夜の公園に私はいた。
目の前には猫が一匹。まるまるとした黒猫だ。なぜか背中に封筒がくくりつけてあって、アンバーの瞳を夜空の月みたいに光らせている。
「何を見ている」
目の前の黒猫が言った。
間違いない。私は酔っている。少し記憶を遡ってみる必要がありそうだ。
*****
三年間勤めていた食品メーカーを辞めたのが昨日のこと。悲嘆に暮れ、寝込んでいたところ、今朝になって友人の小倉苗から「会いたい」と連絡があった。
居酒屋に集まったのが昼の一時。ハイペースで飲み続けて、二時半を過ぎた頃には、全身に酔いが回っていた。
「先週の社内会議で上司のプレゼンが通ったんだけど、私が温めてた企画の横取りだったんだよね。一生懸命プレゼン資料も作ってたのに、勝手に発表して自分の手柄にしたんだよ? さすがに看過できなくて抗議したら、文句を言うならクビにするぞって脅されて。でね、辞めてやったの」
「まなベロベロじゃん」
苗が困惑気味に言った。
「でも、ひどい話だよね。兄貴が生きてたらパワハラで記事にしてもらえたのに」
生前、苗のお兄さんは大手の新聞社で働いていた。自ら志願して中東の支局へ異動し、半年前、紛争地域の取材中に命を落とした。銃撃戦に巻き込まれたことが原因だった。お兄さんの訃報を受けてから、彼女はしばらく塞ぎ込んでいたけど、そういう冗談を言えるくらいには回復したらしい。
「そういえば、兄貴も仕事のことで悩んでるって前に言ってたな」
死と隣り合わせの現場で働いていたのだから、気に病むのも当然かもしれない。
「ところでさ、私がまなに仕事紹介してあげる」
「ホント!?」
「はい、これ」
そう言って、苗は小さなメモ用紙を掲げた。『求人募集 定員一名』という文字とともに、電話番号が記載されていた。
「さっきトイレ行ったとき、そこのクルーズ船のポスターがめくれててさ。その裏に貼ってあったやつ」
「……めっちゃ怪しいじゃん」
「まぁまぁ、騙されたと思って電話してみたら?」
そんな感じで苗と別れたあと、私は酔いに任せてメモ用紙の電話番号に連絡した。どうせ何かのイタズラだろうと思ったけど、電話は繋がり、即時採用の運びになった。早速仕事があるから、と指定の場所にくるよう言われた。私はその話を受け入れた。酔いと失職で、正常な判断能力は失われていたと思う。
電車に揺られて一時間。
そんなわけで、私は見知らぬ町の見知らぬ公園にいる。周囲はすっかり薄暗くなっていた。
「募集を見て来たんだろ?」
「は、はい……」
先述の通り、目の前には猫がいて、私に話しかけている。辺りを見渡してみても、私たちの他には誰もいない。手の込んだイタズラというわけではなそうだ。
酔いのあまり、ただの人が猫に見えているのかもしれない。
「何を驚いた顔をしてる」
「す、すみません」
頭を下げて、重大な問題点に気付いた。どうにも目線が合わないのだ。それどころか、私が見下ろすような形になってる。
私は腰を落とし、四つん這いになった。それから、今一度先方を見た。
長靴とまではいかないけど、ボロボロの靴を履いていた。それに、ピーナッツ型の瞳。真っ黒な被毛。ほっぺたには白いひげ。辺りは薄暗いのに、その瞳が私をしっかりと捉えるのは、夜目が利くからだろう。
やっぱり、先方は猫だった。言葉を話す、真っ黒な黒猫だ。
「求人募集を見て来た帯刀まなです。よろしくお願いします」
「侍みたいな名だ」
黒猫の声は低くて渋かった。それでいて、どことなくチャーミングだ。話し方は、粗暴なのか品があるのか、よく分からない。
「ところで何だ? その不細工な姿勢は」
四つん這いの私を見て、黒猫が言った。
「いや、見下ろすのは失礼かと思って」
すると、黒猫がひょいと器用に私の肩の上に乗った。
「これで問題ないはずだ。立ちなさい」
黒猫が落ちないように、ゆっくり立ち上がる。首を横に向けると、彼と目が合った。思わず頭に手を伸ばす。衝動的に頭を撫でたくなったのだ。
「何をするんだ、無礼者」
「え、いや」
「撫でるなら、もっとしっかり撫でろ」
私は黒猫の被毛を大きく撫でた。封筒が手に触れる。この封筒は一体何なのだろう。私が雇われた理由と関係あるのだろうか。
「さぁ行くぞ」
「どこに?」
「仕事に決まっているだろ」
*****
公園を出て、私たちは歩き出す。夜風に吹かれ、酔いが醒めても、目の前にいるのは猫のままだった。歩行の度に尻尾が揺れている。夜空を見上げると、ナイフで切り分けたみたいな綺麗な形の半月がぽつんと浮かんでいた。
見知らぬ土地を歩くのは、ちょっと旅気分だ。
「これって、どんな仕事なんですか?」
「手紙を運ぶのさ、夜明けまでに」
背中に封筒がくくりつけられているのは、そのためだったらしい。暗くて差出人の名前は読めないけど。
「私は伝書猫」
聞き慣れない三文字だ。はじめまして。
「依頼人から預かった手紙を送り届けながら、各地を転々としてる。私は旅猫という種族なんだ。旅をしないと死んでしまう」
たしかに、猫はふらっと現れて消えるイメージだけど、そういう猫もいるらしい。
「でも、出紙を送るだけなら普通の郵便配達で事足りるはずなのに、どうしてお客はあなたに手紙を?」
「私が運ぶ手紙は特別だからさ」
「特別?」
民家の塀の上に黒猫が飛び移る。
「私が運んだ手紙の内容は、受け取った人間にとって、生涯忘れられないものになるんだ。それが良い内容であれ、悪い内容であれ」
「忘れらないものになる」
私は思わず復唱した。
どうやら彼は不思議な力を持っているらしい。もう何を言われても驚かない。人の言葉を話す時点で、もとより常識は通用しないのだ。受け入れるしかない。
「ところで、どうして私は雇われたんでしょう」
「護衛のためだ。見ての通り私はか弱い猫だからな、カラスに襲われたり、人に絡まれたりするんだ」
「それは困りますね」
「そこで君の出番だ。私を守って、一緒に手紙を届けてほしい」
私はこくんと頷いた。
「あなたはどうして人の言葉を話せるんですか?」
「話すと長くなる。それと、私の名はマタタビだ」
「家猫になる気は?」
「おぞましいことを言うな!」
意図せず、逆鱗に触れたらしい。正確には被毛だけど。
かれこれ三十分は歩きっぱなしだった。黒猫もといマタタビも、短い足で歩き続けていた。周囲はすっかり真っ暗だ。酔いが醒めても、歩行は心もとなかった。猫と違って、人間は夜目が利かないのだ。
「むむ」
「どうしました?」
「マタタビの匂いがする」
「寄り道はダメですよ、この手紙を夜明けまでに届けるんでしょ」
私はマタタビの体を抱えた。少し不服そうな顔をして、それから私の腕の中に収まった。
「この手紙の差出人はどんな人なんですか?」
「依頼人のことは分からない。応接は私の担当ではないからな」
たしかに、電話対応も若い男性だった。そういう補佐がいるのだろう。
「だが、この手紙からは悪臭がする」
「悪臭?」
「ああ、焦げた甘い匂いがする」
よく分からないけど、焼きすぎたアップルパイみたいな感じだろうか。
「手紙から匂いがするんですか?」
「その中身からだよ。きっとこれは恋人を思う手紙だ」
マタタビの声が、どこか悲しげに響いた。
「多分、もう差出人はこの世にいない」
「……どういうことですか」
「言葉の通りの意味だ。そういう匂いがする」
仔細を訊ねようとして、ポケットのスマホが鳴った。苗からの着信だった。マタタビを地面に下ろして、電話に出た。
「まな、あの電話番号どうだった?」
「雇ってもらえたけど、何これ。苗は知ってたの?」
「何のこと?」
間の抜けた声から察するに、本当に事情を知らないらしい。苗は、飲み屋でたまたま見つけた求人募集のメモを、冗談半分で私に見せただけなのだ。
「ていうか、もう雇ってもらえたの?」
「うん。かなり変わった仕事だから、お兄さんが生きてたら取材してほしいくらい」
「へぇ、そんな面白そうな仕事なんだ。危なくはないの?」
「身の危険はなさそう」
「よかった」
電話を切る。スマホから顔を上げると、歩道の先から野犬が歩いてきた。目がくぼみ、舌がだらしなく露出していた。
今にも襲いかかってきそうだ。
「さぁ、お前の出番だぞ」
マタタビが嬉しそうに言った。
「こういうときのためにお前を雇ったんだ」
「なるほど」
やっぱり、身の危険も多少はあるかもしれない。
私はマタタビを掴んだ。そして胸に抱え、逆方向に全速力で走った。もともと、徒競走は得意な方だ。
爆ぜるように野犬が吠えて、追いかけてくる。道の角を曲がり、避難所のように明かりを発していた自販機の脇に隠れる。野犬は私たちを見失い、去っていった。
私はその場に蹲った。
「ふぅ」
一息ついてると、マタタビが胸の中から身を乗り出した。
「あっちからマタタビの匂いがする」
「こら」
一喝して、また歩き出した。
マタタビには自分で歩いてもらうことにした。
見知らぬ土地の景色を眺めながら、ふと私は何をしているのだろう、という思いに駆られた。おまけに眠気がパイシートのように私を包む。
「私は何をしてるんだろ……」
「考えるな、踵が擦り切れるまで歩き続けろ」
疲労で怒る気にもなれなかった。マタタビが少し先を歩くような形になる。
沿道に乳母車を引くお婆ちゃんがいた。こんな時間に買い物だろうか。
転ばないかな大丈夫かな、と目で追ってると、そのお婆ちゃんがすくいあげるようにしてマタタビの胴体を掴んだ。そのまま乳母車の中に放り入れると、背を向けて去ろうとした。
私はとっさに声を出した。
「それは私の猫です!」
普段とは明らかに別の場所から出た声だった。
「困ります」
私はお婆ちゃんに追いつき、懇願した。
「あんまり可愛かったもんだから、つい」
お婆ちゃんは許しを請うように笑った。凄く朗らかだった。
マタタビを乳母車の中から出してくれる。彼は私以外の前では話さないと決めているのか、「にゃー」と鳴いていた。まさに猫かぶりだ。
マタタビと、道の続きを歩く。空き缶、しなびたタバコ、ガムの包み、そんなものが路上に落ちている。
「今のはれっきとした猫さらいだ。君がいてよかった」
また耳慣れない言葉だ。ずいぶんと遠くに来てしまったことを自覚する。私の旅は、どこに辿り着くのだろう。
*****
「着いたぞ、ここだ」
マタタビの一声で我に返る。顔を上げると、うらぶれたアパートの前にいた。外壁は劣化し、階段も錆びていた。ここが手紙の届け先らしい。築二十年といった具合だ。
赤錆でいっぱいの階段を上る。もう夜の九時。こんな時間の配達は怪しまれるかもしれない。
マタタビが立ち止まった部屋のチャイムを押すと、中から女性が出てきた。
二十代後半くらいだろうか。端正な顔立ちで、どことなく見覚えがあった。桃のような甘い香りがした。
「これ、お届け物です」
「ありがとうございます」
向こうは、きょとんとしている。本当に郵便配達なのか、という顔だ。制服も着てないし、あろうことか猫を連れている。しかも、配達物の封筒は猫の背中にくくりつけられている。
困惑しつつ、女性はマタタビの背中から封筒を受け取った。差出人の名前を確認すると、彼女の目が大きく見開いた。
「では失礼します——」
踵を返そうとして、呼び止められる。
「ちょっと待って」
「はい」
「少し触ってもいい?」
「どうぞ」
私は微笑んだ。勝手に許可を出すな、という目でマタタビが睨んでくる。抗議は夜風に流され、女性の白い手がマタタビに伸びた。
「昔、彼とよくお店に猫を見にいってたの。一緒に住むようになったら飼おうって約束しててね」
「そうだったんですか」
「結局、叶わなかったけどね」
苗のお兄さんの交際相手だった女性に似ている気がした。向こうは私のことを知らないけど、苗とも仲良くしていたから、写真で見たことがある。たしか名前は犬飼有紗さんだ。
「有紗さんですよね? 私、小倉苗の友人の帯刀まなと言います」
「苗ちゃんの?」
やっぱり、思った通りだ。
「苗に見せてもらった写真で見覚えがあったんです」
「そうなんだ」
有紗さんは嬉しそうに、表情を明るくした。
「よかったらお茶でもどうかな」
私たちはお言葉に甘えて、彼女の部屋に入った。玄関から直進した場所にこたつがあり、腰を下ろした。マタタビもこたつで丸くなる。そのままカルタのイラストにできそうだ。
私はこたつの上に置かれた封筒を眺める。差出人の名前に『小倉幸也』と書かれていた。やっぱり、苗のお兄さんだ。
「どうぞ」と有紗さんがお茶を出してくれる。
「でもどうして今になって幸也君の手紙が?」
有紗さんが不思議そうな顔で言った。
「て、手違いで遅くなったんだと思います。ほら、海外から送られてきた手紙だし」
詳しい事情は分からないけど、マタタビの護衛が見つからなかったから、今まで運べなかったのだと思う。
私はふと、テレビの横の写真立てを見た。お兄さんと有紗さんが写っていた。 テーマパークでお揃いの猫耳をつけている写真だった。
「これ、苗のお兄さんの写真ですか?」
「ええ。彼ね、猫が好きだったの」
なぜか、マタタビが誇らしげな顔をする。
「幸也君とは大学時代に知り合ってね、社会人になってからもお付き合いしてたの」
有紗さんが写真立てを手に取りながら、目を細める。
「結婚を視野に同棲しようって話をしてた矢先に、ちょうど一年くらい前かな、幸也君の海外異動が決まって大喧嘩になっちゃった。『私より仕事の方が大事なんだ』って」
「それからお兄さんとは連絡を?」
「ううん。交際関係が続いてかどうかすら怪しいくらい」
有紗さんがうつむいた。
「半年前、彼の訃報を聞いたときにね、自分のせいだって思った」
「そんなこと……」
「向こうの気持ちはすでに離れてたかもしれないし、彼が最期に私のことをどう思ってたかは正直自信ないな」
「でも実際、こうして手紙が届いてるじゃないですか!」
私が言うと、有紗さんはほんの少しだけ表情を明るくした。
「開けてみようかしら」
有紗さんが微笑む。筒の糊付けを剥がし、手紙を取り出した。こたつの上に肘をつきながら、手紙を読みはじめる。私は反対側から、手紙を覗いた。
『急な手紙をお許しください。こっちに来てから、凄惨な現場を目の当たりにし、よく有紗との日々を思い出します。朝から晩まで警察と武装組織が毎日のように衝突しています。今日も今から取材です。現地の記者によると、銃撃戦が起きる可能性もあると言います。ところで、こっちでも猫はとても敬愛されているようです。よく野良猫を見ます。いつ帰ってこれるか分からないけど待っていてください。そのときは今度こそ猫を飼いましょう。有紗のことをずっと愛してる。 幸也』
有紗さんの手紙の字を追う視線がとまった。
すっ、と線を引くように涙が一筋流れる。
「会いたい」
震える声で有紗さんが言った。
「彼のことを信じてあげられなかった」
悔恨の声だった。
「会って謝りたい……」
有紗さんの涙で手紙に濡れていく。まるで言葉にならない思いが、滲んでいくみたいに。マタタビは寄り添うように有紗さんの隣に移動していた。私にできるのは、彼女の癒しを願うことだけだった。
*****
有紗さんのアパートをあとにし、帰路に着きながら、私は苗に電話をした。夜が遅くても彼女は平然と起きている。
「苗はこのこと知ってたの?」
「何のこと?」
この反応は、多分本当に何も知らないのだろう。
「ううん、何でもない。また連絡するね」
電話を切ると、マタタビが横から口を挟むように言った。
「本当にただの偶然だ、小倉苗は何も知らない」
私は頷いた。
「公園まで歩こう」
また夜道を歩き出す。マタタビはどこか複雑な表情をしていた。過敏に表情を読み取れるわけじゃないけど、心ここにあらずに見える。彼に心があれば、だけど。
「どうだった? 初めての仕事は」
「色々あったけど有紗さんに手紙を届けられてよかったです。これで彼女は救われますね」
「そうだといいが」
マタタビはなぜか含みのある言い方をした。よかったに決まってるのに。マタタビの不思議な力が本物なら、幸也さんの最期の手紙を有紗さんは一生忘れないはずだ。
「でも、お兄さんは身の危険を予期してあの手紙を書いたのかもしれないから、欲を言えばもっと早く届けてあげたかったです。どうして手紙を届けるのに半年も掛かったんですか?」
「君は何か勘違いしているようだ」
「……どういうこと?」
「私は依頼通りに仕事を全うしただけだ」
思わず足をとめた私に、マタタビが振り返って言う。
「一年後にこの手紙を届けろと小倉幸也に依頼されていた。当時、彼はまだ日本にいた」
心臓の鼓動が早くなっていた。頭に嫌な考えが過る。
「また連絡するねってもう? まだ十分しか経ってないけど?」
私はたまらず、苗に電話をかけた。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「うん」
「ほら、この前居酒屋で飲んだとき、お兄さんが仕事のことで悩んでるって言ってたでしょ」
声が早くなっていた。早く反証がほしかった。
「ああ、うん」
「あれっていつの話?」
「一年前かな、兄貴が海外に行く前。だって向こうに行ってから、ちっとも連絡くれなかったし」
「どういう悩みか分かる?」
「職場の人間関係って言ってた」
礼を言って、苗との電話を切った。手にしたのは、反証じゃなく証左だった。
苗のお兄さんは、海外へ行く前に職場の人間関係で悩みを抱えていた。そして、自ら志願して海外支社へ転勤した——。
それが意味するところは。
「じゃあ、お兄さんが海外への配置を志願したのって」
私たちの電話を聞いていたマタタビは静かに呟いた。
「おそらくいじめやハラスメントが原因だろう、それも生半可なものじゃない」
「どうしてそう分かるんですか」
「彼が自殺したからだ」
私は言葉を失っていた。
マタタビの言葉は重く、心にのしかかってくる。
「自殺……?」
「ああ、彼は紛争地域でたまたまトラブルに巻き込まれて亡くなったわけじゃない。むしろ、最初からそれを望んでいた」
「まさかはじめから死ぬつもりで中東の支局に?」
「そうだろう」
「でもおかしいですよ。でも、じゃあどうしてあんな手紙を有紗さんに送ったんですか。死ぬつもりだったのに、待っていてくれなんて。どうしてそんなことを……」
私は自分の震えていることに気付いた。
「それに自殺するだけなら日本でもできたはず」
「それでは意味がなかったんだろう」
私は自分の体が強張っていくのを感じた。まっすぐ歩く力さえ失いそうだった。
「あの感動的な手紙を受け取って、彼女の中で彼は永遠の存在になったはずだ」
それが苗のお兄さんの、幸也さんの望みだった。
「彼女はきっと新しいパートナーを探したりしない」
「そうだと思います……」
「犬飼有紗は小倉幸也をずっと待ち続けるだろう。もうこの世に存在しない彼を。そのことで、彼女は人生の大きなものを失うかもしれない。大切な時間や幸せを」
マタタビの声は冷たい。
「それじゃあまるで呪いです」
今となっては、あの手紙の真意は分からない。それでも、彼女はあの手紙を拠り所に生きていくはずだ。
「こういうことはよくあることだ。送り届けた手紙がどれだけ喜ばれても、そこには欺瞞や悪意で満ちている。そしてそういう手紙からは必ず悪臭がする」
「……手紙を届けて本当によかったんでしょうか」
私は沈鬱な声で言った。
「それは私たちの考えることじゃない。私たちはただ仕事をして、そして次の仕事に移るだけだ」
もとの公園に戻ってきた。
私がベンチに座ると、隣にマタタビも座った。夜の公園はひんやりと冷たい。私は深く息を吸った。肺の中が冷たい空気で膨れる。
「また明日、配達に出かける。今度は三日くらいかかるだろう」
私はすっかりその場から立ち上がれなくなっていた。自分の中の大切な何かが、粉々に砕かれたような、そんな気持ちだ。
「辛くないんですか」
何か話し続けていないと、バラバラになってしまいそうだった。
「別に。私は人間ではないからな。人間ほど、感じやすくないんだ」
「あなたはどうしてこの仕事を?」
「理由なんてないよ、猫はきまぐれなのさ」
そう言って、マタタビは尻尾をくゆらせた。透明なひげが少し風に揺れる。それから私の膝の上に乗った。
冷えきった身体に、じんわりとマタタビの温度が伝わってくる。
目の前には猫が一匹。まるまるとした黒猫だ。なぜか背中に封筒がくくりつけてあって、アンバーの瞳を夜空の月みたいに光らせている。
「何を見ている」
目の前の黒猫が言った。
間違いない。私は酔っている。少し記憶を遡ってみる必要がありそうだ。
*****
三年間勤めていた食品メーカーを辞めたのが昨日のこと。悲嘆に暮れ、寝込んでいたところ、今朝になって友人の小倉苗から「会いたい」と連絡があった。
居酒屋に集まったのが昼の一時。ハイペースで飲み続けて、二時半を過ぎた頃には、全身に酔いが回っていた。
「先週の社内会議で上司のプレゼンが通ったんだけど、私が温めてた企画の横取りだったんだよね。一生懸命プレゼン資料も作ってたのに、勝手に発表して自分の手柄にしたんだよ? さすがに看過できなくて抗議したら、文句を言うならクビにするぞって脅されて。でね、辞めてやったの」
「まなベロベロじゃん」
苗が困惑気味に言った。
「でも、ひどい話だよね。兄貴が生きてたらパワハラで記事にしてもらえたのに」
生前、苗のお兄さんは大手の新聞社で働いていた。自ら志願して中東の支局へ異動し、半年前、紛争地域の取材中に命を落とした。銃撃戦に巻き込まれたことが原因だった。お兄さんの訃報を受けてから、彼女はしばらく塞ぎ込んでいたけど、そういう冗談を言えるくらいには回復したらしい。
「そういえば、兄貴も仕事のことで悩んでるって前に言ってたな」
死と隣り合わせの現場で働いていたのだから、気に病むのも当然かもしれない。
「ところでさ、私がまなに仕事紹介してあげる」
「ホント!?」
「はい、これ」
そう言って、苗は小さなメモ用紙を掲げた。『求人募集 定員一名』という文字とともに、電話番号が記載されていた。
「さっきトイレ行ったとき、そこのクルーズ船のポスターがめくれててさ。その裏に貼ってあったやつ」
「……めっちゃ怪しいじゃん」
「まぁまぁ、騙されたと思って電話してみたら?」
そんな感じで苗と別れたあと、私は酔いに任せてメモ用紙の電話番号に連絡した。どうせ何かのイタズラだろうと思ったけど、電話は繋がり、即時採用の運びになった。早速仕事があるから、と指定の場所にくるよう言われた。私はその話を受け入れた。酔いと失職で、正常な判断能力は失われていたと思う。
電車に揺られて一時間。
そんなわけで、私は見知らぬ町の見知らぬ公園にいる。周囲はすっかり薄暗くなっていた。
「募集を見て来たんだろ?」
「は、はい……」
先述の通り、目の前には猫がいて、私に話しかけている。辺りを見渡してみても、私たちの他には誰もいない。手の込んだイタズラというわけではなそうだ。
酔いのあまり、ただの人が猫に見えているのかもしれない。
「何を驚いた顔をしてる」
「す、すみません」
頭を下げて、重大な問題点に気付いた。どうにも目線が合わないのだ。それどころか、私が見下ろすような形になってる。
私は腰を落とし、四つん這いになった。それから、今一度先方を見た。
長靴とまではいかないけど、ボロボロの靴を履いていた。それに、ピーナッツ型の瞳。真っ黒な被毛。ほっぺたには白いひげ。辺りは薄暗いのに、その瞳が私をしっかりと捉えるのは、夜目が利くからだろう。
やっぱり、先方は猫だった。言葉を話す、真っ黒な黒猫だ。
「求人募集を見て来た帯刀まなです。よろしくお願いします」
「侍みたいな名だ」
黒猫の声は低くて渋かった。それでいて、どことなくチャーミングだ。話し方は、粗暴なのか品があるのか、よく分からない。
「ところで何だ? その不細工な姿勢は」
四つん這いの私を見て、黒猫が言った。
「いや、見下ろすのは失礼かと思って」
すると、黒猫がひょいと器用に私の肩の上に乗った。
「これで問題ないはずだ。立ちなさい」
黒猫が落ちないように、ゆっくり立ち上がる。首を横に向けると、彼と目が合った。思わず頭に手を伸ばす。衝動的に頭を撫でたくなったのだ。
「何をするんだ、無礼者」
「え、いや」
「撫でるなら、もっとしっかり撫でろ」
私は黒猫の被毛を大きく撫でた。封筒が手に触れる。この封筒は一体何なのだろう。私が雇われた理由と関係あるのだろうか。
「さぁ行くぞ」
「どこに?」
「仕事に決まっているだろ」
*****
公園を出て、私たちは歩き出す。夜風に吹かれ、酔いが醒めても、目の前にいるのは猫のままだった。歩行の度に尻尾が揺れている。夜空を見上げると、ナイフで切り分けたみたいな綺麗な形の半月がぽつんと浮かんでいた。
見知らぬ土地を歩くのは、ちょっと旅気分だ。
「これって、どんな仕事なんですか?」
「手紙を運ぶのさ、夜明けまでに」
背中に封筒がくくりつけられているのは、そのためだったらしい。暗くて差出人の名前は読めないけど。
「私は伝書猫」
聞き慣れない三文字だ。はじめまして。
「依頼人から預かった手紙を送り届けながら、各地を転々としてる。私は旅猫という種族なんだ。旅をしないと死んでしまう」
たしかに、猫はふらっと現れて消えるイメージだけど、そういう猫もいるらしい。
「でも、出紙を送るだけなら普通の郵便配達で事足りるはずなのに、どうしてお客はあなたに手紙を?」
「私が運ぶ手紙は特別だからさ」
「特別?」
民家の塀の上に黒猫が飛び移る。
「私が運んだ手紙の内容は、受け取った人間にとって、生涯忘れられないものになるんだ。それが良い内容であれ、悪い内容であれ」
「忘れらないものになる」
私は思わず復唱した。
どうやら彼は不思議な力を持っているらしい。もう何を言われても驚かない。人の言葉を話す時点で、もとより常識は通用しないのだ。受け入れるしかない。
「ところで、どうして私は雇われたんでしょう」
「護衛のためだ。見ての通り私はか弱い猫だからな、カラスに襲われたり、人に絡まれたりするんだ」
「それは困りますね」
「そこで君の出番だ。私を守って、一緒に手紙を届けてほしい」
私はこくんと頷いた。
「あなたはどうして人の言葉を話せるんですか?」
「話すと長くなる。それと、私の名はマタタビだ」
「家猫になる気は?」
「おぞましいことを言うな!」
意図せず、逆鱗に触れたらしい。正確には被毛だけど。
かれこれ三十分は歩きっぱなしだった。黒猫もといマタタビも、短い足で歩き続けていた。周囲はすっかり真っ暗だ。酔いが醒めても、歩行は心もとなかった。猫と違って、人間は夜目が利かないのだ。
「むむ」
「どうしました?」
「マタタビの匂いがする」
「寄り道はダメですよ、この手紙を夜明けまでに届けるんでしょ」
私はマタタビの体を抱えた。少し不服そうな顔をして、それから私の腕の中に収まった。
「この手紙の差出人はどんな人なんですか?」
「依頼人のことは分からない。応接は私の担当ではないからな」
たしかに、電話対応も若い男性だった。そういう補佐がいるのだろう。
「だが、この手紙からは悪臭がする」
「悪臭?」
「ああ、焦げた甘い匂いがする」
よく分からないけど、焼きすぎたアップルパイみたいな感じだろうか。
「手紙から匂いがするんですか?」
「その中身からだよ。きっとこれは恋人を思う手紙だ」
マタタビの声が、どこか悲しげに響いた。
「多分、もう差出人はこの世にいない」
「……どういうことですか」
「言葉の通りの意味だ。そういう匂いがする」
仔細を訊ねようとして、ポケットのスマホが鳴った。苗からの着信だった。マタタビを地面に下ろして、電話に出た。
「まな、あの電話番号どうだった?」
「雇ってもらえたけど、何これ。苗は知ってたの?」
「何のこと?」
間の抜けた声から察するに、本当に事情を知らないらしい。苗は、飲み屋でたまたま見つけた求人募集のメモを、冗談半分で私に見せただけなのだ。
「ていうか、もう雇ってもらえたの?」
「うん。かなり変わった仕事だから、お兄さんが生きてたら取材してほしいくらい」
「へぇ、そんな面白そうな仕事なんだ。危なくはないの?」
「身の危険はなさそう」
「よかった」
電話を切る。スマホから顔を上げると、歩道の先から野犬が歩いてきた。目がくぼみ、舌がだらしなく露出していた。
今にも襲いかかってきそうだ。
「さぁ、お前の出番だぞ」
マタタビが嬉しそうに言った。
「こういうときのためにお前を雇ったんだ」
「なるほど」
やっぱり、身の危険も多少はあるかもしれない。
私はマタタビを掴んだ。そして胸に抱え、逆方向に全速力で走った。もともと、徒競走は得意な方だ。
爆ぜるように野犬が吠えて、追いかけてくる。道の角を曲がり、避難所のように明かりを発していた自販機の脇に隠れる。野犬は私たちを見失い、去っていった。
私はその場に蹲った。
「ふぅ」
一息ついてると、マタタビが胸の中から身を乗り出した。
「あっちからマタタビの匂いがする」
「こら」
一喝して、また歩き出した。
マタタビには自分で歩いてもらうことにした。
見知らぬ土地の景色を眺めながら、ふと私は何をしているのだろう、という思いに駆られた。おまけに眠気がパイシートのように私を包む。
「私は何をしてるんだろ……」
「考えるな、踵が擦り切れるまで歩き続けろ」
疲労で怒る気にもなれなかった。マタタビが少し先を歩くような形になる。
沿道に乳母車を引くお婆ちゃんがいた。こんな時間に買い物だろうか。
転ばないかな大丈夫かな、と目で追ってると、そのお婆ちゃんがすくいあげるようにしてマタタビの胴体を掴んだ。そのまま乳母車の中に放り入れると、背を向けて去ろうとした。
私はとっさに声を出した。
「それは私の猫です!」
普段とは明らかに別の場所から出た声だった。
「困ります」
私はお婆ちゃんに追いつき、懇願した。
「あんまり可愛かったもんだから、つい」
お婆ちゃんは許しを請うように笑った。凄く朗らかだった。
マタタビを乳母車の中から出してくれる。彼は私以外の前では話さないと決めているのか、「にゃー」と鳴いていた。まさに猫かぶりだ。
マタタビと、道の続きを歩く。空き缶、しなびたタバコ、ガムの包み、そんなものが路上に落ちている。
「今のはれっきとした猫さらいだ。君がいてよかった」
また耳慣れない言葉だ。ずいぶんと遠くに来てしまったことを自覚する。私の旅は、どこに辿り着くのだろう。
*****
「着いたぞ、ここだ」
マタタビの一声で我に返る。顔を上げると、うらぶれたアパートの前にいた。外壁は劣化し、階段も錆びていた。ここが手紙の届け先らしい。築二十年といった具合だ。
赤錆でいっぱいの階段を上る。もう夜の九時。こんな時間の配達は怪しまれるかもしれない。
マタタビが立ち止まった部屋のチャイムを押すと、中から女性が出てきた。
二十代後半くらいだろうか。端正な顔立ちで、どことなく見覚えがあった。桃のような甘い香りがした。
「これ、お届け物です」
「ありがとうございます」
向こうは、きょとんとしている。本当に郵便配達なのか、という顔だ。制服も着てないし、あろうことか猫を連れている。しかも、配達物の封筒は猫の背中にくくりつけられている。
困惑しつつ、女性はマタタビの背中から封筒を受け取った。差出人の名前を確認すると、彼女の目が大きく見開いた。
「では失礼します——」
踵を返そうとして、呼び止められる。
「ちょっと待って」
「はい」
「少し触ってもいい?」
「どうぞ」
私は微笑んだ。勝手に許可を出すな、という目でマタタビが睨んでくる。抗議は夜風に流され、女性の白い手がマタタビに伸びた。
「昔、彼とよくお店に猫を見にいってたの。一緒に住むようになったら飼おうって約束しててね」
「そうだったんですか」
「結局、叶わなかったけどね」
苗のお兄さんの交際相手だった女性に似ている気がした。向こうは私のことを知らないけど、苗とも仲良くしていたから、写真で見たことがある。たしか名前は犬飼有紗さんだ。
「有紗さんですよね? 私、小倉苗の友人の帯刀まなと言います」
「苗ちゃんの?」
やっぱり、思った通りだ。
「苗に見せてもらった写真で見覚えがあったんです」
「そうなんだ」
有紗さんは嬉しそうに、表情を明るくした。
「よかったらお茶でもどうかな」
私たちはお言葉に甘えて、彼女の部屋に入った。玄関から直進した場所にこたつがあり、腰を下ろした。マタタビもこたつで丸くなる。そのままカルタのイラストにできそうだ。
私はこたつの上に置かれた封筒を眺める。差出人の名前に『小倉幸也』と書かれていた。やっぱり、苗のお兄さんだ。
「どうぞ」と有紗さんがお茶を出してくれる。
「でもどうして今になって幸也君の手紙が?」
有紗さんが不思議そうな顔で言った。
「て、手違いで遅くなったんだと思います。ほら、海外から送られてきた手紙だし」
詳しい事情は分からないけど、マタタビの護衛が見つからなかったから、今まで運べなかったのだと思う。
私はふと、テレビの横の写真立てを見た。お兄さんと有紗さんが写っていた。 テーマパークでお揃いの猫耳をつけている写真だった。
「これ、苗のお兄さんの写真ですか?」
「ええ。彼ね、猫が好きだったの」
なぜか、マタタビが誇らしげな顔をする。
「幸也君とは大学時代に知り合ってね、社会人になってからもお付き合いしてたの」
有紗さんが写真立てを手に取りながら、目を細める。
「結婚を視野に同棲しようって話をしてた矢先に、ちょうど一年くらい前かな、幸也君の海外異動が決まって大喧嘩になっちゃった。『私より仕事の方が大事なんだ』って」
「それからお兄さんとは連絡を?」
「ううん。交際関係が続いてかどうかすら怪しいくらい」
有紗さんがうつむいた。
「半年前、彼の訃報を聞いたときにね、自分のせいだって思った」
「そんなこと……」
「向こうの気持ちはすでに離れてたかもしれないし、彼が最期に私のことをどう思ってたかは正直自信ないな」
「でも実際、こうして手紙が届いてるじゃないですか!」
私が言うと、有紗さんはほんの少しだけ表情を明るくした。
「開けてみようかしら」
有紗さんが微笑む。筒の糊付けを剥がし、手紙を取り出した。こたつの上に肘をつきながら、手紙を読みはじめる。私は反対側から、手紙を覗いた。
『急な手紙をお許しください。こっちに来てから、凄惨な現場を目の当たりにし、よく有紗との日々を思い出します。朝から晩まで警察と武装組織が毎日のように衝突しています。今日も今から取材です。現地の記者によると、銃撃戦が起きる可能性もあると言います。ところで、こっちでも猫はとても敬愛されているようです。よく野良猫を見ます。いつ帰ってこれるか分からないけど待っていてください。そのときは今度こそ猫を飼いましょう。有紗のことをずっと愛してる。 幸也』
有紗さんの手紙の字を追う視線がとまった。
すっ、と線を引くように涙が一筋流れる。
「会いたい」
震える声で有紗さんが言った。
「彼のことを信じてあげられなかった」
悔恨の声だった。
「会って謝りたい……」
有紗さんの涙で手紙に濡れていく。まるで言葉にならない思いが、滲んでいくみたいに。マタタビは寄り添うように有紗さんの隣に移動していた。私にできるのは、彼女の癒しを願うことだけだった。
*****
有紗さんのアパートをあとにし、帰路に着きながら、私は苗に電話をした。夜が遅くても彼女は平然と起きている。
「苗はこのこと知ってたの?」
「何のこと?」
この反応は、多分本当に何も知らないのだろう。
「ううん、何でもない。また連絡するね」
電話を切ると、マタタビが横から口を挟むように言った。
「本当にただの偶然だ、小倉苗は何も知らない」
私は頷いた。
「公園まで歩こう」
また夜道を歩き出す。マタタビはどこか複雑な表情をしていた。過敏に表情を読み取れるわけじゃないけど、心ここにあらずに見える。彼に心があれば、だけど。
「どうだった? 初めての仕事は」
「色々あったけど有紗さんに手紙を届けられてよかったです。これで彼女は救われますね」
「そうだといいが」
マタタビはなぜか含みのある言い方をした。よかったに決まってるのに。マタタビの不思議な力が本物なら、幸也さんの最期の手紙を有紗さんは一生忘れないはずだ。
「でも、お兄さんは身の危険を予期してあの手紙を書いたのかもしれないから、欲を言えばもっと早く届けてあげたかったです。どうして手紙を届けるのに半年も掛かったんですか?」
「君は何か勘違いしているようだ」
「……どういうこと?」
「私は依頼通りに仕事を全うしただけだ」
思わず足をとめた私に、マタタビが振り返って言う。
「一年後にこの手紙を届けろと小倉幸也に依頼されていた。当時、彼はまだ日本にいた」
心臓の鼓動が早くなっていた。頭に嫌な考えが過る。
「また連絡するねってもう? まだ十分しか経ってないけど?」
私はたまらず、苗に電話をかけた。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「うん」
「ほら、この前居酒屋で飲んだとき、お兄さんが仕事のことで悩んでるって言ってたでしょ」
声が早くなっていた。早く反証がほしかった。
「ああ、うん」
「あれっていつの話?」
「一年前かな、兄貴が海外に行く前。だって向こうに行ってから、ちっとも連絡くれなかったし」
「どういう悩みか分かる?」
「職場の人間関係って言ってた」
礼を言って、苗との電話を切った。手にしたのは、反証じゃなく証左だった。
苗のお兄さんは、海外へ行く前に職場の人間関係で悩みを抱えていた。そして、自ら志願して海外支社へ転勤した——。
それが意味するところは。
「じゃあ、お兄さんが海外への配置を志願したのって」
私たちの電話を聞いていたマタタビは静かに呟いた。
「おそらくいじめやハラスメントが原因だろう、それも生半可なものじゃない」
「どうしてそう分かるんですか」
「彼が自殺したからだ」
私は言葉を失っていた。
マタタビの言葉は重く、心にのしかかってくる。
「自殺……?」
「ああ、彼は紛争地域でたまたまトラブルに巻き込まれて亡くなったわけじゃない。むしろ、最初からそれを望んでいた」
「まさかはじめから死ぬつもりで中東の支局に?」
「そうだろう」
「でもおかしいですよ。でも、じゃあどうしてあんな手紙を有紗さんに送ったんですか。死ぬつもりだったのに、待っていてくれなんて。どうしてそんなことを……」
私は自分の震えていることに気付いた。
「それに自殺するだけなら日本でもできたはず」
「それでは意味がなかったんだろう」
私は自分の体が強張っていくのを感じた。まっすぐ歩く力さえ失いそうだった。
「あの感動的な手紙を受け取って、彼女の中で彼は永遠の存在になったはずだ」
それが苗のお兄さんの、幸也さんの望みだった。
「彼女はきっと新しいパートナーを探したりしない」
「そうだと思います……」
「犬飼有紗は小倉幸也をずっと待ち続けるだろう。もうこの世に存在しない彼を。そのことで、彼女は人生の大きなものを失うかもしれない。大切な時間や幸せを」
マタタビの声は冷たい。
「それじゃあまるで呪いです」
今となっては、あの手紙の真意は分からない。それでも、彼女はあの手紙を拠り所に生きていくはずだ。
「こういうことはよくあることだ。送り届けた手紙がどれだけ喜ばれても、そこには欺瞞や悪意で満ちている。そしてそういう手紙からは必ず悪臭がする」
「……手紙を届けて本当によかったんでしょうか」
私は沈鬱な声で言った。
「それは私たちの考えることじゃない。私たちはただ仕事をして、そして次の仕事に移るだけだ」
もとの公園に戻ってきた。
私がベンチに座ると、隣にマタタビも座った。夜の公園はひんやりと冷たい。私は深く息を吸った。肺の中が冷たい空気で膨れる。
「また明日、配達に出かける。今度は三日くらいかかるだろう」
私はすっかりその場から立ち上がれなくなっていた。自分の中の大切な何かが、粉々に砕かれたような、そんな気持ちだ。
「辛くないんですか」
何か話し続けていないと、バラバラになってしまいそうだった。
「別に。私は人間ではないからな。人間ほど、感じやすくないんだ」
「あなたはどうしてこの仕事を?」
「理由なんてないよ、猫はきまぐれなのさ」
そう言って、マタタビは尻尾をくゆらせた。透明なひげが少し風に揺れる。それから私の膝の上に乗った。
冷えきった身体に、じんわりとマタタビの温度が伝わってくる。
