫です監督。余裕余裕」
「その目のクマはどうしたんだ?」

 ウチのエースに告られて、昨晩ドキドキしすぎて一睡もできませんでした――なんて言えるはずない。

「ちょっと色々あって…でも大丈夫ですよ」
「…選手ももちろん大事だけどな。マネージャーのお前も大事なチームメイトだぞ。最後の大会、体調崩さないように気をつけてくれよ」
「はい。わかってます」

 苦笑いを浮かべて誤魔化せば、監督はため息をついた。

 監督との話を終えて、部室に向かっていると、グラウンドの隅で雨宮が楽しげに他の部員やマネージャーと一緒に歩いているのが見えた。

 その雨宮の周りにキラキラとした無数の星屑が散って、雨宮自身が輝いて見えた。
 思わず目をこする。だが相変わらず、雨宮だけが輝いてみえる。他の部員やマネージャーはいつも通りなのに、おかしい。

「…目ぇ、おかしくなったか?」

 練習を終えたら眼科に行く決意を固め、雨宮たちに近づく。すると、俺に気づいた雨宮がこちらに歩き出した。
 近づかれるたびにますます輝きが増して、胸の辺りが、きゅんっと妙な音が鳴り出した。

「おはようございます矢吹先輩!」
「お、おはよう」

 明るい雨宮の声を聞いた途端、全速力で走っている最中のように脈が速くなる。
 いつも通りに挨拶し返したつもりが、動悸のせいで声が裏返りそうになった。

「今日もよろしくお願いしますね! 先輩」
「…おう。よろ」
「じゃあ、また後で。着替えてきます」

 何度も見慣れたはずの笑顔が、とても眩しくて目がくらみそうになる。
 雨宮が離れていくと、心臓の音が徐々に治まる。

「…嘘だろ。俺」

 運動していないのに、雨宮と喋っただけで体調がおかしくなっている。





 俺と雨宮は他の部員たちが走り込みにいっている間、運動部が共有して使用するトレーニングルームで練習メニューをこなしていた。

 雨宮が膝を伸ばして、座り込み、俺がその背中をぐっと押す。
 よく部員たちがやっていること。体育の準備運動みたいなもの。何度か雨宮にやったことがある。

 それなのに、今は何故か雨宮の鍛えられた背中に触れるだけで脇や背中から謎の汗が大量に出て、心臓もバクバクと音を立てて痛い。

 マジでやばい。なんでちょっと触れただけで発汗作用働いているんだよ。
 お前の体、どうなってんだよ。逞しい背中でいいなこんちくしょう。

「結構入念にやりますね。先輩」
「まあな」

 ぐっぐっと、無心で押していたはずなのに、声をかけられただけでまた動悸がおかしくなる。
 ちゃんと返答できているのか怪しい。すると、雨宮が体を倒しながら、困ったように声をしぼめた。

「先輩、監督に渡されたメニューそろそろ始めませんか。ずっとこのストレッチはその…良くないというか」
「…確かに。やるかそろそろ」

 雨宮から提案され、練習メニューが書かれたバインダーをとりに離れた。

 まずい。本当にまずい。
 いつもの距離感で接することができていない。顔を合わせていないから、平然を取り繕えられているが、いつもみたいに急に「好き」なんて言われたら心臓が爆発しかねない。

 だが、動揺を見せるわけにはいかない。俺はマネージャー。雨宮はチームのエース。
 雨宮は今、怪我して本調子じゃないから練習のサポートが必要。加えて大会も備えている重要な時期。
 つまり、俺が支えてやらなきゃならない。雨宮の告白で意識している場合じゃない。

 深呼吸をして、自分の気持ちを切り替える。

「じゃあ次は、チューブトレーニングだな」
「はい!」

 気合の入った返事に満足し、道具をとりにいく。
 俺がやるべき仕事は、淡々と監督から渡されたメニューを、こなせば良いだけ。
 声を聞くと動揺するなら、話しかけられなければいい。

 だから――あいつが何か伝えてくる前に仕草や表情を読み取って、極力喋らない方向性で接すればいい。
 己の観察眼と、洞察力。それとこの約1年みてきた雨宮の一挙一動から経験則で完璧にサポートしてみせる。

「先輩? なんか邪悪な顔になってますけど。どうしたんですか?」
「気のせいだろ」

 内心ほくそ笑んで振り返ると、雨宮に首を傾げられた。
 その仕草やめろ。可愛いから。





「よし。休憩しよう」

 午前中のメニュー終えた途端、雨宮が息を吐き、パタパタと手を仰ぎ出す。それを見て素早く鞄の方へ向かった。

「先輩」
「ほい」

 汗拭き用にタオルを投げてやれば、雨宮は素直に受け取った。一瞬手元を見た雨宮が笑んでくれた。

「ありがとうございます。丁度汗拭きたかったんです」
「だと思った」

 ついドヤ顔してしまうと、雨宮がさっと目を逸らす。そして、少し迷ったようにクーラーボックスを見てきた。すぐに察して、箱を開ける。
 冷えたスポーツドリンクを手渡すと、雨宮は目を丸くした。

「これだろ」
「は、はい。そうですけど」
「喉、乾くもんな。あとトイレとか平気?」
「え?! ああ、えっと…ちょっと行ってもいいですか」
「行け行け。行けるときに行っとけ」

 雨宮がいつも用を足す時間帯ももちろん把握しているので、提案する。すると予想通り雨宮は一口飲んだドリンクをこっちに渡して、トイレへ向かった。
 一人になったトレーニングルームで、俺はガッツポーズした。

「いける。これならいける」

 いつも通り、いやいつも以上に仕事ができている。相変わらず心臓がバクバクしているが、隠しきれている。問題はない。

 このまま残りの練習メニューこなせば、乗り切れる。
 勝利を確信し、残りのメニューに目を通しているうちに雨宮が帰ってきた。だが、すぐに部屋には入らずドアを半開きにして顔を出しているだけだった。

 なんだその小動物がチラチラこっちの機嫌を伺うみたいな仕草。俺より体格いいくせに可愛いな。

「…入ってこいよ」
「先輩…その、言いにくいんですけど」

 眉をハの字にして言葉を詰まらせた雨宮が、ドアの隙間から右手を出した。
 差し出してきた右手のテーピングが外れかけ、だらんと伸びていた。

「すみません。手を洗っていたら、なんか外れちゃって…巻き直し、お願いしてもいいですか?」

 雨宮は申し訳なさそうに身を縮め、決まりの悪い顔をする。
 その瞬間、今朝から雨宮の周りを溢れて眩しい星屑が弾ける。胸に矢でも撃ち抜かれたような衝撃が走った。

「まかせろ。こっち来い」

 今日のお前、なんでそんな可愛いんだよ。
 普段なら確実に叱っていたが、頭がバグっている俺は平静を装うのに必死で、お願いをあっさり了承してしまった。
 手招くと雨宮は気恥ずかしそうに、はにかんで部屋に入ってくる。その笑顔にまた心臓が痛くなった。

 一時的にトレーニングは中断し、雨宮を座らせていつも通りテーピングを施す。
 だが、慣れたはずのテーピング巻きが、落ち着かない鼓動のせいで手元が狂いかける。
 自分から、雨宮に触れることを意識しているせいで手がわずかに震えて油断すると寄れたり、ずれそうだ。

 慎重に、時々作業を止めてなんとか巻き終えた。道具をしまっている間に雨宮が感触を確かめるように手を広げる。
 すると、雨宮が目を細めて、じっとこっちを見てきた。

「なんだ? 巻いたところなんか違和感あるか?」
「いえ。違和感はないですけど……その」

 一瞬不安がよぎったがテーピングには問題なさそうで、ほっとする。
 だが、雨宮は自分の首をさすって、背中を丸める。そして甘えるような目つきで見てきた。

 これはわかるぞ。頭を撫でて欲しい時の顔だ。

「これか?」

 撫でた途端、雨宮は頬を赤らめてうっとりと目を閉じた。

「はい…正解です」

 正解と言われて、勝手に口角にニヤける。
 いつもの癖で撫でたが、心臓が祭り太鼓のようにうるさい。耳元まで自分の鼓動が鳴り響き、変な汗がドッと出てきた。

 今すぐ手を離さないと、なんかヤバい気がする。だけど、離したくない。ずっとこのままでいたい。雨宮と二人でいたい。俺の手から離れないで欲しい。

 なんだこれ。ドロドロした思いが勝手に溢れてくる。生まれて初めての感覚に動けなくなる。

 そのとき、雨宮が俺の手首を掴んできた。強い力で引き寄せられ、腰を掴まれる。

「は?」

 気づけば、俺は雨宮の膝の上に乗っていた。しかも、正面から向き合う体勢で抱きつかれている。
 突然雨宮の匂いに包まれ、昨日の告白を思い出すような密着されて、頭が真っ白になる。
 咄嗟に離れようとしたが、逃さないと言わんばかりにその抵抗を力で抑え込められる。

「ちょっ、離れろって…!」
「…ああ。やっぱり」

 何か確信をしたように雨宮は低くつぶやく。腰や手首は掴まれたまま、体を離される。

「あんたさ。俺のこと、意識してますよね」

 獲物を狙い澄ました獣のような目つきに、身が縮こまってしまう。
 息が一瞬だけ止まり、鋭い眼光から目を逸らすことが何故かできなかった。

「そんなこと、ないし」
「いつもの先輩ならテーピング巻き直す時、無言じゃないんですよ。ささっと巻きながら、勝手にテーピングをダメにした俺を叱るはずです」

 するりと、雨宮が俺のうなじを撫でる。ゾワゾワする感覚がして、離れたいのに力が強くて抵抗できない。声が漏れないように唇を噛んだ。

「それに、こういう風に俺が近づいたり触ったら、超鈍感な先輩はまず『何してんの?』って聞いてきます。咄嗟に離れようとしませんよ」

 少し苛立ち気味に雨宮が、何か喋っている。
 だけど、触られているところがくすぐったくて何言っているのかあまり聞き取れない。
 きつく目を閉じて耐えていると、首筋を触るのをやめてくれた。ゆっくり目を開ければ、雨宮は目元を赤くして喉をごくりと鳴らしていた。

「あめみや?」

 舌足らずな声で名前を呼べば、急に雨宮は頭を振って、深呼吸をし始めた。何度かゆっくり深呼吸した雨宮がガシッと俺の両肩を掴んできた。

「あと、いつもの先輩なら昨日俺が置いて行ったグラブをすぐ返しますよ! なんでその話しないんですか?」

 今、触れて欲しくない話題だった。

 昨日借りた雨宮のグラブは、俺の鞄の中にある。
 今朝会ったときに、返そうと思えばできた。だけど、自分から言い出せなかった。
 雨宮を意識したから。というのも理由の一つだが、それ以上に――

「話すタイミングなかったし…」
「グラブのこと言ったら。昨日の俺を思い出して困るからじゃないんですか?」

 ビクッと自分でもわかりやすく肩を大きく跳ねてしまう。
 図星すぎて、何も言い返せなくなる。カッと全身の血液が頬に集まって、熱い。思考がまとまらない。
 顔を覗き込んできた雨宮は、溶けそうな柔い目つきで俺の頬に手を当てる。

「顔、真っ赤。かわいい…」

 普段バットやボールを握る分厚くて硬い手のひらが、まるで羽根が傷ついた小鳥でも触れるように優しく円を描くように撫でてくる。

 そんな優しく触んな。そんな目で見るな。俺の心臓壊す気かよ。文句が言いたいのに、甘い感覚のせいで喉がつっかえて声が出ない。
 されるがままになっていると、雨宮がまた抱き寄せてくる。自分の耳を俺の胸に押し付けてきた。ちょうど心臓あたりに、耳を寄せている。

 やばい、バレる。

「あ、雨宮! ま、まった…!」
「先輩…ドキドキしてますね」

 背中をさすられ、上目遣いで見上げられた。とろけるような声色で、雨宮の瞳が揺らぐ。

「俺で、こんなにドキドキしてくれるんだ…嬉しい。すげぇ嬉しい…」

 声が、甘い。今にも泣きそうな顔なのに、声が弾んでいて雨宮の嬉しい気持ちが伝わる。

「大好きです。先輩」

 一筋の涙が雨宮の目頭から溢れる。だが、太陽のように眩しくて、喜びで満ちた表情だった。
 あたたかくて、嬉しくて、拒めなくて。自分の気持ちが、とろりと甘い蜂蜜のように胸の中心から溢れてくる。

 ああ、でももう無理だ。もう、限界。

「心臓、ばくはつする…」

 感情と体が限界に達し、血の気が引いて視界が白んでいく。
 頭が沸騰するくらい熱くて、ぐらぐらと揺れる。そして、雨宮の方に倒れ込んだ。

「先輩…!? せんぱーい!!」

 意識を失う寸前、雨宮の叫びが聞こえた気がした。