男性が店を出て暫くすると、今度は買い物袋を持った主婦らしき女性が傘を畳んで入り口に立っていた。
深い緑色のコートの袖口から覗く手首は少し痩せている。髪は一つに纏められ、所々白が混じっていた。
「いらっしゃいませ」
燈の声に、女性は僅かに肩を震わせた。
入ろうか帰ろうか——その迷いがどこか滲み出ている。
「あの.....この本占いって」
掠れた声で看板を指しながら燈を見る。
「はい。普通の占いとは違うんですが、お客様のお話を聞いて本と共にアドバイスをします」
「そうなんですね」
「やって行かれますか?」
「……そうします」
女性は案内に従って店の奥の椅子に腰を下ろした。
荷物置きに入った買い物袋の中から、ネギの青い葉先が顔を出している。その日常の匂いと女性の纏う疲労の匂いが、切ない程に馴染んでいた。
温かいお茶を出し、燈が向かいに座る。
「雨が降ってきちゃいましたね」
「ええ、そうなんです。早く帰ろうと思ったんですけど、帰りたくないなとも思ってしまって」
言いながら、少し笑うつもりだったのかもしれない。けれど口元は上手く笑顔を作れていなかった。
「よろしければ、ゆっくりお話を聞かせて頂けませんか」
燈が言うと、女性は紙コップの縁を両手で包み込むようにして持ち上げた。
湯気が彼女の頬にのぼる。その温度に触れた瞬間、ほんの僅かに彼女の表情がら緩んだ。
「母の介護を、しているんです」
「もう長くて五年......いえ、もっとかもしれない。最初はやれるところまで頑張ろうって、思っていたんですけど」
指先が紙コップの縁をなぞる。
その動きは、何度も同じ皿を洗ってきた手つきに似ていた。
「気付いたら頑張るしか言えなくなってました。母の前でも夫の前でも子どもの前でも、自分の前でも」
燈は女性の声の震えを逃さないように、静かに聞く。
「母は昔から厳しい人で。あんたはやればできるんだからってずっと言われてきて。だから弱音なんて口にできなくて。介護が始まってからも、感謝なんて言ってくれない人で」
苦笑しようとした唇が、すぐに歪む。
「それでも、ずっと我慢できてたんです。自分の親なんだからって。でもこの間突然思ってしまったんです。もう、やめたいって」
女性の瞳に、涙がじわりと溜まる。
「その瞬間から、自分がとても酷い人間になってしまった気がして。母に申し訳ないのは勿論ですけど、何より自分が自分を許せなくなってしまって。やめたいって思ったことをなかったことにしたくても、頭の中から消えてくれなくて」
燈の胸の奥に、何かが痛む。
やめたいと思うことが、本当はいちばん正直な悲鳴であることを燈は知っている。その悲鳴を自分で塞いでしまう苦しさも。
女性は涙を拭おうともせずに言った。
「だからせめて、占いにでも行って、大丈夫って言って貰えたら......そう思って」
「よく、来てくださいました」
遮るように零した燈の声は、少しだけ掠れていた。
本当は女性がここに辿り着くまでの道のりを、すべて抱きしめて労いたいほどの気持ちだった。
経験してないその辛さは、本人にしか分からない。けれど少しでも寄り添いたかった。
