頁をめくるとき





 開店からまだ間もない店内には、紙の匂いと朝の冷たさが半分ずつ残っていた。

 カラン、と控えめな音を立てて扉が開く。

「先日はどうも。今日は、お礼を言いたくて」

 遠慮がちに入って来た彼は、以前店に来たスーツ姿の男性だった。入り口の傍で丸くなっていたステラに気付き、そっと歩幅を小さくする。

「この前、勧めて貰った本を読んだんです」

 言葉と同時に肩から下げたバッグの口を開ける。布地をかき分ける手つきは、少しだけ慎重だった。

 やがて取り出された一冊は手渡した覚えのある詩集だった。ページの端からは短い付箋がいくつか飛び出している。

「自分の人生はこれでいいのかって、あの日からずっと考えていて」

 彼は少し俯いて、詩集を胸の前に抱え直す。

「でも、この本のおかげで毎日が少しずつ色を持ち始めた気がして……」

 自分でも上手く言えないらしく、途中で言葉が止まる。

 燈はカウンター越しに頷いた。
 言葉にならなかった部分までちゃんと聞くつもりで。

「ここに来たとき、お客様はご自身の事を空っぽっておっしゃっていましたよね」

 静かな声が、木目に沿って滑っていく。
 燈は一拍置いてから言葉を紡いだ。

「何かを成し遂げないと立ち止まっているようにしか見えなくても、お客様はちゃんと自分のほうを向き直そうとしています。その力は、惰性とは正反対です。本当の自分を見失わないために踏ん張っている、とても真っ直ぐな感情です」

 彼の肩から、少しだけ力が抜けた。

 カウンターの上に置かれた詩集に、燈はそっと指先を伸ばし、その背をなぞる。

「ここにある本達は、ずっと誰かを待っています」

 誰にも開かれないまま、季節だけが通り過ぎていった年月。それでも本は色褪せる事を拒むように、静かに光を蓄えている。

「たくさん売れる本じゃなくても、今必要としている誰かの元へ辿り着くことができたら、それでいいと思うんです。お客様にとってのそんな一冊を見つけていきませんか」
「……とても、良い提案ですね」

 男性は目に光を宿して小さく笑った。



 ——今日もまた、それぞれの一日が別々の場所で始まっている。

 その始まりは、時にはもう無理かもしれないと
とこぼれそうなほど重く、時にはどこかでまだ形にならない願いを待っているのかもしれない。

 けれどふとした拍子に手を伸ばして(ページ)をめくるとき、言葉が救ってくれる瞬間はきっとある。

 窓から伸びる陽光に晒されながら、ステラが前足を伸ばして体勢を変えた。細い尻尾が小さく揺れて、琥珀色の瞳がゆっくり瞬く。

 その目に映っているのは、世界のどこかにいる誰かがそれぞれの場所で開こうとしている、数えきれない物語なのかもしれない。