失くしてしまったはずの絵本が、ぐるりと世界を一巡りしてもう一度燈の元へやってきた。長い旅を終えた小さな舟のように、本は穏やかな表情をしている。
 そしてこれからも旅は続く。

「ステラ」

 名前を呼ぶと顔を上げた彼女が金色の瞳を細めて燈を見る。天井のランプの光がその瞳の奥で小さく星のように瞬いた。

「あなたが、この本を連れてきてくれたのかもしれないね。私にもう一度光を届けてくれた」

 言葉にすると、胸の内側で薄い膜のように張り詰めていたものが柔らかくほどけていく。

「この絵本には、少し特別な居場所を用意しようか」

 燈は立ち上がり、店の扉を開けてすぐ目に飛び込んでくる平台に手を伸ばす。そこに並んでいた本達をそっと脇へ寄せ、スペースを丁寧に整えた。

 カウンターの戸棚から小さなメモ用紙を一枚取り出す。ペン先が紙をくすぐり、さらさらという音が店内の静けさに溶けていく。

 書き終えた紙片を、メモスタンドにそっと挿して絵本の横に置いた。

『光を照らしてくれる絵本です』

 たったそれだけの言葉。説明も理由も書かない。
 この本に手を伸ばすときが、その人にとっての「今」であってほしいと思った。
 いつ、誰が、どんな気持ちでこの一冊に触れるのか——そのすべてを運命に任せるみたいにそっと託す。

 カラン。

 丁度その時、扉の鈴が澄んだ音を立てた。

 制服姿の少女が、遠慮がちに顔だけを覗かせる。以前別れた恋人への痛みを抱えたまま、この店へ辿り着いた子だ。
 あの時よりもほんの少しだけ、表情に光が差している。

「こんにちは。また来ちゃいました」
「いらっしゃいませ。学校帰りですか?」

 問いかけると、少女は小さく頷いた。

「はい。なんとなくここに来たくなって。……あの、彼ともう一度話し合って、自分の気持ちを伝えてちゃんと幼なじみに戻りました。普通に話せるようになって、前よりお互いの事を知れた気がします」

 言葉の先を探すように視線を彷徨わせてから、照れ臭そうに笑う。
 燈はその表情の変化を確かめるように見つめて、ふわりと目元を和らげた。

「それは、立派な前進ですね」

 その時、少女の視線がふと中央の平台に向けられる。

「あ、かわいい絵本……猫の」

 まるで糸で引かれるみたいに、少女は棚へ近づいていく。絵本の隣に立てられた紙片に気付き、そっと目で文字をなぞった。

「……読んでみてもいいですか?」
「勿論です。その絵本も、ずっと誰かにページを捲ってもらうのを待っていましたから」

 燈が微笑むと、少女は両手でそっと絵本を持ち上げた。表紙の綺麗な細工を、視線で丁寧になぞりながらページを開く。

 店内の時間が、少しだけ深くなる。
 燈は少女と絵本を包み込む空気ごと大切に見守りながら、戻ってきた一冊が読んだ人の心に寄り添おうとしているその瞬間を、そっと胸に刻んだ。