朝のご飯の時間。
夜のご飯の時間。
お父さんとお母さんはにこやかに笑ってくれる。それにつられてわたしも自然と笑顔になれる。
学校の時間。
真衣ちゃんは昔のように、普通に接してくれる。クラスのみんなも……普通に接してくれる。
でも、たまにわたしは気付かれない――
それでも、これまでの生活から考えれば……本当に幸せだなと思う。
(もうこれで終わりにしようかな……)
何度も何度も考えた。机の上に置いている砂時計を見るたびに、よく考えてみると……触れてはいけないもののように思えてくることもある。
「ね! 健二―?」
学校から帰ってきて、リビングのソファーに寝転ろんでいる弟に声をかけても……反応は何一つない。
「ねえ」
「ねえってば」
「……うるっせえんだよ!」
「……」
「黙ってろ! うるせえから」
小学生のくせに、乱暴な言葉遣いをして……しかも怒鳴る。
まともに話をしたのは、いつだったかまったく思い出せない。
別に誰かに暴力を振るったり……という話は聞かないから、このままでも良いっちゃ良いけど、気にはなっている。
家の中で、お父さんやお母さんと以前のように話ができるようになっているからこそ、なおさら目立って、気になるのだ。
「……ねえ、お母さん」
晩ご飯の準備をしているお母さんに相談してみる。フライパンからはジュ―……と音を立て香ばしい匂いが漂ってくる。きっとハンバーグ。
「ねえ」
お母さんはわたしの呼びかけに気付くことなく、フライパンの乗せた蓋を開けて中を覗き込んでいる。
「ねえ!」
「……ねえってば!」
声のボリュームを1段上げて声をかけると、ようやくお母さんは気付いてくれる。
「あぁ、香織じゃない。いるならいるって……言いなさいよ」
「……いるよ。ずっと」
「あら? そうなの? 気付かなかった」
普通にしゃべりかけても、気付いてもらえない。
「焼いてる音で、気付かなかったのかもね」
茶碗とお椀を取り出しながら、お母さんは笑った。
(まぁ……あまり変わらないっちゃ、変わらない……)
黒猫も「どうなるのか分からない」と言ったけど……ここ数日、特段わたしの存在が消えて無くなっているようには感じない。多少大きな声を出せば、気付いてもらうことができる。家でも学校でも……。
(これくらいなら……別に良いかな)
(健二と楽しくおしゃべりできた方が……良いもんね)
わたしは弟に対して砂時計を使うことに決めた。
(これで……3回目か)
(もういないか……)
眉間にしわを寄せて、いらいらしているお父さんにお母さん。わたしに冷ややかな視線を浴びせて、無視をしていた真衣ちゃんや学校の女子。そして怒鳴り声を張り上げて、家の空気を悪くしている健二……。
(よし! でも……どんな場面を想い浮かべれば良いんだろう?)
そう。わたしの中では、いつから健二がこうなってしまったのか……検討が付いていないのだ。
(……ま、何とか……なるか)
わたしはギューッと目を瞑り、砂時計を握りしめた。笑顔で笑っている健二のことをイメージしながら……。これまで2回と同じように、急に視界が白くぼけ始めた。
(……よし……)
意識は急に遠くなり、わたしはソファーに崩れ落ちるように倒れた。
――
――
――
「ねえ! お姉ちゃん!」
「……何よ? ついて来ないでよ」
「何で? 買い物に行くんでしょ? 良いじゃん!」
「……はぁ。あっち歩いてよ……」
わたしは気が付くと外にいた。
目の前には……たぶん小学6年生くらいの『わたし』がちょっといらいらしながら歩いている。
(まだ……中学前だよね、あれ……)
(……? 何してんのよ、あれ)
どうやら後ろを健二が歩いているようだけれど……まだわたしは状況が飲み込めないままだった。
(……)
(……良く分かんないな)
しばらくふわふわと漂いながら、2人の後を付いていくことに決めた。前回も前々回もそうだけど……この後に決定的な場面を迎えることになるだろうから。
(でもまぁ……こんな所で? 外じゃん。ここ)
わたしにはまったく身に覚えがない。家からどんどんと遠ざかっていくように見える。
「俺さ、欲しいものがあるんだよねぇ」
「……は? 買わないよ?」
「えー! 良いじゃん! 買ってよ!」
「欲しいなら、自分で買いなよ。お小遣いだってもらってんだから」
(何……? 何の話をしてるの……)
「お姉ちゃんは分かってないな」
「……はぁ? 何がよ」
「お姉ちゃんから買ってもらうから、嬉しいんじゃんか!」
「……キモ」
「キモいとか言わないでよー」
「キモい。ウザい。……ついて来ないで」
「良いじゃん。買い物くらい」
(あぁ……買い物なのか……買い出し? お母さんにでも頼まれたのかなぁ……)
見たところ、夕ご飯の材料でも買ってくるように言われている感じ。そこに健二がおねだりしてるんだ……たぶん。
「分かった? キモいのよ。あんた」
「……」
「恥ずかしいからさ、ちょっと離れて歩いて」
「……そんな」
(酷いこと言ってるな……)
斜め上から見ているわたしは、胸がキュっと苦しくなった。
こんなに酷いやつだったのか……健二に対して。
「酷いなぁ」
「あんたがキモいからでしょ。……絶対にお店で話かけないでよ? 良い?」
「……」
首をもたげ、落ち込んでしまった。
スーパーに入ると、『わたし』は籠を腕からぶら下げて、メモ紙を見ながら野菜コーナーに向かって歩く。健二の姿は無い。
(どこで……何が起きるんだっけ……?)
(……これは全然覚えてないな)
(注意しておかないと……)
もしかすると、一瞬の出来事の可能性もある。これまでと違い、まったく予想できないわたしは、手に汗をかく。
(これ……わたし失敗したら、どうなるんだろ)
(もー……黒猫に聞いておけば良かった)
(て言うか……もうすぐ3分経つよね……?)
その時だった。
(んっ? ……あれって?)
『わたし』の目の前に、現れた女子。見え覚えがあった。
(あ……隣のクラスだったよね……)
(えと……名前……)
「あ! 香織ちゃん?」
「ん? あぁ! 恵子ちゃん!」
(そうか、恵子ちゃんか……)
タッタッタッタッ……足音が聞こえる。わたしは音の方に顔を向ける。
(健二か……『わたし』のとこに向かってんのかな……)
良く見ると、脇にポテトチップスを抱えている。これを『わたし』におねだりしようとしているのか……?
「お姉ちゃーん!」
5メートルほど離れた場所から、健二が『わたし』に声をかけた。軽やかな、明るい声。
「……?」
『わたし』と恵子ちゃんが、声の方に顔を向けた――
(あっ!!!!)
(そういうことか!!)
(……変わって!!!)
(……お願い!!)
わたしは気付いた。一瞬大声を張り上げる――
「恵子―? 行くわよー」
その瞬間、奥の方から女性の声が聞こえた。
「あっ……ママだ。行かなきゃ……香織ちゃん、またねー」
「あっ、うん! バイバーイ」
笑顔で『わたし』が恵子ちゃんに手を振る。
「お姉ちゃん! これこれ!」
はぁはぁと呼吸を乱しながら、『わたし』に向かって話かけている。とっても嬉しそう。
「……危ないな、もうちょっとで恵子ちゃんに見られるとこだったじゃん」
なるほど……と思った。『わたし』は健二のことを、友達に見られたくなかったんだな……。わたしの方が思春期だったのか。
(危ない……間に合ったっぽいな)
はぁっと安堵のため息をつき、胸を撫で下ろした瞬間――
また景色が一気に白く包まれた――
(良かった……)
(これで……大丈夫かな……)
穏やかな気持ちの中、わたしは意識を失った――
夜のご飯の時間。
お父さんとお母さんはにこやかに笑ってくれる。それにつられてわたしも自然と笑顔になれる。
学校の時間。
真衣ちゃんは昔のように、普通に接してくれる。クラスのみんなも……普通に接してくれる。
でも、たまにわたしは気付かれない――
それでも、これまでの生活から考えれば……本当に幸せだなと思う。
(もうこれで終わりにしようかな……)
何度も何度も考えた。机の上に置いている砂時計を見るたびに、よく考えてみると……触れてはいけないもののように思えてくることもある。
「ね! 健二―?」
学校から帰ってきて、リビングのソファーに寝転ろんでいる弟に声をかけても……反応は何一つない。
「ねえ」
「ねえってば」
「……うるっせえんだよ!」
「……」
「黙ってろ! うるせえから」
小学生のくせに、乱暴な言葉遣いをして……しかも怒鳴る。
まともに話をしたのは、いつだったかまったく思い出せない。
別に誰かに暴力を振るったり……という話は聞かないから、このままでも良いっちゃ良いけど、気にはなっている。
家の中で、お父さんやお母さんと以前のように話ができるようになっているからこそ、なおさら目立って、気になるのだ。
「……ねえ、お母さん」
晩ご飯の準備をしているお母さんに相談してみる。フライパンからはジュ―……と音を立て香ばしい匂いが漂ってくる。きっとハンバーグ。
「ねえ」
お母さんはわたしの呼びかけに気付くことなく、フライパンの乗せた蓋を開けて中を覗き込んでいる。
「ねえ!」
「……ねえってば!」
声のボリュームを1段上げて声をかけると、ようやくお母さんは気付いてくれる。
「あぁ、香織じゃない。いるならいるって……言いなさいよ」
「……いるよ。ずっと」
「あら? そうなの? 気付かなかった」
普通にしゃべりかけても、気付いてもらえない。
「焼いてる音で、気付かなかったのかもね」
茶碗とお椀を取り出しながら、お母さんは笑った。
(まぁ……あまり変わらないっちゃ、変わらない……)
黒猫も「どうなるのか分からない」と言ったけど……ここ数日、特段わたしの存在が消えて無くなっているようには感じない。多少大きな声を出せば、気付いてもらうことができる。家でも学校でも……。
(これくらいなら……別に良いかな)
(健二と楽しくおしゃべりできた方が……良いもんね)
わたしは弟に対して砂時計を使うことに決めた。
(これで……3回目か)
(もういないか……)
眉間にしわを寄せて、いらいらしているお父さんにお母さん。わたしに冷ややかな視線を浴びせて、無視をしていた真衣ちゃんや学校の女子。そして怒鳴り声を張り上げて、家の空気を悪くしている健二……。
(よし! でも……どんな場面を想い浮かべれば良いんだろう?)
そう。わたしの中では、いつから健二がこうなってしまったのか……検討が付いていないのだ。
(……ま、何とか……なるか)
わたしはギューッと目を瞑り、砂時計を握りしめた。笑顔で笑っている健二のことをイメージしながら……。これまで2回と同じように、急に視界が白くぼけ始めた。
(……よし……)
意識は急に遠くなり、わたしはソファーに崩れ落ちるように倒れた。
――
――
――
「ねえ! お姉ちゃん!」
「……何よ? ついて来ないでよ」
「何で? 買い物に行くんでしょ? 良いじゃん!」
「……はぁ。あっち歩いてよ……」
わたしは気が付くと外にいた。
目の前には……たぶん小学6年生くらいの『わたし』がちょっといらいらしながら歩いている。
(まだ……中学前だよね、あれ……)
(……? 何してんのよ、あれ)
どうやら後ろを健二が歩いているようだけれど……まだわたしは状況が飲み込めないままだった。
(……)
(……良く分かんないな)
しばらくふわふわと漂いながら、2人の後を付いていくことに決めた。前回も前々回もそうだけど……この後に決定的な場面を迎えることになるだろうから。
(でもまぁ……こんな所で? 外じゃん。ここ)
わたしにはまったく身に覚えがない。家からどんどんと遠ざかっていくように見える。
「俺さ、欲しいものがあるんだよねぇ」
「……は? 買わないよ?」
「えー! 良いじゃん! 買ってよ!」
「欲しいなら、自分で買いなよ。お小遣いだってもらってんだから」
(何……? 何の話をしてるの……)
「お姉ちゃんは分かってないな」
「……はぁ? 何がよ」
「お姉ちゃんから買ってもらうから、嬉しいんじゃんか!」
「……キモ」
「キモいとか言わないでよー」
「キモい。ウザい。……ついて来ないで」
「良いじゃん。買い物くらい」
(あぁ……買い物なのか……買い出し? お母さんにでも頼まれたのかなぁ……)
見たところ、夕ご飯の材料でも買ってくるように言われている感じ。そこに健二がおねだりしてるんだ……たぶん。
「分かった? キモいのよ。あんた」
「……」
「恥ずかしいからさ、ちょっと離れて歩いて」
「……そんな」
(酷いこと言ってるな……)
斜め上から見ているわたしは、胸がキュっと苦しくなった。
こんなに酷いやつだったのか……健二に対して。
「酷いなぁ」
「あんたがキモいからでしょ。……絶対にお店で話かけないでよ? 良い?」
「……」
首をもたげ、落ち込んでしまった。
スーパーに入ると、『わたし』は籠を腕からぶら下げて、メモ紙を見ながら野菜コーナーに向かって歩く。健二の姿は無い。
(どこで……何が起きるんだっけ……?)
(……これは全然覚えてないな)
(注意しておかないと……)
もしかすると、一瞬の出来事の可能性もある。これまでと違い、まったく予想できないわたしは、手に汗をかく。
(これ……わたし失敗したら、どうなるんだろ)
(もー……黒猫に聞いておけば良かった)
(て言うか……もうすぐ3分経つよね……?)
その時だった。
(んっ? ……あれって?)
『わたし』の目の前に、現れた女子。見え覚えがあった。
(あ……隣のクラスだったよね……)
(えと……名前……)
「あ! 香織ちゃん?」
「ん? あぁ! 恵子ちゃん!」
(そうか、恵子ちゃんか……)
タッタッタッタッ……足音が聞こえる。わたしは音の方に顔を向ける。
(健二か……『わたし』のとこに向かってんのかな……)
良く見ると、脇にポテトチップスを抱えている。これを『わたし』におねだりしようとしているのか……?
「お姉ちゃーん!」
5メートルほど離れた場所から、健二が『わたし』に声をかけた。軽やかな、明るい声。
「……?」
『わたし』と恵子ちゃんが、声の方に顔を向けた――
(あっ!!!!)
(そういうことか!!)
(……変わって!!!)
(……お願い!!)
わたしは気付いた。一瞬大声を張り上げる――
「恵子―? 行くわよー」
その瞬間、奥の方から女性の声が聞こえた。
「あっ……ママだ。行かなきゃ……香織ちゃん、またねー」
「あっ、うん! バイバーイ」
笑顔で『わたし』が恵子ちゃんに手を振る。
「お姉ちゃん! これこれ!」
はぁはぁと呼吸を乱しながら、『わたし』に向かって話かけている。とっても嬉しそう。
「……危ないな、もうちょっとで恵子ちゃんに見られるとこだったじゃん」
なるほど……と思った。『わたし』は健二のことを、友達に見られたくなかったんだな……。わたしの方が思春期だったのか。
(危ない……間に合ったっぽいな)
はぁっと安堵のため息をつき、胸を撫で下ろした瞬間――
また景色が一気に白く包まれた――
(良かった……)
(これで……大丈夫かな……)
穏やかな気持ちの中、わたしは意識を失った――



