泣き虫健気エースはマネージャーの俺が好きらしい


 雨宮から本気宣言をされてから一週間経過し――少しだけ雨宮が変わった気がする。

 まず、雨宮が朝ちゃんと起きるように頑張っている。毎朝俺からモーニングコールすると寝起きの声で全く起きなかったあいつが、今は自力で起きて、俺からの電話に「おはようございます!」と元気に挨拶する余裕を見せてきた。

 次に、部活のマネージャー仕事を以前よりも手伝うようになってきた。
 元々、時間があればボール運びや野球道具や備品の整理を手伝ってくれていたが、今じゃ洗濯物全般時間があれば手伝い、地方で強豪チームや対戦チームの偵察にも付き添ってくれる。
 頼んでいないのに、そこまでしなくていいと言ったが「先輩の力になりたい」と言って聞かないのだ。

 それと、野球の練習に打ち込み方が最近すごい。元々すごかったが、スパイクやグラブの紐がダメになったり、テーピングする際に努力のマメの後や、擦り切れている指の傷が増えた。
 監督からオーバーワークに気をつけろと注意されるくらい、練習量を増やしていた。
 無茶したら体壊すぞと一応注意したが「一勝でも多く勝ちたいから」と首を振ってくるのだ。

 なんて言うか…そういう変化は嬉しい。でも――

「あんまり無理はして欲しくない……と思うのは、おかしいのかな俺」
「なんでそれを本人に言わないんだよ。矢吹」

 昼休みの教室で、俺は同じ部活仲間の江藤に後輩の変化について相談していた。
 江藤は、紙パックのコーヒー牛乳を飲み、訝しげにこちらを睨んでいた。

「俺が言ったところで『えー? 先輩は俺のこと応援しないんですか…しくしく』ってぐずられるだろ」
「ぐずるって…お前の中の雨宮、泣き虫過ぎないか? あいつそんなヤワじゃないだろ」
「わかってないなー。あいつの豆腐メンタルがどんだけ面倒くさいのか」
「なんだそのナチュラル保護者ヅラマウント」

 やれやれと肩を落とすと、江藤はガシガシと自分の頭を掻いた。

「その豆腐メンタルを今、本人が頑張って鍛えている最中なんだろ。お前こそ、じっと見守ってやれよ」
「…だから、言わないでいるじゃん」

 後輩の目覚ましい成長を、喜ぶべきなのはわかっている。
 だけど、今まで世話をしていた相手が、別に自分がいなくても大丈夫みたいな成長をされると…なんて言うか少しだけ、心がすーっと冷たくなる感じがする。

 うまく言葉に言い表せず、食べ終えた弁当箱をしまうと江藤が小馬鹿にするようなニヤけた顔をしてきた。

「えらいなー矢吹。エースくんが成長して、世話焼きしなくなるのが寂しいけど我慢して。本当にえらいえらい」

 その言葉に、ぐさっとくる。槍で体の中心を貫かれたような感覚がした。
 寂しい? 俺は…寂しいのか。

「人の成長を寂しがるって…俺、性格悪いのかな」

 ふと、窓越しに空に霞んでいる飛行機雲が目に入った。
 雲の先にいるはずの機体を探してみれば、遥か遠くに薄らとゆらめく飛行機の影があった。
 何故か、置いていかれた薄い雲の軌跡から目が離せなかった。

「まあまあ、少しずつ受け入れるのも大事だぞ。その寂しさはきっと矢吹の心を強くするのさ」

 窓を眺めていると、江藤は鼻歌まじりに答える。江藤が紙パックを潰す音が、やけに耳に残った。
 多分、江藤はそこまで真剣に取り合っていないのだろう。
 だけど、その楽観的な洞察のおかげで、俺は雨宮が成長しているのが寂しいと少し思っているのに気づけた。

 まあ、気づいたところでどうすればいいのかわかんないけどな。

「矢吹せんぱーい! お話ししに来ました」

 その時、教室の外から雨宮の声がした。顔を上げれば、ニコニコとした表情で雨宮が手を振っている。

「お邪魔しまーす。三年生の皆さん。お疲れ様でーす!」
「おう。入ってこい」

 雨宮は年上しかいない教室の中へ堂々と入って、クラスメイトたちに挨拶をしていく。

 こうして雨宮が俺のクラスに来るのは以前から日常茶飯事だった。クラスメイトたちも当然のように受け入れている。
 いつも昼休みに自分のクラスで食事を終えたら、俺のクラスまで来て予鈴が鳴るまで駄弁って自分の教室に帰る。部活以外の時間でも少しでも俺と一緒にいたいとか、言っていた気がする。

 この習慣はまだ変えるつもりはないようだ。
 いつもと変わらない習慣がまだ残っていて、少し安心してしまった。

 雨宮は俺と江藤の席まで来ると、キョロキョロと落ち着かない様子で周りを見始めた。
 いつもなら俺の隣で話をするのに、珍しい挙動をする雨宮に首を傾げてしまう。

「先輩…今日は、お願いがあるんですけど」
「なんだよ?」
「その…足、疲れちゃったんで。椅子に座りたいです」

 言い淀みながら、雨宮は耳を赤くして頼み事を言ってくる。

「別にいいけど…椅子、借りてこようか?」
「そうじゃなくて。先輩の椅子に座って、先輩の充電をしたいんです」
「……なんて??」

 何を言っているのか文脈の意味がわからん。
 俺の椅子に座った上で俺を充電したいってどういう意味だ?

 雨宮の言うことが理解できず、腕を組んで考え込んでいると江藤が手をポンっと叩いた。

「あー…矢吹を膝の上に乗せるスキンシップしたいってこと?」

 江藤の言葉に、雨宮が小さく頷いた。
 つまり、雨宮は俺と仲の良い友達同士がやるあのスキンシップをしたい…らしい。

「それ、逆に足疲れない? 膝に俺の体重かかるじゃん」
「つ、疲れないです! 先輩イオンを浴びれば!」
「流石の俺でもマイナスイオンの成り変わりにはなれねーよ」
「先輩は存在がマイナスイオンだから大丈夫ですって!」
「…言ってること全然意味不明だけど。そうなの?」
「は、はい。それに…やってくれたら、俺の、試合のモチベももっと上がりますよ…絶対に」

 言葉尻を小さくしながら、雨宮の顔がだんだん赤くなっていく。
 この前の「あーん」は余裕そうに要求してきたのに、なんでそのスキンシップには羞恥心があるのか不思議だ。

「…まあ、そんなんで試合のモチベが上がるなら、いいけど」
「いいんですか!?」
「なんで驚くんだよ」
「いや、なんで驚かないと思ったんだよ矢吹」

 あの時の「あーん」とは違って、恋人の真似事じゃない。仲良しスキンシップだから、まあ問題ないだろう。
 早速、立ち上がって雨宮に椅子を指差す。雨宮は、深呼吸してゆっくり近づいた。

「お、お邪魔しまー…わあっ!?」

 雨宮が椅子に座った瞬間、お望み通りに膝の上に座った。
 途端に、雨宮の膝が跳ね上がり、椅子から落ちかけた。咄嗟に背後の雨宮の方へ寄りかかり、踏ん張る。

「危ないな…! 落ちるところだったぞ」
「す、スミマセン」
「しっかりしろよ…もう」

 振り向けば、何故か雨宮は両手を上げていた。痴漢間違いを恐れるサラリーマンかと、ため息をついてその腕を掴んで、自分の腹のあたりに回させる。
 乗り心地を確かめながら、座る位置を調整し、雨宮に寄りかかった。
 案外、良い感じに収まって悪くなかった。

「もう落とそうとするなよ」
「……はぃぃ」

 注意してやれば、雨宮は、か細い声で返答した。
 おずおずとゆっくりと、回した腕に力が込められる。

 しかし、本当にこんなスキンシップでモチベが上がるのだろうか。雨宮のモチベが上がる基準がよくわからない。
 ポケットのスマホを取り出して、最新の野球ニュースが更新されていないか確認していると、江藤が白けた目でこっちをみていた。

「雨宮、かわいそうー」
「なんでだよ」

 望み通りのスキンシップしたのになんで非難されるんだ。
 その時、雨宮が大きく息を吐いて、肩を引き寄せられた。
 すんっと、こめかみあたりから雨宮の息が当たる。何度も確かめられるように、匂いを嗅がれている。
 教室にいる一部のクラスメイトたちが何故かギョッとしていた。

「どうした? なんか匂う?」
「…はい」

 唐突な行動に、自分が臭いのか気になって、手首を嗅いでみた。全くの無臭で、よくわからなかった。

「先輩…お日様みたいな、いい匂いしますね。なんのシャンプー使ってます?」

 とても緊張したような、ガタガタと震えた声が耳元で聞こえた。唐突にシャンプーの種類を聞かれ、記憶を巡らせる。

「ん? メヌエルトだっけな?」
「あれですか。いいなぁ…俺、髪質合わなくて全然それ使えないんです」
「あー…確かに、お前割と硬そうな髪質だもんな」

 手を上に持っていき、勘で雨宮の頭あたりと思われる場所を手探りで触る。
 手のひら全体に短髪で少し硬い髪の感触がした。わしゃわしゃとかき乱してやれば、後ろから「うわぁ」と雨宮の情けない声がする。
 あまりにも情けない声だったから、思わず笑ってしまった。

「あははは! すげぇ声」
「……へえ。そんなに余裕なんだ」

 苛立ったような声色がして、内心怒らせたかとドキッとした。
 その時、雨宮の大きな手が、俺の髪を触り始めた。

 自分の指を(くし)のようにすいて、俺の髪を何度も丁寧に撫でていく。少しくすぐったい感覚を我慢していると――触れられた俺の髪から、リップ音がした。
 江藤がコーヒー牛乳を床に落とし、教室の女子たちから、何故か悲鳴が上がった。

 今――髪に、キスされた気がした。

 え? なんで?

「口、当たったぞ?」
「…当てたんですけど」
「……なんで?」

 反射的に、疑問を言えば、雨宮は深いため息をついた。
 顔を見たくて、立ちあがろうとするが、雨宮は俺を抱きしめて上半身を前へ倒してくる。

「…マジか、この人。ここで『なんで?』って言うの?」
「おい体重かけんな。重いから」
「ここまで気を許してくれるのに、これでも気づかないとか。鈍感通り越してひどいですよ先輩!」

 強制的に体勢が前のめりになり、立ち上がれない。雨宮の息が首に当たって、くすぐったい。鼻を啜るような音も聞こえてくる。

「泣いてる?」
「泣いてませんけど…!」

 顔は見えないけど多分、泣いてそうだ。
 あと、何故か責められているのが解せない。よくわからないが、俺のせいで雨宮がひどく傷ついているのがわかった。

 苦しい体勢のままだが、俺は雨宮の腰あたりに手をポンポンと叩いて慰めた。

「ごめんってば。よしよーし。落ち着けって」
「子ども扱いやめてくださいよ…! もうやだ…今、俺…勇気出して、すっごく頑張ったのに…! なんで伝わらないのかな…!」

 獣のような唸り声を上げて、雨宮が激しく膝を揺らし出した。
 突然、全身が震えて驚いてしまう。背中に腕を回してなんとか落ちないように堪えた。

「揺らすなよ! 危ないだろ」
「すんませんね!! でも鈍い先輩が悪いんです!」
「いやわかってるって。俺、いい匂いしてたんだろ? ありがとな。おかげでちょっと体臭に自信ついたわ」
「そこじゃない…! 伝わって欲しいところ、そこじゃない…!」

 ちょっと成長しても、メンタルがポッキリ折れやすいのは変わらないようだ。
 ここ最近、俺を支えようとしてくれる雨宮には悪いけど、そうやって子どもっぽいところがあって安心した。

 ああ、ダメだな俺。
 そういう一人じゃ自立できなさそうなところ。抜けているところが、雨宮の中にまだあって正直嬉しく思っている。

 でも、今の雨宮は俺に好かれようと、無理して背伸びして、自分を変えようとしている。
 そうやって、苦手なことを克服しようとしていたり、慣れないスキンシップもして、俺のために必死になって――

――雨宮の中の、俺ってそんなに大きい存在なんだ。

 雨宮に見えないことをいいことに、俺はジリジリと迫り上がる優越感に、うっすらと笑みを浮かべた。

 その時、紙パックを拾った江藤が、鬱陶しそうに俺たちに声をかけた。

「なあ、いちゃつくなら放課後にしてくんねーかな? 死傷者出てるから。主に女子」
「え?」

 周りを見れば、顔を真っ赤に床に膝をついたり、机に突っ伏したり、胸を押さえつけて天井を見上げるクラスメイトの女子たちがたくさんいた。
 その後、しばらく女子たちの間で俺と雨宮の話で持ちきりになり、かなり盛り上がったらしい。
 詳しいことはわからないが、江藤曰く「腐女子に餌を与えすぎ、やば」と憐れまれた。