マネージャーになる前、俺は選手だった。
そもそも野球が好きになったのは、幼い頃に甲子園大会をテレビで観戦したのがきっかけだった。
ボールを追いかけて、打って、捕って、走り回るだけなのに、テレビに映る真剣にプレーする選手たちの姿から目が離せなかった。
いつか自分もあの舞台に立ちたいと、本気で思った。チームメイトや対戦相手、観客全員に俺のプレーを見せつけて、記憶に刻むような選手になりたいと本気で思った。
すぐに両親に相談して、野球道具を買ってもらって、キャッチボールをするのが楽しくて、地元のリトルリーグに入団したこともある。
だけど、練習をすると必ずひどい立ちくらみと動悸がして、チームメイトと同じ練習を最後までこなせなかった。
周りからは気持ちの問題とか、甘えているとか言われて、すぐに体調を崩す自分が情けなくて、悔しくて仕方なかった。
それでも、練習し続ければ、いつか体力がついて選手として活躍できると信じていた。
炎天下で走り込みをしたあるときーー急に目の前が真っ白になって、病院へ緊急搬送された。
『野球のような激しい運動は、今後控えてください』
その無情に告げられた医者の言葉は、頭に思い切りハンマーを振り下ろされたかのような絶望宣言だった。
普通の生活には支障がないのに、運動すると思うように動けない体質と診断され――「体質」という言葉で夢を叶えられないと簡単に片付けられたのがショックだった。
ああ、そっか。俺…野球したらいけない体なんだ。好きなものを、やったら体が壊れるんだ。
――こんなに好きなのに、なんで諦めなきゃならないんだ。
自覚した途端、俺は野球道具を全部捨てた。何日も自分の部屋に引きこもって耳を塞いだ。
家族が心配する声も、元チームメイトたちのメッセージも煩わしくて、ただ時間が過ぎるのを布団にくるまって待ち続けた。
けれど、時間がいくら経っても体質が改善できるわけがない。日に日に痩せて、手のひらのマメが薄れて野球が好きだった自分が少しずつ消えていく気がした。
そんな時、母親が無言で一冊の本を俺に渡してきた。
それは、元野球選手だったコーチのエッセイだった。本には、自分と同じ体が弱くて苦しい経験を書き綴られていた。
ページをめくるたびに、惨めな気持ちになった。同じような経験をした大人が、これまでの半生を自分の言葉で伝えてくる文字の羅列と、プレッシャーが重かった。
自分よりも心が強い大人の体験話は、とても苦い薬を強引に飲まされているようで、吐き気もした。
だけど、ページをめくる手は止まらなかった。
野球をしていい理由やヒントがあると信じて、無我夢中で目で文字を追っていった。
そして、ある一文を目にした時――涙と鼻水が止まらなくなった。
『野球を諦めたくない。その思いが、選手じゃなくてもチームと一緒に闘えるコーチというカタチをつくってくれました』
諦めたくない。一番、欲しかった言葉だった。
選手じゃなくても、野球を続けられる。実際にボールを投げなくても、バットで打たなくても、体を思い切り動かさなくても。
選手たちを支えられるような、側にいられる場所にいれば、野球を諦めなくていい。
その答えを教えてくれた本を、抱きしめた。
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監督やチームメイトたちに雨宮の怪我の状態を伝え、昼間早退をした。キャッチボールをするために二人で河川敷に来ていた。
雨宮から昔使っていたというグラブを借りて、肩を回したり、軽いストレッチをして準備運動をする。
早速借りたグラブを手にはめてみると、指の間がスカスカだったり、革の柔らかさにあまり馴染めなくて笑ってしまう。
「うわー…5、6年ぶりの感覚だけど。やっぱ、いいなコレ」
グラブを開いたり閉じたりして、懐かしい感触を楽しむ。マネージャーに転身を決めてから、勉強に専念して、選手になりたい気持ちを抑えるために野球道具にはあまり触らないようにしていた。
だが、グラブを嵌めても選手になりたい気持ちは湧き上がらない。それより早くキャッチボールをしたい気持ちが芽生えていた。
そんな俺の様子に雨宮が不安そうに声をかけてきた。
「あの…体調悪くなったらすぐ言ってくださいね」
「大丈夫だって。軽めの運動なら、問題ないって。お前こそ走るなよ。あと全力で投げるな。足首に負担かかる投げ方禁止! やったら怒るからな!」
「わかってますって」
グラブをはめている手を突き出して、距離を空ける。グラブを叩いて、思い切り広げた。
「こいよ。雨宮」
「…はい」
軽く放られたボールが、構えた位置に吸い込まれていく。
パシン! と気持ちのいい音が手の中で鳴って、高揚した。
「いいぞ。ナイス!」
ボールを投げ返す。だけど、少しすっぽ抜けて右へ逸れる。
だが、雨宮はあっさりとその逸れた球を軽々と捕ってしまった。
「悪い」
「全然、大丈夫ですよ」
また雨宮がボールを放ってくる。またキャッチして、投げ返す。その繰り返しをしていた。
徐々に言葉数が少なくなっていったのに、俺たち二人はキャッチボールをやめなかった。
途中で息が上がったり、時折視界が揺らいだが、必ず投げ返してくれる球をどうしても取りたくて、投げ返したくて続けてしまう。
時間を忘れて、ひたすらボールを投げ合った。
どのくらい時間が経ったのだろうか、気づけば日が傾いて、夕方になってしまっていた。
ああ、楽しい。
雨宮のために、キャッチボールしているはずなのに俺も楽しんでいた。
雨宮も、楽しんでいるようで先ほどまでの暗い表情がどこか消えて、いつものように明るい笑顔になっていた。
その疲れを吹っ飛ばしてくれる笑顔に吊られて、勝手に口角が緩んでしまう。
「楽しいな。雨宮」
本音が漏れ、笑いながらボールを投げる。それを受け取った雨宮は、目を見開いて呆然としていた。
なかなか投げ返さず、静かにしている雨宮にそっと声をかけた。
「…飽きたか?」
スマホを取り出して時間を確認すれば、17時を回っていた。帰宅するにはちょうどいい時間帯だった。
だけど、もっとやりたかったな。
残念に思いながら、顔を上げれば雨宮がいつにも増して顔を引き締めたまま告げる。
「先輩、好きです」
久々の告白に、肩をすくめてしまう。
いつものように、頷いた。
「知ってるって」
「先輩が、テーピングを巻いてくれた一年前から好きです!」
「…え?」
好きになったきっかけを言い出したのは、初耳だった。
「先輩、覚えていますか? 俺が一年の頃テーピング全然できなくて、他の部員にからかわれていたとき…応援メッセージ、書いてくれたの」
覚えている。
雨宮との交流を深めたきっかけだった。
・
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あれは、1年前――雨宮が期待の1年生として入部したての頃だった。
あの頃の雨宮は、入部早々期待通りの活躍で早速レギュラー入りを果たしたが、人に頼るのが苦手で自分の不器用さを隠していた。
偶然、保健室に行く用事があって保健室に尋ねたあの日――泣きべそかきながら、テーピングをぐしゃぐしゃにして自分の手首を巻こうとする雨宮がいた。
あの時の雨宮は顔色を真っ青にして、狼狽えていたのを覚えている。
『不器用だなお前』
『放っといてください』
鼻を鳴らし、巻き直そうとする雨宮を、見ていられなくてその手を掴んだ。
『こういうのは、専門に任せろって。俺、得意だから』
『…これくらい一人でやんなきゃ。俺、野球しかできないし』
『誰にそう言われたのか?』
仏頂面で、自分を落とすような言い草に引っかかって、カマをかけたら雨宮は図星をつかれたように押し黙った。
きっとレギュラーを奪われた3年生だと犯人に目星をつけて、テーピングを奪った。
『なっ!? だから自分でやるから』
『うるせぇ俺に仕事させろ。不器用マン』
有無を言わさず、強引にテーピングを巻いていくと、雨宮は俺の手捌きをじっと眺め、『すげぇ』と声を漏らした。
完璧に巻き終えたテーピングを握ったり開いて、感触を確かめた雨宮は、小さく礼を言う。
『…あざっした』
『ありがとうございました。マネージャー様だろ』
『ありがとうございました!』
『おーどういたしまして』
言葉遣いの指導をしたあと、俺は仕上げにサインペンを取り出した。
『そうだ。悩める後輩に、先輩からメッセージを書いてやろう』
『メッセージ?』
『昨日の試合、代打で出たあとすげぇ格好いいプレーしてたじゃん』
当時、練習試合で途中出場した雨宮は、守備でダブルプレーやファインプレーを連発していた。並外れた身体能力と、努力を感じるプレーにベンチにいた俺は魅了されていた。
だから、この時から俺は雨宮を支えて思い切りプレーできるようなサポートしたいって思っていた。
少しでも野球のモチベーションになれるように。応援している人間が近くでいると、わかってもらいたくて。思い切り好きなことを、続けて欲しくて。
巻いたテーピングに俺は『ガンバ』と大きな文字を書いた。
『野球大好きで、すげぇ奴を支えるために俺がいるんだ。頼れよ後輩』
そう言い残して、保健室から出ていった。
それから雨宮は、俺を見つけるなり言葉遣いや態度を改めて、人に頼ることを覚え、レギュラーとして活躍していった。
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・
まさか、あの時から好きになったのか。
ほとんど初対面だった頃の話をされて、目を丸くしてしまう。
すると、雨宮はボールを強く握りしめた。
「俺、野球しかしてこなかったから…どうすれば両想いになるかなんて、習ってないから。とにかく俺の好きを、あんたに伝えるしかできませんでした!」
手に嵌めていたグラブにボールを叩きつける。ポケットに吸い込まれたボールの音が響いた。
「好きって伝えるやり方、今日まで思いつく限りいっぱいしました! ネットにあることも、友達やチームメイトのみんなからもらったアドバイスも、やってみました!」
大きく息を吸い込んだ雨宮は、何故か激しく地団駄を踏んだ。
「なのにあんたマジなんなの!? わざとかよ!!」
八つ当たりのように球を噛ませたグラブを乱暴に足元の鞄へ叩きつけた。
見事に鞄の中に入り込み、その制球力にちょっと感心した。
「わざとって…?」
「そういうところ! そういうところだからな!!」
小首を傾げた途端、積もった思いが爆発したように叫び出す。
ますます意味がわからず、きょとんと口を開けると、雨宮は敬語を忘れて、大股でこっちに近づきながら詰め寄ってきた。
「あんたに全然好きなの伝わってないし! 俺を全く意識してくんないし! でも、俺に一番優しくしてくれるし! 抱きしめても、キスしても嫌がんないじゃん! それに、あんな悩み抱えてた俺を励まして! こうやって自分の時間割いて付き添ってくれるし!! そんなの、絶対に、俺のこと――」
そこで途中で何か言いかけ、ぐっと堪えるように口を強く結ぶ。
顔を赤くした雨宮は目の前で立ち止まり、容赦なく俺を指差した。
「――とにかく! 魔性通り越してあんた悪魔だよ悪魔! この、悪魔!!」
流石に悪魔呼ばわりされるのは、少し傷ついた。そんなに俺は酷いことをしているのか、自然と眉間に皺を寄せてしまう。
「なんで、そんな怒ってんの?」
「はぁ〜〜〜…?」
理由を聞こうと問い掛ければ、雨宮は頭を抱えて深いため息をついた。
そして、俺の両肩を掴んで激しく揺すり始める。
「あんたさぁ! マジで!! 自分が好きで好きで仕方ない相手が、超無防備で、襲われてもおかしくない状況で、我慢できている俺のヘタレさに感謝しろよ!!」
「落ち着けって! そんな揺すられたら酔う! 酔うから!」
ただでさえ虚弱体質なのに、三半規管を揺すられるのは気持ち悪い。目を回していると、急に動きを止めてくれた。
見上げれば、雨宮は下唇を噛んで、息を詰めている。必死に凝らしている目が夕暮れの光に反射してとても綺麗だった。
手を伸ばして、頬に触れる。瞬きした雨宮の目から涙が静かに溢れた。
「今日の雨宮は泣き虫だな」
「…あんたのせいで涙もろいんですよ。先輩の前くらいでしか泣かないし。俺、泣き虫なんかじゃない」
「じゃあ俺の前でも泣くの、やめてくれよ。笑ってくれたら俺、元気でるし」
「………ホント、わかってない」
唇を尖らせた雨宮の目元を指でそっと拭ったーーそのとき、雨宮が俺の体を包み込むように抱き寄せる。腕の中に閉じ込められて身動きが取れなくなった。
「…雨宮?」
「先輩、好きです…大好きなんです…」
いつもの告白。
だけど、肩や背中に回る腕の力強さや、密着して体が触れ合っているところから呼吸や体温が直に伝わる。火が出ていると錯覚するほど雨宮の体熱くて、心も体もすくみ上がる。
「好き、好き…ねえ、俺の気持ち届いて…」
ドサっと、左手に嵌めていたぶかぶかのグラブが足元に落ちた。拾う余裕はなかった。
雨宮の、俺に縋る声が切なくて、甘くて、息の仕方を忘れかけるくらい頭が真っ白になる。
浅く呼吸した途端、雨宮は強く抱きすくめてくる。胸や背中が潰されるんじゃないかと錯覚するくらい強く引き寄せられた。
とても苦しい抱擁なのに、嫌じゃない。雨宮の身体から「好き」の溢れた思いがじわじわと肌に伝わってくる。
なんだこれ。今までも雨宮に触られたり、スキンシップとかされてきたのに。こんなの、初めてだ。
――知らない。こんな、まっすぐな好き、俺知らない。
「俺を、好きになってください先輩。お願い…」
かすれた声が鼓膜を揺らし、心臓が大きく跳ねた。
全身が一気に燃えるように火照り、産毛が逆立つ。肌を撫でる夕暮れの夏風が冷たく感じた。
制服越しに雨宮の煩い鼓動が、首や耳にかかる吐息が、汗臭いのに心地いい匂いが、熱い体温が全部伝わる。
「あめみや…」
行き場がなかった手が彷徨う。無意識に雨宮の腰へ手を伸ばした――そのとき、ばっと雨宮が俺の肩を掴んで思い切り引き剥がしてきた。
「…え?」
顔を上げれば、首筋から耳までリンゴのように真っ赤になった雨宮がいた。額にびっしりと汗を掻き、しどろもどろに目を激しく泳がせている。
そして、焦りと動揺が入り混じった口調で雨宮が喋り出す。
「そ、そういうわけで! あの、その、ああ…明日! そう、明日も部活で会うんで! 明日頑張りますので! よろしくお願いします! では、さよなら。また明日!」
どもりながら早口で喋った雨宮は、言うだけ言って深く一礼してきた。そして、河川敷の隅に置いてあった自分のスポーツ鞄を掻っ攫いーー走って逃げた。
俺を、置いていったまま。
「……はあ?」
全速力で駆け抜けたのか、雨宮の姿がもう見えなくなっていた。
驚きすぎてしばらく立ち尽くしてしまったが、取り残されたのをようやく理解する。沸き上がった怒りで声が震えた。
頭から大量の冷や水をかけられたように、乱れた気持ちが一気に萎む。伸ばかけていた腕に力をこめると、血管も浮き出てきた。
自分の髪をかきむしり、全身が震え、たまらず叫んだ。
「覚えてろあの野郎!! つーか、走るな! 怪我、悪化するだろうが!」
大声を出した途端、頭がくらくらしてきた。立ちくらみもして、思わずしゃがみ込む。
足元に落ちていた雨宮のグラブが目に入った。
「…ここに置いてくなよ。あのアホ」
それを拾い上げ、軽く砂埃を叩いて汚れを落としてみる。
ポケットにくっきりと刻まれたボールの痕や、紐を何度も縛った痕、汗や日焼けで革の色が変わるほど使い込まれたグラブが、夕焼けに照らされて一層輝いて見えた。
『俺を、好きになってください先輩。お願い…』
脳裏にこびりついてしまった雨宮の囁きを思い出してしまう。まだ体に雨宮に抱きしめられていた感触が残っているようで、頬がまた熱くなる。
「あと数秒、待ってくれたら――」
雨宮のグラブを少し掲げる。眺めれば眺めるほど、汚れているのに宝物のように煌めいていて――だからなのだろう。衝動が抑えられなかった。
「こう、してやってたのに…」
気づけば、俺は雨宮のグラブを強く抱きしめていた。雨宮の匂いがツンと鼻をくすぐり、頭と指先がしびれる。
その時、近くで「カァ」と鳴き声がした。顔を上げると、一羽のカラスが不思議そうにこっちを見上げている。
「え? …あっ」
目があった瞬間、カラスは羽ばたいてどっかいった。ハッとして、グラブから手を離し、尻もちをついてしまった。
「いやいやいや…! 何してんだよ俺…!」
激しく頭を振って、周囲を見回す。幸い、人通りが少ないおかげで人にはみられていないようだった。
ほっと胸を撫で下ろした。
『好きです。先輩』
だが、すぐに頭の中であの声が蘇る。
「あいつ、本気で。俺のこと好きだったんだ…」
膝を抱え、空を見上げる。
1年間、俺に告白し続けてきた後輩の姿が駆け巡る。
今まで向けた熱っぽい視線や、スキンシップ、あの声が全部、俺だけに向けた本気の好意とわかった今――ぞわりと背筋が震え、胸が高鳴ってしまう。
「……やばいかも」
俯いて顔を伏せる。落ち着いたはずの心臓が、また激しく波打ち始めていた。
落としたグラブをまた拾い上げられる頃には、すっかり夜になっていた。
