
オォオォオ――……。
まるで永い微睡から覚めたかの様に、ハデスの眼が意識の光を宿してゆく。
「……ぬぅ……?」
――バッ。
空から戦況を一望していた初老の男がやおら両の手掌を眼前に突き出した。
「義姉さん、……来るぞッ」
バッカスを羽交い絞めしたまま、戦況を見定めるジャッカルが声をかける。
「……っ!」
バキバキ、ズバァア――ッ。
レディの足元の床材が罅割れて崩れ、中から数本の霧状毒手が噴き出した。
「ちぃっ」
ヴヴヴ……――ザン、ザンッ。
自らの周囲に重力波を巡らせ、緩慢になった毒手を一刀に切り伏せてゆく。
「く、……動き出したかハデスっ!」
勝算の見通しが立ったか、傍観一辺倒の俯瞰の立場からのハデスの再始動。
心身共にいよいよ追い込まれたレディは極限の霊力集中を余儀なくされた。
「義姉さんッ」
「……ぐぅっ」
「むははッ、その奮迅どこまで持つかな?」
――ズバッ、ザンッ!
相手の嘲笑に憤激する暇もなく、一寸の集中をも切らせない状態のレディ。
「グルルルル……」
――ザシャッ。
自重の約十倍縛りから解放されたケルベロスが虎視眈々と標的の隙を窺う。

――ゴォォッ。
左右二基の改造砲身の前筒部が、三連ロケットスラスターに変形している。
両の砲身を体の前方に向け、ロケットによる推進力で後方へ空中移動する。
「ってぇいっ」
バガンッ!
玄関扉を得意の後ろ蹴りで蹴飛ばすと、そのまま屋敷の戸外へと退避する。
「……」
ゴォォォォ――……。
セレスの邸宅を飛び出し、夜の戸外へ撤退してゆく二人の亜空間内探訪者。
後ろを振り返るが、部屋を護衛していた初老の男が追ってくる様子はない。
フィィン、……トッ。
ロケット噴射が止まり、直人を肩に担いだまま地表へと降り立つディアナ。
「ん。ってぇことはー。ここまで来れば、一安心って感じかな?」

「……ぅ、ぐ……ッ」
ディアナの肩に担がれ、息を荒げる直人。疲弊の度合いは傍目にも明瞭だ。
荒業を行使した反動か、煤けた手袋から覗く両の前腕には浅い火傷跡――。
「……何て事をした……。男の闘いに、横やりを、……挟むなッ」
「へぇー。あのまま続けてたらさぁ、ぁんたしんでたと思うよ?」
キンキン甲高い声が直人を叱る。声のトーンが約二オクターブ程上がった。
「だから、……なんだッ。……闘ってしぬんだったら……俺はッ」
「ぁんたは逃げてないよ。ぁたしが強引にぁんたを連れ出したの」
ピシャリと話を遮ると、ディアナは小顔を直人に向け、にっこりと微笑う。
「ぁんたは逃げてないから、ねっ?」
「ッ!? ……お前ッ、……誰だ?」
ゴゴゴゴゴ――……。
有無を言わさぬディアナの威圧感に、思わず瞠目する直人の眼前で、――。

……ヴヴヴ。青い髪が一瞬、艶めく金髪に変わり、……元の青色に戻った。
「御免なさい。私、今ちょっと変だったよね? 時々あーなるの」
「……ッ?」
声のトーンが低い声音に戻っている。外見も、所作も何時ものディアナだ。
さっき見たモーションブラーの様な現象は? どうも理解が追い付かない。
「あぁ、……俺もついにヤキが回った様だな。……眼がおかしい」
顰めた眉間を手で抑え、かぶりを振る直人。幻覚が見えるなんて末期的だ。
「……ぐッ」
毛細血管を極限まで細らせる電磁誘導加熱は、極度の脳貧血を齎していた。
恐らく、極端な貧血や酸素欠乏に陥ると、走馬灯や幻覚が現れるのだろう。
「フッ。どうせなら、……楓の姿で現れても、良かったのに……」
「んー? 今なんか言ったぁー?」
「……いや、別に何も言ってない」
ジュンと共にゾンビと格闘していた黒髪少女の面影が、直人の脳裏を過る。
「……あの子とまともに話せていない……。生還しなければ……」
「なぁに独り言言ってんの? てか、ダメージそんな酷かった?」
「……あぁ、しにかけていたよ。実は、……正直、助かった……」
ガクン――ッ。
脱力気味に頽れると、直人は地べたに両膝を付いてぐったりへたり込んだ。
「あ~ぁ。これは重症だわ。強がりもここまで来ると病気だねぇ」
「……ぅ、……」
返す言葉もない程に直人は疲弊していた。何処かで休息を取る必要がある。

♪~♪~ジャズ・サウンド~♪~♪
「……お待たせ致しました」
カラン。水の入ったグラスが置かれる。ジャズ音楽の流れるお洒落なバー。
ディアナが執拗に宿泊を迫ったあの剣呑な居酒屋とまるで違う高級バーだ。
「ぅふ。私こーゆーお店が好きなんですよねぇ♪」
「……良く言うぜ……」
すまし顔でウィンクをするディアナ。こうして見ると恐ろしい程の美人だ。
酔いどれ親父の巣食う居酒屋の不潔なトイレで泥酔してた女とは思えない。
「美味し~いっ!」
ぐびっ、ぐびっ――。
勢いよく喉を鳴らしてグラスの水を呑み干すと、笑顔でぷはぁと息を吐く。
「っくぅーっ! ゃ~、イっきかっえるぅーっ!」
「ッ。……他人のフリして下さい。お願いします」
口早に懇願する直人。あからさまに椅子を遠ざけ、他人のフリを決め込む。
「……くッ」
苛立ちを募らせる直人。ディアナと一緒に行動を共にするのが恥ずかしい。
絶世の美人にも関わらず、例を見ない彼女の過食ぶりは直人の手に余った。
「おいディアナ。……もっと上品に食事してくれ」
「はぐっ。ひょうひんひひょくひほしへふほぉー」
「……ぅぐッ、何を言っても、……駄目か……ッ」
薄汚れた居酒屋トイレの床上に、顔を突っ伏して泥酔するだらしない女だ。

二階の寝室に運び込んだ時にも、彼女は辺り一帯に吐瀉物をまき散らした。
酒とゲロの激しい悪臭に耐え、ナイロン袋に汚物を詰めた苦い過去が蘇る。
「……早く食べろッ。こんなにケーキを頼むなんて普通じゃないだろッ」
「へーほぉお~? んはは。わぁっへふよ~んっ♪ はぐ、はぐっっ!」
みるみる間に、うず高く積まれた山盛りケーキが大口の彼方に消えてゆく。
「……ッ??」
眼を丸くして、その様子を食い入る様に眺める直人。信じ難い光景だった。
嘗ての鍋を平らげた時もそうだったが、彼女の食欲はどうも底なしの様だ。
「はぐっ! ……はれ? ぁんた食べないの?」
「……食欲が消えたよ。お陰様で腹一杯だ……」
オォオォオ――……。
どんより落胆した表情を浮かべる直人。見てるだけでもう腹は一杯だった。

ガヤ、ガヤ――……。
雑踏を掻き分け歩く二人。休んだ事で直人のダメージは回復してきていた。
「さっきの紅茶、けっこ~美味しかったよねー♪」
「……あぁ。まぁ、確かに……」
釈然としない面持ちでディアナの横に並んで歩く。足取りは回復している。
軽喫茶で先程飲んだダージリンの香りが、じんわりと疲労を癒してくれる。
「ところでこの場所、……時間の流れは一体どうなってるんだ?」
ザッ、ザッ――……。
身長差がややあるものの、肩を並べて歩きながら、斜め横を見下ろす直人。
「さぁ。私の経験上かなり緩やかには流れてるっぽいんだよね~」
「――ッ。……経験が、あるのか……? とんでもない少女だな」
げんなり顔で尋ねる直人。どうやら、彼女には似た様な体験があるらしい。
「んー。結界でしょ? 地底に住む私達は、大体貼れるからねっ」
さも平然と嘯くディアナ。嘘ではなさそうだが、俄には信じ難いのも事実。
「……厄介な相手だぜ。正直、地底の連中を甘く見ていたよ……」
人混みを避けながら、ケッと毒づく。中でもハデスの実力は恐らく本物だ。
流石に冥府の王だけある。闘っている最中も、正直倒せる気がしなかった。
「結界ってのは、マグマの力でバリヤを作って敵を閉じ込めるの」
「……マグマ? 何だそれは。それとも溶岩の様な何かなのか?」
「ぅん。シリカが溶け出した時に発生する熱エネルギーを使うの」
「……熱エネルギー。エンタルピーって奴か? 熱力学第一法則」
キョロ――っ。
悪戯っぽい光を宿した青い瞳が、直人をきょろっと見上げた。講釈が続く。

「それを使って結界を創出する月の技術よ。私達が特許の取得者」
「そんな情報、必要ない。特許でも何でも好きに取ればいいだろ」
「むー。キミって本当ひねくれてるよねー。性格治んないからー」
――グッ。
珍しく眉間に皺を寄せると、小難しい顔のまま、ディアナは両腕を組んだ。
「いいかね、直人くん」
「……あ? ……君?」
胡乱気に眉を顰める直人に、ディアナは説教じみた口調で滔々と講釈する。
「兎に角その結界さえあれば、どんな相手でも封じられるのだよ」
「……ん? 強力な結界なら、ハデスって奴も封じられるのか?」
「へっへーん♪」
案の定、直人が喰らいついた。口角をニッとつり上げて含み笑うディアナ。

「理論上は可能だと思うよ。例えばジュピターみたいな奴とかさ」
「俺が助けた、頼り甲斐ないあの脳筋女か。……早く戻らないと」
焦燥に歯噛む直人を見上げたディアナが、にひひと奇妙な笑い声を立てた。
「……ッ? ――何がおかしい?」
「いやー。そのぉー。ちょぉっと帰り方解んなくなっちゃって~」
「待てよ、ちょっとそれ笑い事じゃないだろッ! どーすンだよ」
反射的に批難はすれど、直人自分も波長のチューニング法を見失っていた。
「……くッ」
外からは合わせ易かったが、内部からとなるとセレスの周波数が解り辛い。
手掛かりが必要だ。その為にも今一度セレスに会って確かめる必要がある。
が、――その為には、護衛者ハデスを何とかする必要があるのも確か――。
「まぁ~焦っても仕方ないって~。どっかで休憩でもしよっか♪」
「……――ぐッ」
苦虫を噛み潰す直人。マイペースな相手に、何を言っても通じそうにない。



