「子供達が大きくなってからは本棚の奥でずっと眠っていたの。私ももう年を取ったでしょう? そろそろ家にある物たちの行き先をひとつずつ決めてあげなきゃいけないと思って。だけどこの本だけは捨てるのも売るのも違う気がしてね。でも家に置いておくだけじゃ、きっとまた誰にも読まれないままになってしまう。だから本の好きな誰かのところへ行けたらいいのにって思っていた時に、このお店の噂を聞いたの」

 燈は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じながら、そっと頭を下げた。

「ありがとうございます。……本当に」

 老婦人は照れ隠しのようにひらひらと手を振る。

「こんな風に話を聞いて貰えて、私も嬉しいわ。それにこの本はね、きっともう一度誰かの夜を見守る役目をしたいはずだから」

 本の中で星が瞬く。

「でしたら、その役目をこの店で引き継がせてください」

 燈はそう言って、絵本をそっと胸に抱き寄せた。表紙の布の手触りが、遠い日の母に手を繋いで貰った時の温度と重なる。

「ええ、よろしくね。ステラ(・・・)も」

 老婦人が去った後、扉のベルの余韻が消えると店内には再び静かな時間が戻った。燈はカウンターの椅子に腰を下ろし、膝の上の絵本の表紙をそっと撫でる。

「また会えたね」

 誰にともなく呟いたその声に、カウンターに上ったステラが「ニャア」と高く鳴いた。それは絵本への挨拶のようで、燈への返事でもあるようだった。

 燈はゆっくりと表紙を開く。経年で少し黄ばんだ紙が、ふわりと空気を押し出す。その匂いの中に、遠い昔の記憶が混ざっている気がした。

 ページを捲る指先に、幼い自分の小さな手が重なる。

 ——保育園に通っていた頃。
 母の体調はすでに悪く、休日は外で思いきり走り回る代わりに、燈は部屋の隅で絵本を読むことが多かった。元より、燈は本を読んでいる時間が好きだった。
 父は仕事であまり家におらず、家の中には使い古されおもちゃと、言葉にならない心配事の気配だけが漂っていた。

 そんな世界の中で鮮やかな色を持っていたのが、「ほしをひろうねこ」の絵本だった。フランス人の作家が描いたものを翻訳した作品で、ステラはフランス語で星という意味を持つのだと後で知った。

 白猫は、夜の空を旅しながら珍しい星をひとつずつ拾い集めて歩く。泣いている迷子の子供にそっと寄り添い、「一人じゃないからね」と声をかけて朝になるまで傍にいる。

 燈はその猫の台詞を何度も心の内で読んだ。

 一人じゃない。

 その言葉はいつしかページの向こうの子供達ではなく、自分自身に向けた祈りのようになっていた。

 ページの端を捲る視界の隅には、いつも母の横顔があった。息をするのも苦しそうな夜、枕元の明かりの下で、母は微かな声で言った。

「ステラはね、道に迷った子供達の為に、光を手渡してるでしょう……燈もそんな人になって」
「わたし?」
「うん。燈ってそういう意味を込めて名前をつけたの」

 その時は言葉の本当の意味はよく分からなかった。ただ、母が少しだけ笑ってくれたことが嬉しくて、自分の名前を大切に復唱した。

 暫くして母が亡くなり、絵本はいつしか行方が分からなくなってしまった。父との暮らしはどこかぎこちなく、燈は早くから一人で過ごす時間も多くなった。

 大人になってから、不意にあの絵本の所在が気になって探してみると、すでに絶版になっていて本屋やネットをいくら探してもどこにも見つからなかった。

 店の名前に「光」の字を借りたのは、あの絵本への憧れと、あの夜に母から託された「燈の役目」への、ささやかな返事みたいなものだった。