泣き虫健気エースはマネージャーの俺が好きらしい


 甲子園の予選が始まるまで、あと一週間。
 土曜日の今日から最終調整が始まり、部員たちは普段以上に気合が入っていて、チームメイトのかけ声がグラウンド中に響く。
 朝からノック、走り込み、筋トレに、入念なストレッチなど夏バテしないよう適度な休憩をはさみながら、部員たちは練習をこなしていた。

「ショート!」

 監督が雨宮相手にノックを繰り出す。手前に激しく転がるゴロが飛ばされ、雨宮はボールに飛びつく。
 腕を伸ばし、グラブの中へとボールを素早く捕球すると、受け身を取った雨宮は帽子を落としながら、一塁へ制球する。
 スパンっ! と良い音がファーストミットに収まる。ファインプレーに部員たちは感嘆の声を漏らす。

「次! ライト!」

 監督が別の部員へノックをする際、雨宮は落ちた自分の帽子を拾いにいく。
 帽子を拾おうと屈んだ際、一瞬だけ雨宮は動きを止めた。

「…雨宮?」

 思わず声を漏らすと、雨宮は何事もなかったかのように帽子を拾って、被り直す。すぐに自分の守備位置に戻ったが、右足がいつもより少し上がっていない気がした。
 ちょっとした違和感だったが、見逃せなかった。
 すぐにメガホンを取って、俺は声を上げる。

「雨宮! こっちこい!」

 呼ぶと、雨宮は帽子を深く被って、顔を伏せたまま駆け足でこっちにきた。

「どうしたんですか? 先輩」

 雨宮は、後ろ手で組んで気まずそうに目を逸らしていた。
 いつもこうして呼んだら、絶対目を合わせるくせに。本当に、隠し事が苦手で素直な後輩だ。
 右足を指さすと、小さなため息をつかれる。

「足、怪我したろ。診てやる」
「…してないですって」
「あーめーみーや。嘘つくな」

 語気を強く言えば、雨宮は帽子のつばをあげた。

「…どうしてこういうのは、すぐバレちゃうんですかね」
「ちゃんと見てるからな」

 バツが悪そうな顔で観念をするエースの腕を引っ張る。
 そして、大きく息を吸い込んで、監督やチームメイトたちに向けて叫んだ。

「監督―! こいつ足首捻ったみたいなんで、休ませます!」
「おぉ。わかった。しっかり手当てしてやれ!」
「はーい!」
「雨宮を頼んだぞ矢吹!」
「まかせろー!」

 監督から承諾され、チームメイトたちは見送るように手を振ってきた。
 膨れっ面な雨宮を、ひとまず保健室に連れていくことにした。

「ほら行くぞ」
「……はい」





 運動部の生徒が使いやすいように土日の保健室は、鍵が開いている。
 中に入ると、誰もいなかった。俺は雨宮を椅子に座らせ、部屋の隅に置いてある台を引き寄せた。

「ほら、ここに足乗せとけ。あと裾めくれるか?」
「…はい」

 小さく返事をした雨宮は、ソックスを下ろして、少し赤く腫れた足を台の上に乗せた。
 膝をついて間近で診察する。どうやら、軽く足を捻っただけで、大事には至ってなさそうだった。すぐに立ち上がって備え付けの冷蔵庫を開ける。

「まったく…大会前に無茶すんなって」

 保冷剤を手に取り、タオルで包む。腫れた足に押し当てれば、雨宮は眉をしかめた。

「…すみません」

 しおらしく謝る雨宮に、違和感を覚えた。いつもだったら「ごめんなさい! 先輩!」と深々と頭を下げて反省の色を見せるが、今回は悔しそうに歯を食いしばっていた。

「何か焦ってんの?」
「別に、焦ってなんか…」
「本当に?」

 目を細めて、顔を上げると雨宮は口を結ぶ。そして、ポツリとつぶやいた。

「だって…次の試合で負けたら、先輩引退じゃないですか」

 つい、雨宮の足を冷やしているタオルを握ってしまう。すると、雨宮は口元をひきつらせて笑った。

「引退したら、こうやって手当てもしてくれなくなるんですよね」
「…そうだな」
「別に、試合に負けても…まだ先輩は卒業していないし……その気になれば、いつでも、まだ話せるのはわかっているんですけどね」

 似合わない愛想笑いを浮かべたまま、雨宮は肩を落とした。

「俺…野球部にいる先輩が見れなくなるの、寂しいです。練習がきついときに励ましてくれたり、怪我したら叱ってくれたり、試合をベンチで応援してくれる先輩が…もう見れなくなるんですよ」

 雨宮は唇を噛んで、肩を震え上がらせる。
 春と夏を含めて甲子園に挑戦できる回数は高校三年間のたった五回。一つ、歳が離れただけで挑戦できる回数や、経験の差が生まれる。

 それに――歳の差があれば、当然引退するタイミングも違う。

 俯いていた雨宮は、顔を上げる。無理やり声を張り上げて、口角を上げていた。

「もちろん! 先輩がいない野球部でも、頑張れますよ! 野球大好きだし。最近、メキメキ力が伸びているのもわかるし。うちの世代、結構良い感じだって監督にもお墨付きもらってますし。甲子園も夢じゃないって言ってましたし! そう! 俺は、もう先輩がいなくたって一人で大丈夫! なんて言ったって、エースですからね!」

 早くこの会話をやめたいのか、雨宮は捲し立てて喋り出す。
 自分に言い聞かせるような痛々しいその物言いが、無性にイラッときた。

「雨宮」

 静かに名前を言ったつもりだった。けれど、発した声はとても冷たいものだった。自分が今の雨宮に腹が立って、むしゃくしゃした怒りが声に滲んでいた。

 何が大丈夫だよ。強がっているくせに。
 そうやって傷ついてんの隠されても、俺は分かってんだよ。お前が無理に笑ってるところ、見たくない。

 頭によぎった思いに、歯軋りしてしまう。
 肩の力を抜いて、ゆっくり深呼吸をする。自分の中にある怒りを鎮めた。

「お前が野球好きなのもわかってる。俺がいなくても、大丈夫だ。それに、まだ俺たちは試合をやっていないし、負けてないだろ。そういう想像するのは、まだ早いんじゃないか」
「そ、そうですよね! すみませんね。変なこと言って…」
「変なことじゃない」

 首を横に振って、俺は雨宮の右手をとる。包み込むように両手でしっかりと、雨宮の利き手を握った。
 ピクッと、雨宮の手が震える。その手のひらや指先に張り付いた固いマメや努力の跡が、触れた指から伝わった。

「寂しいのは、別に悪いことじゃない。こういうときくらい、吐き出せよ。俺、どんな思いでも聞くからさ」

 ニカっと笑顔を作る。さらに力を込めて、手を握ってやった。
 すると、ほんの一瞬、わずかな力で手を握り返してきた。笑顔をやめた雨宮は、憔悴した表情で悲しげにまつ毛を伏せた。

「どうして俺…年下だったんだろう。あと一年早く生まれたら、もっと先輩と野球できてたのに…なんで遅く産まれちゃったんだろう」

 グッと、急に痛いくらい手を強く握られる。次の瞬間、雨宮は大きく息を吸い込み、悲痛に叫んだ。

「俺…矢吹先輩と同い年になりたかった! もっと早く、先輩と会いたかったし…置いていかれたくなかった!」

 どうしようもない、やり場のない思いを吐き出した雨宮は、胸や肩を上下させて呼吸をしていた。息を整えようと必死になっているのに、目元や(まぶた)が膨らんでいく。けれど、気丈にも涙を決して溢さないように堪えていた。

「…うん。よく言った」

 頷くと、雨宮は力無く手を離してきた。顔を見せないように、帽子を深くかぶり出す。

「ごめんなさい…困らせて、すみませんっ…馬鹿なこと、言ってすみませんッ…」

 喉を振り絞って、辿々しく雨宮は謝ってきた。

――馬鹿だな。吐き出せって俺が言わせたのに。そういう謝罪はいらないんだよ。

 その泣き言を聞こえないふりして、怪我している足首にテーピングを丁寧に巻く。
 今のこいつに中途半端な慰めるような言葉をかけたら、なんとなく泣かせる気がした。だから、余計なことを言わないように、言葉を飲み込んだ。

 応急処置を終えた俺は、立ち上がって俯いている雨宮から帽子を奪った。
 雨宮は目を見開いて、呆けた顔でこっちを見上げた。

「なあ、雨宮。別に俺が部活引退しても、俺と野球はできるぞ。歳とか関係ねーよ」
「…え?」

 奪った帽子をかぶって、安心させるように笑いかける。動揺しているその手を引っ張ってやった。

「一緒にキャッチボールしねぇ?」