「ステラ」
小さく名前を呼ぶと、白い影が動いた。
ステラが向かったのは児童書のコーナーだった。背の低い棚に並んだカラフルな絵本や、手に馴染むサイズの物語の本達。その前でステラはしばし立ち止まり、ある一冊の前に前足をそっと置く。
燈はその本を手に取った。
表紙には少し泣き虫そうな顔をした子どもが、大きなタオルにくるまれて描かれている。
「こちらの本をステラが選んでくれました」
女性が驚いたように目を瞬く。
燈は絵本をテーブルに置き、ページに指を挟んだ。
「目を閉じて頂けますか」
女性はゆっくりと瞼を閉じる。
ゆっくりとページを捲る音が、窓を打つ雨の音と溶け合って響く。紙の擦れるわずかなざらつきが、静かな店内に小さな波紋のように広がった。やがてステラの声で指が止まると、燈の視線がある一文の上でそっと止まり、唇が柔らかく動いた。
「どうか波に攫われる前に、まずはあなた自身を救ってあげて」
読み上げられた言葉がゆっくりと空気に溶けていく。その一行だけが、ページから抜け出して女性の胸元にそっと落ちていくようだった。
女性の肩が僅かに震えた。唇が何かを飲み込むようにきゅっと結ばれ、視線が滲んだ光を追いかける。暫くの沈黙の後、息を詰めたような声が震えを隠しきれないままこぼれた。
「……素敵な一文ね」
その一言に、これまで張り詰めていたものが少しだけ弛んだ気配があった。燈は女性の表情を真正面から見つめないよう、あえて視線を絵本のイラストに落としながら、静かに言葉を置いていく。
「この絵本は、頑張ってる人に頑張れって一度も言わない本なんです。時には躓いたり、泣いたり、怒ったりする子に、それでも頑張りなさいとは言わない。ただ、泣いてもいい怒ってもいい今日は出来なくてもいいって、ずっと言い続けるだけの本です」
波打ち際に座り込んでいる小さな子どもの絵が描かれている。その隣には、ただ隣にいて寄り添うだけの、人形とも動物ともつかない柔らかな存在。そこには叱責も励ましもなく、ただここにいるよと伝えるようなぬくもりがあった。
「……私が今求めてる本みたいね」
女性は小さく笑みを浮かべながら続ける。その笑みはどこか自嘲を含みながらも、絵本に自分を重ねてしまったことへの、ほんの少しの照れくささも混じっていた。
「夫も子供も悪い人じゃないんです。無理しないでねって言ってくれる。でも母を施設に入れようって話になると、みんな急に黙ってしまう。そこまでしてもいいのかなって。結局決めるのは私で、やめたいって思うのもやっぱりやめられないって思うのも、全部私」
言葉を重ねるごとに、テーブルの上に置かれた指先に力がこもっていく。爪の先が僅かに白くなるほど、両手を組みしめているのが分かる。窓の外を流れる雨筋が、彼女の抱えてきた時間の長さを静かに映していた。
燈は否定も肯定も急がず、聞いていますと伝えるように、ゆっくりと瞬きをする。
「長い坂を一人きりで押してきた靴の底が、やめたいって、もう疲れたって歩けなくなってしまったんです。まずはその声に気付けた貴方を労ってあげてください」
女性ははっとしたように燈を見た。靴の底という言葉に、自分の擦り減った心を重ねたのかもしれない。
「介護は愛の形の一つです。でも一人で全部請け負うのは違うと思います。休む、分ける、頼るということも忘れないでください。施設に頼るのも間違いではありませんし、誰も責めることは出来ません」
燈の声は、雨音に溶けてもなおはっきりと女性の耳に届くような静けさを帯びていた。言葉のひとつひとつが、背負い込み過ぎた荷物をそっと撫でて軽くするためにあることが伝わってくる。
女性は絵本を抱きしめるように胸元へ近付け、小さく息を吐いた。その吐息は、長い坂をほんの一歩だけ下りる決心にも似ていた。窓の向こうでは雨脚が少しだけ弱まり、雲の切れ間から差し込む淡い光が、テーブルに置かれた絵本のページを柔らかく照らしていた。
