——閉店札を裏返した指先に、少しばかりの緊張が滲んでいた。
暫くすると、カランと鈴の音が夜の入り口から歩いてくる。
「……燈」
父の姿をちゃんと見るのはいつ以来だろうか。
少しよそ行きのコート。帽子を脱ぐと覗く白髪。目尻の皺は増えても、こちらを見る瞳はあの日のままで。
「ありがとう、来てくれて」
自分の声が思いがけず静かで私自身が一瞬遅れてそれを受け取る。音の少ない空気が二人の間で軋んで、すぐに収まった。
焙じ茶を二つ用意してテーブルに置く。湯気が白い糸になって、言葉の代わりに天井へ上っていく。
ステラがカウンターから降りて、父の足元をゆっくり一周して、夜空に浮かぶ月みたいに丸くなる。
「……ハチワレ猫か」
「ステラって言うの。雨の日に拾って、そのままうちにいる」
会話がぎこちない。父は片手を膝に置いたまま、小さく頷く。
湯気の向こうで、どこから話せばいいのか言葉が見つからない顔。
私もまた同じ場所で足踏みをしている。
沈黙を最初に動かしたのは、父の視線だった。
テーブルの端に置かれたあの絵本で止まる。
「その本……」
「覚えてる?」
「ああ、覚えてる」
驚いたように小さく口元を緩ませて、懐かしむように目を細めた。
「母さんの病院の帰り道に、古本屋の一番奥で見つけて、お前が猫の絵を撫でて離さなかったんだ」
遠く忘れていた風景が、ページのように胸の内側で捲れる。
「……そうだったんだ。そうだったかも」
言ってから気気付く。
母が亡くなってから父とこうして温度のある言葉を交わすのはいつ以来だろうと。事務的な連絡ばかりが往復して、言葉はどこか冷めていた。
「燈」
名を呼ばれて顔を上げる。父はカップを持ち上げかけて、やめる。
「俺は、何を言えばよかったんだろうな」
責めも言い訳も混じってない、ただの問い。
私は返事を探しあぐねステラの背中を目でなぞる。
「分からなかった。母さんが亡くなっても燈の前で泣くのは違うと思った。辛さを忘れるように仕事へ出て、何か言えば崩れる気がして、何も言えなかった」
「うん」
「燈と向き合わない時間が増えていく度に、どう話しかければいいか分からなくなった。学校のことも、友達のことも、本当は聞きたかった。でもどんな風に切り出せばいいか分からなくなって。そう考えてる内に、燈の心が離れていくのを感じた」
父の弱音が口からこぼれるのを、私は初めて聞いた。
胸の奥が遅れてきゅっと締め付けられる。もっと早く聞きたかったという思いと、今こうしてやっと聞けていることへの安堵が不思議に混ざり合う。
燈は、自分のカップを両手で包んだ。すっかり冷めていると思っていたのにまだぬくもりが残っていて、その熱がじわじわと指先へ伝わってくる。
「……私は、怒ってた」
喉のどこかに引っかかっていた言葉が、やっと形になって出てくる。
「お母さんがいなくなってから、家の中の空気が変わった。笑い声の代わりに、お父さんの溜め息だけが時々大きく聞こえた。でも、その理由を私は聞けなかった」
そこまで言って、一度息を飲む。思い出が映像みたいに頭の中を通り過ぎていく。
「どうして母さんがいないことを、何もないみたいな顔でやり過ごすのか。どうして寂しいって一言も言ってくれないのか。どうして私の寂しいも、聞こうとしてくれないのか」
そこで、言葉が喉につかえる。
少しだけ息を吸い直して、掠れた声で続ける。
「でも一番怒ってたのは、多分自分に。お父さんに近づくタイミングは何度もあったのに、わざと見ないふりをして、わざとドアを閉めて。寝たフリをした自分に」
指先に力が入り、カップの表面が揺れる。
「本当はその日あったこととか、嫌だったこととか、お母さんのことも、お父さんと話したかった。でもお父さんが何も言わないから、私のことなんてどうでもいいんだって思い込んで……」
言葉の先が、涙で滲んでいくのが自分でも分かった。
「そうやって、自分から離れていったんだと思う。怒ってたのは、お父さんにだけじゃなくて、何も言えなかった自分にもだった」
やっと言えた。どうしてここまで時間がかかってしまったんだろう。思っていたより簡単な事だった。私は向き合う事から逃げていただけだった。
「本当にすまなかった」
燈は首を横に振る。
「うまくやれなかっただけ。私も、お父さんも」
それに、と言葉を続ける。
「本当は、感謝もしてるの。慣れない料理も頑張ってくれたし、仕事で疲れてると思うのに家事もこなして、私の面倒を見てくれて。今までちゃんと言ってなかったけど、伝えたかったの」
視界が揺れる。言葉はちゃんと伝えないと伝わらない。それはこのお店を開いてから一番学んだ事だ。
「お父さん、私を育ててくれてありがとう」
父も私と同じような顔をして小さく微笑んだ。
照れ臭くなって目を逸らしながら、伝える事が出来て安堵の溜め息がこぼれる。
母もどこかで笑ってくれている事を願いながら。
その時、ステラが父の脛に額を押しあてる。父は少し驚き、ためらいがちに頭を撫でた。
「この店ではね、本占いっていうのをしてるの。ステラが、今の私達に合う言葉を探してきてくれる。……試してみる?」
父がふっと目を伏せる。躊躇いが一瞬睫毛の影を揺らして、それから照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「ああ、お願いしよう」
視線で合図を送ると、ステラは一瞥してから棚の奥へ進んでいく。小さな前足がとある背表紙にそっと触れた。
燈は席を立ち、その仕草のあとを追うように一冊の本を抜き取る。
ページを開く。捲られた紙が、自分の重みで静かに落ちていく。ステラの声に導かれて手を止めると、一筋の文字が浮かび上がった。
「間に合わなかったように見える言葉も、今だからこそ届く言葉なのかもしれない」
読み上げた音が空気の底へ沈んでいくと、店全体の呼吸がほんの少しだけ深くなる。
父は長く息を吐き出し、天井のランプを仰いだ。
「……その通りかもしれないな」
出口を探すみたいに、迷いながら私を見る。その視線が通り過ぎていった年月ごと、胸の奥を撫でていく。
「お前の作った店を、ずっと見に来られなかった」
言葉を選びながら、記憶を一枚ずつめくっているような声だった。
「来たら、自分の不器用さが全部ばれてしまう気がしてな」
「とっくに、ばれてるよ」
わざと軽く言って、唇の端を持ち上げる。
笑うことでしか触れられない場所が、私達には多すぎたから。
「私も、不器用だから」
そう付け足すと、父の口元が、ほどけた糸みたいにゆっくり緩んだ。
長い間きつく結ばれていたものが、やっと息を吸い込んだような表情になる。
「母さんがな」
「亡くなる前に言ってたんだ。傷跡が時間をかけて少しずつ薄くなっていくみたいに、人生もゆっくりやり直せたらいいのにって」
父は視線を横に逸らし、眉を動かした。昔から変わらないその仕草が、この空間の角を柔らか削っていく。
「やり直すチャンスをくれないか」
ぽつりと落とされた願い事に、胸の奥で小さく波が立つ。
「……うん」
長い間喉の奥で立ち尽くしていた言葉たちが、それに背中を押されるように動き出す。
「今度、家に来なさい。母さんの書いた日記がある。ずっと、渡せなかったものだ」
テーブルの上に置かれた父の手が、小さく丸まる。
その指先には、私の知らない時間がいくつも擦り減って残っているように見えた。
「……うん。行く」
約束の言葉は思っていたより軽く、舌の上でほどけていく。
父はコートの襟を整え、店内を一度ぐるりと見回した。
誰かの想いが詰まった背表紙の列。
ここに溜まった年月に、誰ともなく小さく会釈してから、「また来る」と言う。
「うん。またね」
外気が揺れて、ガラス越しの路地に淡い光が滑り込む。
足元でステラが尾をひと振りし、喉の奥で低く小さな音を鳴らした。その音を聞きながら、心の中でそっと呟く。
今日はここまでにしよう。止まっていた時間は動き出したのだから、続きは明日からでも遅くない。
