お弁当を食べるために裏庭にやってきたはいいけれど、あまりに暑い。
 昨日はわりと涼しかったのに、今日はまた気温が上がっている気がする。これじゃあせっかく気合いを入れて作ったお弁当も食べる気がなくなってしまう。

「秋はどこへ行った?」

 手にしているランチバックに視線を落としてため息をついた。食欲よりも水分を欲してしまう。立ち止まって、手に持っていたスポーツドリンクを開けると一口飲んだ。

「もう十月も終わるっていうのに暑すぎるよ。まったく」

 どこにも当たる場所がないから、誰もいない裏庭に向かってつぶやいた。そして、引き返そうと踵を上げた瞬間、木陰から伸びる長い足が視界に入った。

「……え、人?」

 ここからでは白に黒のラインが入ったスニーカーしか見えないけれど、ズボンは僕と同じ柄の制服。たぶん生徒だ。驚いたのと同時に、駆け出していた。

「だっ、大丈夫ですか!?」

 思わず震えて上擦ってしまう声。だけど、そんなの気にしている場合じゃない。
 草を掻き分けて顔を覗き込もうとするけど、うつ伏せに倒れていて誰なのか全然分からない。声をかけたのに、ぴくりとも動かないから、もしかして……と、全身の血の気が引いていくのが自分でもわかった。

「しっ、死なないでくださーい!! 戻ってきてくださいー!!」

 背中をこれでもかと揺さぶると、ようやく「……やめろ、バカ」と消えそうな小さい声がして、あわてて手を離した。
 うつ伏せだった体が、ゆっくりと動き出す。そして、むっくりと起き上がった。目の前の人は、見上げるくらいの身長にあぐらをかいて座ると、僕のことを見下ろして睨みつけてくる。線は細いのに、綺麗な顔立ちと鋭い目つきに怯えつつも、スポーツドリンクのペットボトルを突き出した。

「だ、大丈夫、ですか? これ、よかったら」
「はぁ? 要らねぇよ。飲みかけだろそれ」

 圧がすごくて、発せられた言葉はかなり強い。だけど、怯んでなんかいられない。だって、この人、顔面がヤバいくらいに蒼白だ。血の気がなさすぎる。なんとなく、視線も虚ろでさっきから全然目が合わない。
 もしかして、この暑さで熱中症にでもなりかけている?
 けど、それなら顔は赤くなるはずか?
 ここが日陰だからまだマシなだけなのか? 
 考えていても埒が空かないから、ペットボトルの蓋を開けると、思い切って一歩を踏み出した。

「とにかく、黙ってこれ飲んでください!」

 立ち上がれば、今度は俺の方が彼を見下ろす。そして、無理やり口の中にスポーツドリンクを流し込んだ。

「んぐっ!?」

 驚いた彼は、ペットボトルを僕の手から奪い取ってゲホゲホと咳き込んだ。

「おまっ!! バカ、か! 溺れる!」
「……あ、すみません」
「ったく」

 怒ったかと思えば、初めて目が合った。だけど、俺のことを探るような視線をしている。
 そして、残りのスポドリがみるみるうちになくなって空になる。一気にのみ干して、ほっとため息をついているから、ようやく俺も安心した。
 木陰だからか、風が少しだけぬるく感じる。冷たいまではいかないけれど、汗ばんだ体にちょうどいい。
 さわさわと揺れる葉っぱの音に耳を澄ませていると、ぐぐぐうぅ……とお腹のなる音が聞こえてきた。

「もしかして、お腹も空いています?」

 だからそんなに青白い顔をしているんじゃないかと思って、手に持っていたランチバックの中からお弁当を取り出した。

「これ、俺が作ったんです。口に合うかは分からないけど、お腹が空いているなら美味しく感じるかもしれないので、良かったら」

 控えめに、めちゃくちゃ美味くはないけれど全然自信がないわけでもないふうに言って、笑顔を向ける。

「要らねぇ」

 一言強く言うのと同時に、お腹に力が入ったのか、また先ほどよりも大きくて長いお腹の音が聞こえた。俺は呆れて真顔になってしまう。

「お腹なりすぎですって。遠慮しないでください。変なものは入れてないので。俺がいると食べづらいなら、ここに置いていきますね」

 空になったペットボトルと交換するように、彼のそばにお弁当を置いた。そして、そのまま裏庭を立ち去ろうとすると、腕を掴まれた。
 ふらついているのに、掴んできた手は熱くて力強い。驚いて、俺は振り返った。

「わりぃ……」

 真っ直ぐに見つめてくるから、しっかり目が合う。先ほどの強気な視線とは変わって、困ったように眉を下げるから、俺は笑う。

「いいえ。ちゃんと食べなきゃダメですよ。じゃあ、また」

 力が緩んで解けた腕。踵を返して、俺は校舎内に戻った。


 午後の授業はなんだか上の空で手につかなかった。あの人、ちゃんと弁当を食べたかな。最近ようやくちゃんとした弁当を作れるようになってきたばかりだったから、美味しかったかどうか不安が残る。

千世(ちせ)っ、部活行こう」

 窓の外の流れる雲を目で追いかけていた俺の前に、由子が立ちはだかる。ぼぅとしていた俺の顔の前で、手のひらを振っているから、ハッとしてとっくに授業が終わっていたことに気が付いた。

「なぁに? 悩みでもあるの?」
「いや、別に」
「あたしにかくしごとなんてやめてよ。小さい頃からずっと一緒なんだから、解決策くらいは思いつくかもよ?」
「ありがとう、でも、大丈夫」

 同じクラスの由子(ゆこ)は幼なじみだ。物心つく頃からずっと一緒で、兄弟みたいに育った。由子がお姉ちゃんで俺が弟ってとこかな。
 由子と並んで歩く。教室棟と向かい合って反対側にあるのが教科棟。渡り廊下を通って、一番奥に位置する調理室へ向かう。入学早々に由子に誘われて入った、料理研究部の活動場所だ。

『千世! 一緒にリョウケンに入ろう!』
『……リョウケン? 何その強そうな名前』
『料理研究部。略して料研!』
『ああ、そう言うことね』
『マサくん料理上手な子が好きなんだって! あたし頑張らなきゃだから、千世も頑張ろう! あ、二人分の入部届もう出しといたから。安心して!』

 由子には中学から付き合い始めた彼氏がいる。一つ年上のマサくんと言うらしい。話はしょっちゅう聞かされるけれど、マサくんがどんな人なのかはよく分からない。と、言うか、由子は色々と強引すぎるところがある。
 俺はまだ部活をやるとも、入部するとも言っていないのに、すでに入部届は提出済みらしい。小さい頃からこんな感じだから、驚きもしないけれど。今は料研でまぁまぁ楽しく過ごせているし、良しとしている。

「千世、料理の腕前上がったよねー」
「え、ほんとですか?」
「うんうん。昨日のピーマンの肉詰めの味付け完璧だったし。めっちゃ美味しかった」

 調理室に入ってすぐに、部長の星野さんに褒められる。料理研究部なんて女子の集まりだろうと思っていたのに、来てみれば部長は星野(ほしの)さんと言う容姿端麗な整った顔立ちにスラリとした手足、いつも笑顔で部員たちからの信頼も厚い、男子生徒だった。この人目当てで入部する女子もいるんじゃないかとは思ったりしたけど、今のところみんな真面目に料理と向き合っているのは、優しいけれど厳しさもある部長だからかもしれない。

「星野部長のおかげですよ。いつも的確なアドバイスくれるので。ありがとうございます」
「千世ー! お前はいつ見てもかわいいやつだなーっ」
「千世はかわいいもんね。料研みんなのアイドルだよ」
「ねーっ!」

 周りで見ていた部員たちが揃いに揃って笑顔で首を傾ける。みんな優しいし和やかな雰囲気がいい。料研に入って良かったと、俺はこうしてしょっちゅう思っているわけだ。
 しかし、まだ料理の腕前はめちゃくちゃ良いわけじゃない。根っからの不器用さでやらかすことは多々あった。けど、出来ない子ほど可愛いと言うのは本当なのかもしれない。ちゃんと出来ている周りの部員よりも、かわいがられている自覚があるから、少し申し訳ない気もしている。

「あれ? 今日千世弁当箱は?」

 俺が手ぶらで来たことを不思議に思ったのか、部長が聞いてくる。いつも作った料理は弁当箱に詰めて持ち帰ることになっているから。俺の弁当箱はあの人のところへ置いてきてしまったから、なんと言えば良いのか。
 昼休みにあったことを説明した方が良いのだろうか? と悩んでいると、顧問のノリコ先生が室内に入ってきた。

佐貝(さかい)くんいるー?」
「あ、はい」

 すぐに振り返って手を上げると、ノリコ先生の手には見慣れたランチバッグがあることに気が付いた。

「これ、お返しされたわ」
「え! お返し……」

 もしかして、食べずにそのまま戻されたんじゃないかと不安になって、そっと先生から受け取る。

「あ、ちゃんと洗ったからって言っていたわよ。あの羽山くんが照れていたわ。やるじゃん、佐貝くん」
「……え、え!?」

 小声で囁く笑顔の先生に、俺は手にしたランチバッグのチャックを開けて見た。軽くなった弁当箱を開けてみると、中身は綺麗になくなっていてきちんと洗われていた。
 あの人が、食べて洗って返してくれたってことだよな。すぐに良かったと、思わず口元が緩んでしまう。

「じゃあみんな、今日も頑張ってねー。先生は自分のお仕事をさせていただきます」

 ペコリと頭を下げて、先生はいつもの定位置である実習室の窓側端っこでパソコンを開いた。

「今日は何作ります? 星野部長」
「お? やる気あるなぁ、千世」

 料研はほとんど部長が仕切って成り立っている。毎日ひとつずつ覚えることが増えていく感覚が楽しくて、だからやめられない。

 今日の活動を終えた俺は、みんなが帰ってしまってもまだパソコンと睨めっこしているノリコ先生のところへ近づいて行った。

「先生、あの。先生って何年生の担任でしたっけ?」

 きっとあの人、俺が誰なのか分からないから担任の先生に弁当箱を返したのかもしれない。

「ああ、もしかして羽山(はやま)くんのこと?」
「……羽山」

 そういえば、さっきもそんな名前を言っていたような。

「あたしは二年生の担任よ。羽山冬二(とうじ)くんは二年生で、佐貝くんの先輩」

 羽山冬二、先輩かぁ。

「あの子ちょっと変わっているのよ」
「……え?」
「偏食って言うか、全然ご飯食べなくって。いつも青白い顔しているし元気ないし、先生も心配で気にしてはいるんだけどね。なかなか踏み込んでまではいけなくて。佐貝くんのお弁当箱返してくれた時の彼、なんだか嬉しそうだった。だから、ありがとう」

 手を止めて、先生は微笑む。

「羽山先輩、裏庭で倒れていたんですよ」
「ええっ!」
「それで、あわてて駆け寄ってスポドリ飲ませたんです。そしたら、今度はお腹めっちゃ鳴るから、持っていた弁当を無理やり置いてきたんです……食べてくれたなら良かったなと思って」

 安心する。また倒れてしまっていたらと、少し怖い考えも浮かんでいたから。

「佐貝くん救世主じゃん。ヒーローだ!」
「え!? んなわけないです」
「いや、あの羽山くんに駆け寄る時点で、もうヒーローよ。みーんな彼のこと怖いって言っていて近づきもしないんだもの」
「え、そうなんですか?」
「そうそう」

 誰が倒れているかなんて分からなかったし、確かに、鋭く睨まれた時は怯んでしまったけど、だけどあの時はそれどころじゃなかったから。

「あんまり個人情報教えたくないんだけど、彼一人暮らしだから、ちゃんと栄養取れてないんじゃないかなって心配しているのよ。だから、料研で作ったお弁当なら部活の味見係とかなんとか言ってさ、食べてくれたらいいのにね」

 入り口ドアから、「ノリコ先生」と声がかかって、先生はじゃあねと手を振ると行ってしまった。
 先輩、一人暮らしなんだ。だからちゃんとご飯食べられてないのか。
 空になった弁当箱を見て、俺はよしっと心を決める。
 今まで、ただ単に料理を覚えていただけで、それを活かせる場所がなかった。夕飯は母がきちんと用意してくれていたし、学校のお弁当も頼ってしまっていた。
 だから、明日からお弁当を作ろう。
 自分の分と羽山先輩の分。上手くできるかは分からないけど。先輩にまた倒れてほしくないから。


 朝、いつもよりも早い目覚ましが鳴る。
ちゃんと起きられるようにと、ベッドサイドじゃなく勉強机の上にスマホを置いて寝たから、起き上がらないとこのうるさいベルは止まらない。眠たい瞼をこじ開けて、起き上がった。

「うぅ、やるかぁ!」

 起きてしまえばこっちのものだ。
 顔を洗って歯を磨き、ある程度身だしなみを整えたら、キッチンに向かった。
 エプロンを装着して、冷蔵庫から卵を取り出す。お弁当と言えば、たまご焼きだ。コンコンッとリズム良くシンクの角でたまごにヒビを入れて、ボウルに割り入れた。菜箸でカッカッカッと切るように黄身と白身を混ぜる。
 羽山先輩はしょっぱいのと甘いのどっちが好みだろうか?
 まだ何も知らないから、味付けもおそるおそるだ。今日このお弁当を渡すことができたら、聞いてみよう。
 昨日、料研で作って持ち帰ってきたハンバーグをサニーレタスで彩りながら詰めた。おかずの種類はまだまだ少ないけれど、この詰める工程が好きだ。隙間を埋めていくための小さなおかずを料研でも今まで色々習ってきた。
 ハムを半分に切って切り込みを入れたお花。枝豆を楊枝に刺す枝豆串。ミニトマト。かわいらしい見た目のお弁当が完成すると、顔を上げて時計を見た。

「あれ、ちょっと早起きすぎたかも」

 いつも目が覚めて起きて来る時間。思ったより手際良く出来たことに驚く。これなら続けられるかも。お弁当が完成したことが嬉しくて、安堵のため息が出る。

「あれ? 千世おはよう。早いね」
「うん。今日からお弁当自分でつくって行くことにしたから」
「えー! すごい。料研のおかげ?」
「そうそう。作るの楽しくなってさ」
「いいねぇ、今度ママとパパにも作ってよ」
「うん。いいよ」
「やったー」

 いつものお弁当作りをしなくてもよくなったからか、母はのんびりと伸びをして窓から外の朝日を浴びている。

「早起きってお得だね」

 羽山先輩の分までお弁当が出来あがっちゃうんだから。

「もう少し寒くなってきたら少し辛いけどね〜、ん? 二人分?」

 キッチンに入ってきた母が、スマホでお弁当の写真を撮っていた俺の横で立ち止まった。

「そう。お弁当食べて欲しい人がいるから」
「へぇ〜」

 今日の仕上がりを記録しておいて、先輩に何が美味しかったか聞いてみよう。「今日からお弁当作り」と題して、SNSにあげる。

「朝ごはんにしよ」
「うん」

 準備を終えた父もリビングに来ると、いつも通りにみんなで朝ごはんを食べた。ランチバッグに二人分のお弁当を入れて、早く羽山先輩に食べて欲しいなと思いながら俺は家を出た。


 お昼休みになると、俺は由子に呼ばれたのも断って裏庭に急ぐ。
 いつもあそこにいるのかは分からないけれど、学校の裏庭って意外と湿っぽくてみんな行きたがらない場所だ。お昼を食べるには、校舎前の芝生広場が断然人気になっている。ただ、毎年猛暑で外で食べること自体があまりなくなっていたから、外で生徒を見かけることがほぼなかった。
 この前と同じ場所を覗き込むように確かめると、白に黒のラインが入ったスニーカーが片方見えた。
 羽山先輩だ!
 一気に胸が高鳴っていく。だけど、今更になって緊張する。作ったお弁当を無駄にしないためにも、勇気を出して声をかけなければ。

「羽山先輩!」

 思い切って草をかき分けて入り込むと、気持ち良さげに寝ている羽山先輩の姿があった。今日は倒れていないからホッとする。そっと近づいて行っても、起きる気配がない。
 閉じた瞼、まつ毛がすごく長くて、肌はやっぱり透き通るくらいに色白だ。さらりと流れる前髪は染めてはいないと思うけれど、色素が薄くて、木漏れ日をうけて茶色く見えた。

「キレイだな……」

 つい呟くと、羽山先輩の目がぱっちりと開いてこちらを向いた。なぜか無言のまま白い肌が赤みを帯びていくのが気になりつつも、ハッとした。

「あ、起きた! 羽山先輩! これ、お弁当ですっ」

 慌てて、俺は手に持っていたランチバッグを差し出した。
 目の前の羽山先輩は怪訝な表情になる。

「いらねぇ」

 すぐに目を閉じてしまうから、俺は負けずに弁当箱を一つ取り出して突きつける。

「ちゃんと食べてください。また倒れたりしてたら俺困るんで」

 無理やりお弁当を先輩の横に置いた。

「なんでお前が困るんだよ」
「え? うーん、困るから困るんですよ」
「……んだよ、それ」
「とりあえず、置いておきますね。明日も持ってきます。嫌いなものあったら教えてください。では!」

 たぶんこれ以上の長居は危険だ。そう判断して、俺は速やかに羽山先輩の前から立ち去った。
 本当は一緒に食べて話ができたら最高だったけど、嫌われてしまったら元も子もない。
 まずは、羽山先輩の健康が第一だ。

 それから、俺の攻防戦は始まった。
 初めは弁当を出せば、秒で「いらねぇ」と返事がきた。そのうち、俺の顔を見た瞬間に「いらねぇ」と飛んでくるように。だけど、俺は怯まない。だって、そっと置いていけば、明らかに先輩は弁当をちゃんと食べてくれているから。
 その甲斐あってか、初めて見た時よりも確実に羽山先輩の顔色は良くなっているし、ちゃんとノリコ先生を通して弁当箱を返してくれるからだ。もちろん中身は空っぽで、きちんと洗ってあるし。

「先輩! 今日は成功です! いや、ちょっと失敗かな。でも味は最高なんです! 美味かったら明日のおかずにしますから、これ、味見してみてくださいー!」

 しつこいくらいに、昼休みと放課後に俺は一人で人気のない場所にいる羽山先輩を見つけては、駆け寄って話しかける。明らかに迷惑そうな目を向けられても、そんなの無視だ。

「一口でいいので! 騙されたと思って!」
「はぁ? 俺に失敗作なんか食わせるんじゃねぇよ」

 良かれと思って言った言葉が裏目に出る。

「ひぃ! いや、見た目がアレなだけで、味は最高……なはずです!」

 怒りのスイッチを押しつつも、俺は負けずに竹串に刺して持ってきた唐揚げを先輩の目の前に突き出した。
 形は悪くても、揚げたてでサクサクなのは、今だけだ。お弁当にしてしまったら、しっとりしてそれはそれで美味しいのだけれど、揚げ物は揚げたてこそ美味しいのだ。
 先輩にそれをわかってもらいたくて、調理室から飛んできたんだから食べて欲しい。
 まだ湯気の立っている唐揚げ。ふんわりと、生姜とニンニクの香りが食欲を湧き上がらせる。唐揚げを目の前に出された羽山先輩は、観念したようにため息をつく。

「しょうがねぇな」

 寄りかかっていた体を起こして、俺の手を掴むと羽山先輩の顔が近づく。そして、パクリと唐揚げを口の中に閉じ込めた。ふわりと羽山先輩の前髪が俺の手の甲を掠めて、すぐ近くで上がった顔。不意を突かれて、心臓が爆発したんじゃないかと思うほどに音を立てていく。
 先輩のキレイな瞳が、ゆっくりと見開いていった。

「……っ、うま」

 ザクザクになる衣をつけた唐揚げが、羽山先輩の口元から音を立てている。
 反応が嬉しくて、羽山先輩との距離が近くて、どうしようもなく気持ちが舞い上がってきてしまう。

「美味いよ」

 そう言って、俺の頭をポンッと撫でてくれた。
 呆然としてしまっていると、すぐに離れて歩いて行ってしまった羽山先輩。
 ずっと聞きたかった先輩からの『美味いよ』の言葉。胸に響きすぎて、俺はしばらく立ち尽くすしかなかった。



 調理室に向かっていると、放心状態の俺にノリコ先生が近づいて来た。

「あら、どうだったー?」

 羽山先輩に唐揚げを届けて来ると告げたのは、ノリコ先生にだけだった。

「佐貝くんのおかげでね、最近私も羽山くんと話す機会が少しできたのよ。お弁当、感謝しているみたいよ。ちゃんと本人に伝えなさいってことは言っておいたんだけど……」
「ほ、本当ですか!?」

 さっきの羽山先輩の言葉と表情が、嬉しすぎて忘れられない。羽山先輩が俺の行動に感謝してくれているなんて、奇跡じゃないか?
 内心、ウザいだけじゃないかなと思っていたから。続けてきて、マジで良かった。

「先生! 俺これからも頑張りますっ!」
「応援してるわ。じゃあ、またね」

 ノリコ先生と別れると、鼻歌交じりにステップを踏みながら調理室を目指す。
 お弁当のレパートリーも少し定番になりつつあるから、もう少し凝ったおかずはないか、星野部長に相談してみようかな。
 気分が舞い上がってしまう俺の後ろから、由子が声をかけてきた。

「千世! 最近ご機嫌じゃない?」
「え? ふふん、まぁねー」
「なになにっ! まさか彼女でも出来た!?」
「え!?」
「ほら、最近千世お弁当の写真SNSに毎日載せてるじゃん?」
「うん」
「あれ、一人分しか写っていないように見えるけど、実は毎回二人分あるよね? 微妙に写り込んでいるのよ。あたし見逃してないからね?」
「……あー」

 バレていたか。誰にも言うつもりはなかったんだけど。匂わせみたいな写真を載せてしまっていた俺も悪いんだな。今は自分が作ったお弁当の記録しか載せられないでいる現状だ。でも、いつか羽山先輩と並んでお弁当を食べれる日がくることを夢見て、頑張るんだ。まぁ、この先夢が叶うことなんてあるのかなと全く見通しは立たないのだけど。
 だから、羽山先輩にお弁当を作っていることはまだ由子にも内緒だ。

「まぁ、完全なる俺の片想いだよ」
「え! そうなの? やだ、千世のかわいさに気が付かないなんておかしいよ! なんかあったら言いなー、協力する!」
「はは。ありがと、由子」

 よしよしと慰められて、今日もまた一日が終わる。


 先輩の好みがいまだにちゃんと分からないんだよな。そばで弁当を食べるところを見てみたいなぁ。
 家のキッチンに立って弁当の仕込みをしながら考える。最近は寝ても覚めても羽山先輩のことばかり考えてしまっている。
 とりあえず、唐揚げは好きだと言うことがわかって嬉しい。
 星野部長に凝ったおかずの相談をしたら、照り焼きチキンはどうかなと提案されて、さっそく作ってみることにした。
 味を染み込ませるために、夜のうちに仕上げておく。
 フライパンでモモ肉を皮目からパリッと焼いて、じっくり焼き上げる。その間に、照り焼き味の調味料を合わせておく。
 蒸し焼きにしていた蓋を外し、モモ肉をひっくり返すときつね色にカリッと皮が焼けていて香ばしい香りが舞い上がった。
 一度まな板に取り上げ、お弁当に入れるように一口大に切り分けたら、もう一度フライパンに戻して合わせ調味料を回しかける。そして、中火でじっくりと絡めながら焼いていく。ここで焦げないようにするのがポイントだ。
 すぐにでも食べたくなるのを堪えて、俺はてりってりに焼き上がったチキンをお皿に取り上げた。

「明日までに味がもっと染み込みますように」

 照り焼きチキンの前で手を合わせて美味しくなるように祈った。


 昨日仕込んだ照り焼きチキンを詰め込んだお弁当を持って、俺は学校を目指す。いつものように教室に入ると、すぐに由子が近づいてきた。

「おはよう、千世」
「おう、おはよう」

 周りを気にしながら、由子は空いていた前の席に座ると、こちらに振り返って内緒話をするみたいに小声で話し出した。

「ねぇ、千世さ、最近二年の羽山冬二先輩と仲良いってほんと?」
「え!?」

 羽山先輩の名前に、思わずすぐに反応してしまう。驚いて目を見開く由子は、悩むように顎に手を置いてから眉を下げてこちらを向いた。

「大丈夫なの? 脅されたりとかしてない?」
「……え、おど?」

 なんとなく目元も潤んでいるような気もする。由子が明らかに俺のことを心配している表情だ。

「マサくんから聞いたの。羽山先輩のこと。なんか色々ヤバそうな人だって。今までずっと一人でいたのに、最近よく誰かとお昼休みとか放課後話してるらしいって噂になってるって。マサくんがね、それが千世なんじゃないかって言うの。千世かわいいし優しいから、いいように使われてるんじゃないかって……」
「え、なにそれ」

 どんなデマだよ。
 羽山先輩が俺をいいように使ってる? まさか。それに、俺が羽山先輩に会いたくて会いに行ってるんだ。迷惑してるのはむしろ先輩の方。なのに、そんな噂が立つのはおかしい。

「なにかあってからじゃ遅いからさ、あたしでもマサくんでもいいから頼りにして欲しいな、千世」

 由子は本当に心配してくれている。それはすごく感じる。だから、簡単に「大丈夫だよ」では済ませられないかもしれない。
 俺のせいで、先輩の悪い噂が広がってしまうのだって嫌だ。

「なぁ、由子。お昼休みに俺に付き合ってくれない?」
「え……う、うん」

 真剣な表情を向けて由子を見る。戸惑うように瞳が揺れ動いてから、由子は頷いてくれた。


 お昼休みになると、俺はランチバッグを持って由子と一緒に裏庭に向かった。
 内緒にしておくつもりだったけど、由子になら俺が羽山先輩のためにお弁当を作って持って行っているってことを、知られてもいい。幼なじみだから、きっと俺が羽山先輩のためになりたいって気持ちを、わかってくれるはずだ。

「……もしかして、噂マジだったりするの?」

 人気のない裏庭に踏み込んだあたりで、由子が急に不安そうに立ち止まった。

「大丈夫だよ。羽山先輩別に怖くないし」
「……嘘。だって誰も近寄らないんだよ?」
「そもそも、どんな噂があるんだよ?」

 俺はなにも聞いたことなんてない。

「身長のわりに痩せすぎだし、たまにフラフラしてて、噂では薬やってるとか。ストイックすぎて自分にも他人にも厳しいとか。いつもイラついているから絶対気に触るようなことはするなとか……?」
「……あー、まぁ、たしかに」

 身長のわりにご飯食べないから痩せ型だし、めちゃくちゃ不健康に見えるのは分かる。薬はやってないけど、一人暮らしってそもそもストイックそう。そして、たぶん腹が減っているからいつもイライラして見えているんじゃないかなと、妙にその噂に納得できてしまって笑えてくる。

「なに、笑ってんの?」

 不思議に思ったのか、由子が怪訝な顔で俺を見るから、にやけてしまったことに気がついた。

「あ、いや。噂がほぼあってるかなと」
「え!? ほら! ヤバい人じゃん!」

 俺が笑いながら答えると、由子は慌て出す。

「いやいや、全然ヤバくないってば」
「なにがよ、噂が合ってるってヤバいでしょ!」
「ヤバいとしたら、一つだけでしょ? 絶対に有り得ないのは、先輩が薬をやってるってこと。それはたぶん誰かが話盛るために言い出した嘘だろ」
「……ひっ!?」

 由子を落ち着かせるためにゆっくり言葉を紡いでいると、由子の視線が俺から逸れて後ろに流れた。
 しゃっくりみたいな声を出して驚く表情をする由子。不思議に思って振り向くと、すぐ後ろに羽山先輩が立っていた。

「あ、羽山先輩っ!」

 嬉しくなって、俺はすぐにランチバックから弁当箱を取り出した。

「はい! 今日はめちゃくちゃ味の染みた照り焼きチキン弁当でーす! ちなみにめちゃくちゃ自信作!」

 ハイテンション気味に先輩の胸元へお弁当を押し付けると、怪訝な表情のままだけど受け取ってくれた。

「由子、羽山先輩俺の弁当食べてくれるんだもん。良い人だよ?」

 顔面蒼白のまま動かなくなってしまっている由子。しかし、次の瞬間油の切れたブリキ人形みたいに堅い動きで回れ右をした。

「あ、ああのっ! 千世良い子なんで、もうこれ以上近づかないでくださいー!!」

 いきなり、由子が俺の手を掴んで走り出す。突然のことに驚きながら、俺は羽山先輩に手を振りつつ、由子に引かれて校舎前まで走ってきていた。

「千世、また呼び出されたんでしょ? 怖くなったからあたしを一緒に連れていったんだよね? もう行かなくて良いからね、あとはマサくんにも言っておくから……」

 はぁ、はぁと息を切らせて、由子が懸命に俺に話す。だけど、言っている意味がよく分からない。

「え? 違うよ。俺が羽山先輩に会いに行ってるんだってば」
「いいの、いいの。口止めでもされてるなら、なおさら怖かったよね」

 よしよしと肩を撫でてくれる由子は完全に俺の話を聞いていない。

「だから、脅されてなんかないってば。あのSNSの弁当は、俺が羽山先輩のために作ってるんだよ。本当は内緒にしておこうって思ってたんだけど……」
「……え? どういうこと?」

 ぽかんと口を開けて俺を見る由子は、俺の話をまったく理解していない様子だ。
 分かってくれるか不安はあるけど、由子ならと思って、俺は羽山先輩に近づいた経緯を話した。

「……空腹で倒れていた羽山先輩のために、料研で磨いた料理の腕前でお弁当を作り、今日まで献身的に支えてきたってこと!?」
「あ、いや、なんかちょっと話盛られてる気がするけど。まぁ、大体そんな感じ」
「なにそれー! 健気ぇー! 千世かわいすぎるー! もう恋する乙女じゃん」
「……恋する、乙女?」

 いや、乙女ではないが。まぁ、突っ込むのはそこじゃなくて。

「え? これって、恋なの?」

 そんな気持ちでやっていたわけじゃなかった。だけど、確かに四六時中羽山先輩のことを考えてしまっていて、先輩の反応が知りたくて、なんでもいいから先輩に近づきたいと思っていた。

「好きな人のためなら、なんでも一生懸命になれるよね。それに、好きな人のことを考えると、ここがさ、ほわーんってあったかくならない?」

 由子が自分の胸元に手を当てて、きっとマサくんのことを考えているんだろう。うっとりと愛おしそうな表情をして微笑む。
 俺も真似をして自分の胸元に手を当ててみた。
 羽山先輩のことを考える。頭の中で先輩が「美味い」と言ってくれるのを想像した瞬間に、じんわり、ほわーんっと胸があたたかくなる。

「なった!! ほわーんって、羽山先輩のこと考えたらめちゃくちゃじんわりほわーんってなったー!」
「ふふっ。でしょ? なーんだぁ。千世ってば恋してたのかぁ。しかもちょっと危なそうな人に」
「だから、危なくないってば」
「……まぁ、千世が好きになった人なら、噂の方が嘘ってことになるよね。だって、千世あたしに嘘つかないし」

 いつもの由子の笑顔。
 幼なじみだからってここまで信用されていていいのかなと思ったりもするけど、ただ単純に嬉しい。それに、羽山先輩に対する気持ちに気がつかせてくれたことにも、感謝だ。

「危ない橋だけは渡らないでよー? 何かあったら言いな。陰から見守っているからねっ」
「……うん。ありがとう! 由子」

 泣いてしまうのをグッと堪えて、これからも羽山先輩のためにお弁当作りをがんばろうと決めた。


 羽山先輩、一人暮らしって言ってたよな。夕飯とか休みの日はどうしているんだろう。来週からのお弁当用の食材を買うために、俺は近所のスーパーにやってきていた。カゴを持ち、野菜コーナーを眺めながら、ブロッコリーを一つ手に取る。
 先輩が嫌じゃなきゃ、家まで押しかけて行って夕飯も俺が作るのになぁ。
 弁当だと出来立てじゃないのが少し不満だ。出来れば調理室に招いていつでも出来立てを食べさせてあげたいけど、たぶん先輩はあの裏庭からは動かないだろうからな。
 先輩の家、ノリコ先生教えてくれないかなぁ。
 レジを通って、買ったものを袋に詰めるとスーパーから出た。

「……あれ?」

 遠目に見えた後ろ姿。なんとなく羽山先輩のような気がして、目を凝らしてよーく見てみる。学校の時と違って制服姿じゃないけど、細くて背が高くて、歩き方が少しフラフラしているのは、やっぱり羽山先輩のような気がする。
 家の方向とは逆になるけれど、羽山先輩っぽい人の姿を見失わないように、気がつけば後をつけてきてしまっていた。
 しばらく歩いて行くと、昔ながらの住宅が連なる一角に消えて行った。急いで駆け寄ると、一軒家の玄関の中に入って行く姿を発見する。そして、横顔が見えて羽山先輩だと確信した。
 後をつけてきてしまったのは申し訳ないけれど、思いもかけずに先輩の家が判明してしまった。
 入って行ったのは、小さめではあるけれど立派な一軒家だ。築うん十年は経っていそうな建物。「羽山」と書かれた立派な表札があるから、間違いない。
 一人暮らし……だよな?
 聞きたいことは山のように浮かんでくるけど、踏み込んでいく勇気はなかなか湧いてこない。
 帰ろうと踵を返したその時、ガラッと引き戸の玄関が開く音がして振り返った。

「あ……」

 羽山先輩が俺を見て、動きを止めた。

「……なんで?」
「あ、えっと。さっきスーパー出たところで羽山先輩のこと見かけて……」
「つけて来たのか?」
「え!? あ、いや、その」
「それ、そんなに重たいのか? 汗だくだぞ」
「え……」

 羽山先輩の視線が俺の手元に落ちるのを見て、両手にパンパンに詰めたエコバッグを下げていたことに気がついた。
 スーパーから家はすぐだから、このくらいの荷物は全然平気だ。だけど、先輩を見失わないように必死になって追いかけてきたから、確かにじっとり汗をかいている。
 そして、ここってどこだ?
 あまり来たことのない場所に自分がいることに気が付いて、あたりを見回してしまった。
 羽山先輩が俺と目を合わせて小さくため息を吐いた。

「なんか飲んでいくか?」
「……え?」
「何もないけど、お茶くらいならある」

 そっけなく言って玄関の中に戻って行く先輩。もしかして、中に入れてくれるのだろうか。

「いやなら帰れ」
「嫌じゃないです! お邪魔します!」

 先輩を追い越す勢いで、俺は玄関の中に入った。

 まさか、さっきブロッコリーに願っていたことが現実になるなんて。
 家の中に上がらせてもらうと、一部屋に簡易的なキッチンとテーブル。シンプルだけどどこか懐かしくてあたたかい雰囲気の室内で、俺は椅子に座って冷蔵庫からお茶のポットを取り出す先輩の後ろ姿を眺めていた。
 開かれた冷蔵庫の中には、驚くほど何も入っていない。
 まさか、家でも何も食べていないのだろうか? と一気に心配になってしまった。
 コップに注がれたお茶を出されて、俺は「いただきます」と言ってからゆっくり飲む。

「……なんでつけて来たんだよ?」
「え」

 まさか、先輩が問いただしてくるとは思わなくて、焦ってしまう。
 俺になんて関心がないと思っていたから、お茶を飲んだらすぐに帰れと言われると思ったのに。
 両手でコップを包み込んで、冷たさを感じると少し気持ちが落ち着く。

「……先輩が、休みの日はちゃんとご飯食べてるのかなぁって、どこに住んでるのかなぁって思っていたら、偶然姿を見つけて。それで、つい……」

 視線を手元のお茶に落っことして、俺は反省する。誰かに後をつけられるなんて気味が悪いことだ。先輩からしたら嫌に決まってる。

「そんなことしてたら、彼女にまた怒られるだろ」
「え?」
「おれなんかにもう構うな。お前の彼女まで変なこと言われるようになるぞ。お前だって現にもう噂立ってたりするだろ」

 イラついているのかな。いや、でも、なにか違う気もする。
 先輩の口調が荒く、強くなっていくけど、真っ直ぐ見てくる瞳は真剣だ。もしかしたら、これは俺のことを心配してくれているのかもしれない。なんて、自惚れた考えをしてしまう。

「いや、俺は別に噂なんて気にしてないです」
「お前は気にしなくても、お前の彼女はもう俺とは関わるなって言ってただろ。だからもう俺の前に現れるな」

 眉を顰めて、悔しそうな表情をする。
 初めて見た時から、先輩はいつも怒っているような、イラついているような、そんな怖い表情が多かった。でも、今日の先輩はなんだか、怒りの中に戸惑いみたいなものを感じる。先輩のことを毎日見て来たから、小さな変化に気がつけているのだろうか。たぶん、俺が先輩のことを好きだから、そう言う目で見てしまうところはあるかもしれないけれど。

「……ん? いや、あの、さっきから出てくる彼女ってなんですか?」

 羽山先輩の会話の中で、唯一飲み込めない単語。「彼女」と「お前の彼女」。誰のことを言っているのか?

「お前の彼女だよ。この前一緒にいただろう」

 この前一緒にいた、彼女? そもそも俺には彼女はいない。もし間違われるとするならば……

「え!? 由子のことですか!?」

 まさかと思って顔を上げると、羽山先輩は無表情のままだ。由子と言っても分かるはずがない。

「あれですよね? 先輩にお弁当渡しに行った時に一緒に連れて行った女の子のこと、ですよね?」

 確認のために聞くと、先輩は小さく頷く。

「あー、あれは幼なじみです! 彼女とかじゃないんですって。由子には彼氏もいるし、小さい頃からなにかと世話を焼いてくれて、もう、あいつは家族みたいなものなんですよ。先輩にもあんなこと言ってしまって、すみませんでした」

 変に誤解してほしくなくて、せっかく引いたはずの汗が、冷や汗になってまた出てくる。

「……家族」

 ポツリと先輩が呟くから、ハッとした。そして、気になっていたことを聞いてみる。

「そういえば、先輩はなんで一人暮らしなんですか?」

 こんな立派な家があるのに。他に家族はいないのかなと、不思議に思う。
 俺が話のついでみたいに聞いた質問に、顔を歪めて話しづらそうにする。もしかしたら、話したくないことかもしれない。先輩のことを困らせたくなくて、俺は「やっぱりいい」と言いかけたけれど、止められた。

「俺には家族がいないから」

 はっきりと、でもすごく寂しそうに言った。俺より大きな先輩が、とても小さく見える。
 家までつけて来て、これ以上詮索するのは申し訳なくなる。羽山先輩が辛そうなのは見ればわかる。でも、俺がそんな先輩に何をしてあげられるんだろう。

「ここは、祖父母が昔から住んでいた家で、二人とも亡くなってからは母親と二人で住んでいた。母親は一日中帰ってこなくて、ほとんど家にはいなかった。まだ小さかった俺は、何も出来ずにずっと家の中で過ごすしかなかった」

 影を落とす先輩の顔。ジッと、過去を思い出すみたいに部屋の真ん中を見つめたまま、それきり黙り込んでしまった。
 もしかしたら、先輩は母親から育児放棄されていたんじゃ。と、今の話を聞いて咄嗟に思ってしまった。

「たまにテーブルの上に菓子パンと牛乳が置いてあってさ。それだけがこの世にある食い物だって思いながら生きて来た」
「……え」
「だから俺、他のもん食べられない体になっちゃって。食べても吐いちゃうし、もう、なんかなんも受け付けなくなってて」

 情けないとでも言うように肩を落とす先輩。

「じゃ、じゃあ俺の弁当は……」

 そんな事情を知りもしないで、俺は毎日自分の満足のために先輩にプレッシャーを与え続けていたってことになるんじゃ……

「まぁ、初めは吐いたな。申し訳ないけど、食べられずにほとんどを捨ててしまった」
「……そう、なんですね」

 思った以上にショックだ。
 単に、先輩がどうしようもなく噂通りの悪い人で、嫌な人で、意地悪して捨てるようなことをする人だったなら、ここですっぱり諦められるのに。だけど、羽山先輩はちゃんと食べたって程で、きちんと返してくれていたんだ。それに、嘘でも美味しいって、言ってくれていたんだ。

「あー、でもな、俺だって鬼じゃないし。食べ物を粗末にする気もなくて。そっちが毎日毎日、懲りずに持ってくるから、こっちだって食べなきゃ悪いだろって気持ちが働いて、少しずつだけど、食べられるようになって来たんだよ」
「……え!」
「この前の揚げたての唐揚げ。まじでめちゃくちゃ美味かった。あそこで吐いたらお前に悪いと思ってすぐに立ち去ったけど、帰ってからもあの味が忘れられないくらい美味くて、初めて、もう一度食べたいって思える食べ物だったんだよ。だから、ありがとう」

 顔を上げて先輩のことを見れば、真っ直ぐに俺を見て笑ってくれている。
 先輩の笑う顔が見れる日がくるとか、奇跡だと思ってた。なのに。
 辛い過去を話してくれて、俺の執拗な弁当を真摯に受け止めてくれて、美味いって言って笑ってくれるとか。もう、羽山先輩が愛おしすぎる。
 一気に気持ちが湧き上がって来て、気がつけば目の前が波打って来た。頬を伝うぬるい感触と、ボトボトとテーブルの上にシミを作る涙が止められなくなった。

「んな!? なに泣いてんだよ、いきなり」

 慌てた先輩の声と顔。それすら新鮮で、愛おしい。
 俺、先輩のことやっぱり大好きだ。
 うわーんっと大声をあげて泣いてしまう俺を、羽山先輩は不器用に慰めてくれる。その優しさにすら感動して、ますます自分の溢れる感情がとめられなくて、いつまでも泣いてしまっていた。

「落ち着いたか?」

 学校では聞いたことのなかった、優しい先輩の声。ここに今いる先輩が、本当の先輩なのだろうか。いや、俺が今まで見て来た全部がみんな本物の羽山先輩だ。

「俺なんかよりもさ、ひどい状況にいる人なんていくらでもいるんだ。だから、俺は別に食べられなくても平気なんだよ」

 もしかしたら、幼い頃から受けていた環境のせいで、辛いことを辛いと思えなくなっているんじゃないかなと感じてしまう。
 なんだか本当のことを知った途端に、先輩がただ単に一人でいるんじゃなくて、ものすごく我慢をしているような、そんな感じに見えてしまう。ノリコ先生だって心配していたのは、こう言うことなのかもしれない。

「あの、先輩」

 空になったコップに、先輩はまたお茶を注いでくれる。その手を止めて、こちらを見る顔には、やっぱり寂しさが滲んでいるような気がした。

「辛い時は辛いって泣いて良いんですよ。美味しかったら美味しいって笑って言っていいんですよ。だって俺、先輩が素直に気持ちを吐き出してくれこと、めちゃくちゃ嬉しいから」

 俺が、先輩を救えるかなんてそんな大きいことは言えないけれど、俺の作ったお弁当がなにかのきっかけになってくれたらと思うと、嬉しいから。だから、ほんと、我慢しないでほしい。一人でいないでほしい。

「俺が先輩の家族になりますからぁーー!!」

 せっかく落ち着いたのに、また泣き出してしまう自分がどうしようもない。
 だけど、先輩のそばにいたい。これからもっと、先輩に美味しいって言って、笑ってもらいたいって思っちゃったから。

「なんでそんな泣くんだよ」

 仕方ないなと言うように立ち上がった先輩が、俺の横に来てふわりと頭を撫でてくれる。
 その優しい感触に、感極まって抱きついてしまった。先輩よりもずっと背の低い俺でも、簡単に腕が回ってしまう細い腰。余計な肉がほぼなくて、骨ばった体。

「先輩は、俺の作ったご飯を食べるために生まれてきたんですよ! だから、俺、これからも先輩のために料理覚えて、毎日美味しいもの食べさせてあげますから!」

 先輩にしがみついたまま叫ぶと、しばらくしてからふるふると先輩の体が震えだす。
 ハッとしてから顔を上げてみれば、笑いを堪えるみたいにして口元に手を当てている、羽山先輩の姿。

「なんかさ、それってプロポーズみたいじゃね?」

 ニヤリと悪戯に笑いながら言う先輩の顔は、もういつもの顔だ。

「……!! あ、あ、そ、それは、」

 その通りです!! と叫びたいところだけど、そんなことを言ったら引かれてしまうだけだと、頬を膨らませて口を紡ぐ。

「ふはっ、なんでそんなかわいいの? 最高じゃん。俺、もうお前のメシしか食わねぇから」
「……え!?」
「お前がいないとダメかもしれないから」

 今度は顔を逸らして、俺と目を合わせずにそんなことを言う。しかも、横を向いた耳元がほんのり色づいているのを、俺は見逃さない。
 まさか、先輩が照れている!?
 お前がいないとダメだとか、言われてみたい台詞ナンバーワンじゃないか!?
 それを言って照れているとか、先輩だってかわいいのですが!!
 もう止められなくなってしまった想いを、俺は立ち上がって先輩にもう一度抱きつくと、爆発させてしまった。

「はいっ!! 先輩大好きです! 一生お供します!」
「うわっ、ほんと、お前犬みたいだな」
「え? 犬?」
「かわいいがすぎる」

 わしゃわしゎと頭と顔を撫でられると、本気で自分が犬になってしまったんじゃないかと思ってしまう。

「いや、犬って!!」

 どう言うこと!?

「もう、先輩ひどいです! 俺美味しいご飯作れますから! 出来ればペットじゃなくせめて母ポジに! とりあえず俺のご飯食べてから、家族のポジション考え直してくださいー!」

 買って来た食材の入った袋を漁り始める。
 もちろん、唐揚げにしようと思っていた鳥モモ肉も入っているから、まずはこれでまた胃袋を掴んでやると、やる気を出す。
 そんな燃える俺のことを、羽山先輩は微笑みながら見てくるから、どうしたってその表情にドキドキしてしまう俺の方が負けだ。

「……わん」

 悔し紛れに呟くと、また先輩はくっくっと堪えながら笑う。

「これからもよろしく頼むな」

 爽やかな笑顔に、俺の胸は高鳴った。一生、この人について回る。って、俺は犬じゃないけど、今いる時間が幸せだと思ってもらえれば、一番嬉しいから。俺の愛あるご飯で先輩を救いたい。


「いや、待って羽山先輩! 先輩の家のキッチンなんもないっ!?」

 俺が買って来た食材は山のようにあるのに、それを調理する調味料もなければ、道具もない! 愕然と全く普段使われていなそうな汚れのないキッチンを見る俺。

「そりゃ普段料理なんてしねぇからな」

 当たり前だとでも言うように自信満々な羽山先輩に思わず呆れてしまう。

「先輩、今度一式一緒に買いに行きましょう!」
「え? 買うの?」

 俺の提案に面倒臭そうな顔をするのを見逃さなかった。

「買うんです! 俺は先輩に一番に作りたての美味しいご飯を食べさせたいんですから! ここで作らなきゃ意味ないでしょう!」

 つい、力が入ってしまって、先輩を睨むような態度をとってしまった。

「なんでそんなに必死になってくれるんだよ」

 怒られると思っていたのに、困ったように眉を下げて、切なそうに目を伏せてしまうから、どうしたってそんな表情を見せる羽山先輩に胸がきゅーんっと苦しくなる。

「だから、俺は羽山先輩のことがっ!」

 と、そこまで言ってからハッとした。
 待て。俺、なんかさっきも当たり前のように先輩に大好きですって言わなかったっけ? あれ? そして、また今も言おうとしてる。
 え? なにこれ。もしかして、言わされてる?
 頭の中でぐるぐると先輩との会話が巡っていく。そして、目の前の羽山先輩にふと視線を戻すと、不敵な笑みを浮かべながら、俺の次の言葉を待っているように見える。

「え!? なんか先輩ずるくない!? 俺ばっか先輩のこと大好きなんじゃん!」

 そりゃ、たぶん俺が先に先輩のことを好きになったのは確かだけど、さっきは俺がいないとダメとか言ってたのに。一気に気持ちが沈んでしょんぼりしてしまう。

「ごめん。お前からかうの楽しくて」

 ポンっと頭を撫でる手が優しい。でも。

「からかうのなしです! 俺はいつだって本気なんですからね!」
「うんうん、分かった。ありがとう、俺も好き」

 よしよしと、やっぱり犬扱いな気がする撫で方をされて不貞腐れるけれど、なんか今さらりと嬉しいことを言われたような気がする。

「来週もまた弁当楽しみにしてるから。よろしくな、千世」
「え! 俺の名前!」

 知ってもらえていたのかと嬉しくなる。

「知ってたよ。学校のやつらお前のことかわいいかわいいってよく話してるの聞いてたから」
「え! 俺の噂聞こえてたんですか?」
「一人でいると、周りの声がいやでも耳に入ってくんの。初めて声かけてくれた時、天使が迎えに来たのかと一瞬まじで死んだかと思ったんだよ」
「え?」
「だから、千世は俺の救世主。あの日俺を助けてくれて、ありがとう」

 まさか、先輩が俺のことを知ってくれているなんて思ってもいなかった。

 こうして、俺は先輩に美味しいご飯を食べさせてあげるために、引き続き料研で腕を磨く日々が始まるのであった。

「先輩のお家に行っていいですか?」
「いちいち聞くな。もう毎日来てるだろ」
「毎日行ってるから、たまには行かない日も作った方がいいのかなって思ったり……」

 ウザくないかな? って、先輩はいつだってクールな表情で隣にいるからいまいちよくわからないんだ。

「来ない日をわざわざ作るのか?」
「え……」

 少し強めの口調で返ってくるから、隣を見上げれば不機嫌そうに眉を顰めている羽山先輩。それってなんですか? もしかして、俺が行かない日を作ったりしたら、寂しいって思ってくれるってことですか?

「一人より、千世がそばにいてくれた方が俺はいいけど」

 そっけない感じで、めちゃくちゃ嬉しい言葉を言ってくれる先輩。

「じゃあ行かない日作るのやめますー! 今日の夕飯何にしようかなぁ。何食べたいですか?」

 先輩と歩く学校からの帰り道が、俺の幸せな時間。そして、先輩が俺と二人だけの時に「美味しい」といってご飯を食べてくれる瞬間が、毎日愛おしい。
 これからも、俺は先輩を救う救世主でいたい。

「唐揚げ」