「……私結婚したくないって言いきりたいわけじゃないんです。したくなったらするし、したくならなかったらしないでいたいだけで。でも、それを説明するのがすごく難しくて」
「それは、とても大事なことですね」

 燈は頷く。

「当たり前の幸せって、もともと自分にとって当たり前に呼吸できる幸せのことだと思うんです。誰かに決められた形に自分を押し込んで苦しくなるなら、それはたぶん自分の当たり前じゃない」

 ステラが二人の足元で寝返りを打った。白い背中がテーブルの影に半分沈み込む。

「……でも、親はきっと心配しますよね」

 彼女はカップの縁に指を沿わせながら言う。

「心配はすると思います。でも、あなたがちゃんと考えて選んでいるということが伝わったら、少しずつその心配も形を変えていくかもしれません」
「形を、変える」
「はい。今はまだ、結婚=安心、結婚していない=不安っていう図しか持っていないのかもしれません。でもお客様が自分の生活を大事にしながら、楽しんで生きている姿を見せ続けたら、この子はこの形で幸せなんだなって、いつか気づく日が来るかもしれない」

 そう言うと、彼女は肩の力を抜いたように笑った。

「そうかもしれないですね」

 彼女はカップの中を覗き込みながら、小さく呟いた。

「……普通の幸せは人それぞれですねもんね」

「はい。誰かの当たり前に、自分の全部を合わせなくてもいいんです」

 ステラがテーブルの脚に頭をこすりつけて、小さく鳴いた。まるで「そうそう」と相槌を打っているようだった。

 彼女は笑いながら、ステラの頭をそっと撫でた。

「この本、買ってもいいですか」
「はい。読むたびに少しずつ自分の当たり前が整っていくかもしれません」

 会計を済ませ、扉の前で彼女は振り返った。

「あの、ありがとうございました。お姉さん、私と歳が近そうだから、また話に来ても良いですか?」
「勿論。今度は普通の世間話でも。いつでも待ってます」

 彼女ははにかむように笑って、店を後にした。

 ベルの音と一緒に外の空気が少し入り込む。頭上に広がる空は夜の始まりを告げていた。

 燈はステラの背中を撫でながら、小さく呟く。

「当たり前の幸せが人それぞれである世界のほうが、きっと居心地がいいわよね」

 ステラは目を細めて喉を鳴らした。
 その音は棚に並ぶ本達の間にも染み込んでいく。

 今日も悩みを抱える人達がこの店を訪れた。
 その足取りが、帰り道でほんの少し軽くなっていたらいい。
 そう願いながら、燈は本を捲る。

 外の路地にはそれぞれの「普通の幸せ」を探す人たちの気配が静かに行き来していた。