「......ごめんね、驚かせちゃった」

 猫は逃げもしないが、近づきもしない。ひたすら小刻みに震えている。痩せていて、肩の骨ばかりが目立つ。鼻先には、泥なのか傷なのか分からない黒ずみがついていた。

「こんな日に......」

 猫のほうへ手を伸ばすと、威嚇するみたいに小さく「シャッ」と声を上げる。けれどその威勢の裏側に、力のなさが透けて見えて、燈は胸が詰まった。

 燈は地面に跳ね返った雨が足元を濡らすのも構わずその場にしゃがみこんだまま、しばらく猫と向き合っていた。

「私ね、新しい居場所を作ろうとしてるんだ」

 誰に聞かせるでもなく、ぽつりと言葉がこぼれる。

「古本屋を始める予定で。......正直、凄く怖い。誰も来なかったらどうしようとか、そういうことばかり考えちゃって」

 猫は何も答えない。
 ただ、じっと燈の顔を見ていた。軒下から向こう側に広がる雨のカーテンが、二人だけの世界を作る。

「でもね、誰かにとっての光って言える場所を作りたくて、その気持ちだけは本当にあって」

 燈は自分の膝を抱えるようにして、小さく笑った。

「もしよかったら、あなたもその光の一員になる?」

 猫はきょとんとした顔で燈を見つめた。
 意味が通じた訳がない。ただ、先程までの敵意は感じられなかった。

「おいで」

 燈の声は、夜の空気に溶けるように柔らかく響いた。
 白猫は大人しく段ボールの中で揺られながら、琥珀色の瞳が微かに光を含んだ気がした。

 ワンルームの誰もいない家に帰ると、嫌そうに声を上げたものの大人しく体を洗われた猫をタオルで優しくくるみ、空き箱にブランケットを敷いた。

「少しの間、ここにいてね」

 猫は身を丸めたまま、燈を見上げた。その目には不思議な穏やかさがあった。
 まるで、ここに戻る場所を見つけたかのように。

 その夜、燈は暫く猫の傍を離れなかった。
 湯気の立たないカップを指でなぞりながら、雨の音が止むのを聞いていた。
 猫は、静かに眠っていた。時々小さく喉を鳴らす音が聞こえる。その音が不思議と燈の胸のざらつきを撫でていく。

 一人じゃないよ。
 昔読んだ、懐かしい記憶が蘇る。あの白猫は君だったのか、絵本の面影と重ねた。

 朝になって玄関の扉を開けても、猫はどこへも行かなかった。

「今日からここがあなたの居場所ね」

 そう言って、燈は笑った。
 燈は猫にステラと名づけた。