「臆病なんでしょうね。辞めることも出来ないし、このまま続けるのもしんどい」
「臆病なのは、自分の本当の気持ちから逃げる時だと思います」
真っ直ぐな声が落ちる。
「今のお客様は、自分の心から逃げずに向き合おうとしている。だからそのことだけでも意味があると思います」
男性は、不意を突かれたような顔をして燈を見る。
その視線を受け止めながら、燈はステラの方に目をやった。
彼女は既に動き始めていた。静かな足取りで本棚の間を抜けていく。その様子は、よく知った家の廊下を歩く子供のように迷いがない。
「趣味はありますか?」
燈の問いに彼は少し考えて、首を横に振った。
「ないです。昔は休日にジョギングしたりしてたんですが、ここ数年はそれも億劫で。休みの日も仕事の事がどこか抜けなくて、なんとなくテレビを見ながらこれで良いのかって、そんなことばかり考えてしまって」
言いながら、指先が無意識にコップの縁をなぞる。窓の外では雲が厚みを増し、薄暗い午後の光が店内の本棚の背表紙を柔らかく曇らせていた。
「通勤は電車ですか?」
燈が問い返すと、彼は少しだけ顔を上げた。問いの意図までは掴めないというようにどこか戸惑った目をしている。
「そうですけど」
短く答えたあと、彼はまた視線を落とした。膝に置いた革のビジネスバッグの持ち手を握る手に、細く力がこもる。駅と職場と自宅をただ往復しているだけの日々が、その指先だけで語られているようだった。
燈は相槌の代わりに立ち上がると、ステラが触れた場所から小さな文庫本を取り出した。掌に収まるその本は、表紙の角がまだ硬く紙の匂いも新しい。短いエッセイと、詩集が載っている。電車の中で読める短さの物を、そっとテーブルの上に滑らせる。
「本を読んでみませんか」
差し出された文庫本を前に、男性は一瞬きょとんとした表情を浮かべた。予想していた提案とは違ったのかもしれない。だがすぐにイラストが印刷された表紙に視線を落とし、そこに描かれた星を辿る。
「これは詩集の本です。一日一ページでいいので、行きや帰りの電車の中で読んでみて下さい」
燈の声は、外の曇り空とは対照的に温かく静かだった。彼は笑ったのか苦笑したのか、口元だけを少し動かした。自分には似合わない物を勧められたような、でもどこかくすぐったいような表情だ。
「一ページでいいんですか」
少しだけ肩の力が抜けた声だった。義務ではなく一ページでいいと言われたことが、ほっとさせたのかもしれない。
「はい。栞を挟むみたいに、今日の自分に小さな区切りをつけるんです」
燈は、テーブルの端に置かれた真鍮の栞立てに目をやった。月や星の形をした栞がいくつも並んでいる。そのひとつを指先で掴むと、文庫本の隙間にそっと挟んだ。
「この一冊は、店からのプレゼントです」
少し身を乗り出し、燈は文庫を両手で包むようにして彼に差し出した。押しつけにならないように、けれど迷っている手をそっと後押しするくらいの距離で。
「毎日一ページずつ読んで好きな一文が見つかったら、またこの店に立ち寄ってくれませんか」
お願いというよりも、約束の種を渡すような口ぶりだった。彼の視線は本と燈の顔の間を何度か行き来し、そのたびに迷いが少しずつほどけていく。
「分かりました」
短くそう答える声には、さっきよりもはっきりとした色が戻っていた。男性は文庫本を受け取って、表紙を親指でゆっくり撫でた。指先が星に触れると、少しだけ顔の力が抜けるのが分かった。
「誰かの言葉が救いになる夜はあります」
燈が静かに告げると、男性は驚いたように一瞬だけ目を見開いた。その黒目の奥には、言葉にならなかった不安がうっすらと滲んでいるように見えた。
「私もそうでした。変えようのない一日の端っこが、ほんの少し柔らかくなる。明日を諦めない程度に柔らかく。お客様にもそんな一文が見つかりますように」
そう言って微笑むと、店内の照明が燈の横顔を縁取った。本棚の間を漂う埃が、光を受けて静かに舞う。時計の針が小さく時を刻む音と、湯気の立たなくなったお茶の静けさが、ゆるやかに場を包み込んだ。
占いの会計を済ませ、男性は一礼すると文庫本を胸元に抱えるようにして入口の方へ歩いた。窓の外では、いつの間にか細かい雨が降り始めている。
店を出る時、彼は持っていた折り畳み傘を開いた。布地の上に落ちる雨粒の音が、ささやかなリズムを刻む。肩をすくめて歩き出した背中は、来た時よりほんの少しだけ軽く見えた。
扉の鈴が鳴って、その音は彼の背中を追いかけるように、路地の奥へと伸びていく。燈はカウンター越しにその音を見送ると、小さく息を吐いた。扉の向こうで見送った一冊の本と彼の明日が、ほんの少しだけ柔らかくなりますようにと願いながら。
