菅生伊澄は侮れない



「おーい、深谷」
「…………」
「ふかやー。俺の声は届いてるか?」
「……はっ、すみません!」
「悪いんだがノート全員分回収した後、数学準備室まで運んでくれないか?」
「あぁ、わかりました。すぐやります!」

気がついたら授業が終わっていた。
あの日の伊澄の言葉が気になりすぎて、最近ずっと上の空状態が続いている。
肝心の伊澄はというと、以前と何も変わらない。
なんだか俺だけ意識してるみたいだな……。
とりあえず学年が違うのもあって、校内で伊澄と顔を合わせることなんか滅多にないはずーー。

「あ、真生先輩だ」
「っ⁉︎ な、なんで伊澄がここに⁉︎」

教科担当に頼まれたノートを運んでいたとき、伊澄とバッタリ遭遇。
しかも俺、めちゃくちゃ動揺しまくってるし。

「それ重そうっすね。俺も運ぶの手伝いますよ」
「あ、いや、俺一人で大丈夫ーー」
「口実だから」
「え?」
「真生先輩と一緒にいるための」

スッと俺の手元から半分以上の山を取った。
コイツはさらっととんでもないことを無自覚に言うから、毎回これを食らう俺は反応に困る。

「あ、数学準備室ここっすね」

指定された机の上にノートを置き、あとは教室に戻るだけ。

「時間取らせちゃってごめんな。手伝ってくれて助かった、ありがとう」
「いーえ。ほんとはもっと真生先輩と一緒にいたいけど」

っ、ほんとにコイツは……。
危うく動揺が態度に現れるところだったのをグッと堪えた。

「つ、次の授業遅れるから教室戻ろう」

……ん? ってか、この扉なんで開かないんだ?
扉のノブを何度か右左に動かしながら押してみても、まったく開きそうにない。
え、まて。そんなことある?

「伊澄……大変だ。扉が開かない……!」

おかしい、ここに入ったときは確かに開いたのに。
なぜ今開かないんだ⁉︎

「あー、それ押すんじゃなくてーーいや、なんでもないです」

若干パニックになる俺と、こんな状況だってのになぜか笑顔の伊澄。

「俺たち閉じ込められちゃいましたね」
「なんでお前そんな冷静なんだ⁉︎」
「俺の願い叶っちゃったなー」
「願い?」
「真生先輩ともっと一緒にいたいってこと」
「今はそんなこと言ってる場合じゃない! とにかくスマホか何かで連絡ーーって、俺は教室に忘れてきた……」
「俺も持ってないです。せっかくなんでこっちでゆっくり過ごしません?」

呑気なことを言いながら、奥の壁にもたれかかってその場に座り込む伊澄。

「ほらー、真生先輩も座って」

伊澄ってたまに強引で、意外とマイペースなところあるよな。
焦る俺とは対照的に、むしろ今の状況を楽しもうとしているようにも見える。
今はここから出るのは不可能だと考えた俺は、諦めて伊澄の隣に座り込んだ。

「あ、授業開始のチャイム鳴りましたね」
「サボりってことになるのか」
「誰にも邪魔されない密室に二人ってなんかいいっすよね」
「何かいいことあるのか?」
「真生先輩のこと独占し放題ってことですよ」

俺の肩に頭をコツンと乗せて、ニッと笑って見せた伊澄。

「なっ、は⁉︎」

動揺丸出しのリアクションをした俺は、すぐそばにある本棚に軽く頭をぶつけた。
その反動で上から本がバサバサッと落ちてきた。
思わず目をつぶると俺の身体に痛みはなく、かわりに甘い香りに包み込まれた。

「……っぶな。先輩ケガしてないっすか?」
「だ、だいじょぶ……だ」

それよりも今の伊澄との距離感のほうが大丈夫じゃない。
俺いま伊澄に抱きしめられてる……?
身体が固まって動かないし、こんな近くで伊澄の体温を感じるのは初めてだ。

「真生先輩」

伊澄のよく通る声が、いつもより何倍も近くで聞こえる。
伊澄を近くで感じると、それに反応するように心臓の音が徐々に強く音を立て始める。

「い、伊澄ーー」
「……動かないでじっとして」

耳元で囁かれた声に一瞬クラッとした。
伊澄の指がそっと俺の首筋に触れて、下に落ちるようにゆっくりなぞる。
伊澄が触れた場所から熱が広がっていくみたいに熱い。
バクバクと激しく鳴る心臓の音、顔全体が熱くなって……とことん伊澄に翻弄されてる。

「俺でいっぱいな先輩……可愛いっすね」

ダメだダメだ。
伊澄は過剰に摂取しすぎると俺の心臓がもたない……!

「今どんな顔してるか俺に見せて」
「む、無理だ……絶対に無理……!」
マスクという名のガードがあってよかったと本気で思う。

「じゃあ……俺のことどう思ってます?」
「ど、どうって……」

今日の伊澄はやけに積極的で直球で、かなり踏み込んだことを聞いてくる。
お互いの距離が近すぎて、不意に伊澄の手に触れてしまった。

「ご、ごめ……っ」
「いいよ、離さないで」

とっさに顔を上げた瞬間、間近で目線が絡む。

「俺から目そらさないでーー真生先輩」

俺をまっすぐ見つめてくる澄んだ瞳は、逃がさないと言わんばかりにギラギラと鋭さを感じる。
甘い沼のような……一度落ちたらきっと抜け出せない。





ここ数日、突然伊澄が俺の前に全く姿を現さなくなった。
朝の電車では会わないし、帰りもいつもなら伊澄が俺のクラスに来てその流れで一緒に帰っていたけど今はそれもない。
休み時間に俺のクラスに来ることもなくなったし、連絡だって一切ない。
こんないきなりパタッと姿を消すなんて、伊澄は一体何を考えているんだ……落差激しすぎるだろ。
それともあれか……俺に興味がなくなって飽きたから、とか。
今までこんな伊澄のことを考えて悩むことなんかなかったのに、気づけばほぼずっと伊澄のことが頭にあって離れない。

そしてさらに数日が過ぎた。
職員室から戻る途中の廊下で、少し離れた反対側から伊澄が歩いてくるのが見えた。
どんな顔をして会えばいいのかわからず、とっさに廊下の隅に隠れてしまった。
気づかれない程度に顔を出すと、いつもと変わらない伊澄がいて、なんだか虚しくなった。
そう、だよな……。もともと俺と伊澄は住む世界が違って、同じ世界で交わることはなかったんだから。
勝手にショックを受けて傷ついて、気づけば伊澄のことしか考えていなくて。
なんだこれ……頭の中ずっと伊澄でいっぱいじゃん……。
いつも俺は伊澄の優しさに甘えていた。
いざ伊澄が自分のそばから離れた途端、自分から行動する勇気もないくせに、気持ちばかりがモヤモヤしていく。
これでいいのか……何度も自分に問いかけるけど、いざとなると行動に移せない俺は本当にダメなやつだ。





放課後、俺はとりあえず伊澄のクラスメイトの子に声をかけてみる作戦に出ることにした。
伊澄のクラスの前をうろうろしていると、男子生徒三人組が出てきた。

「あれ、伊澄もう帰ったんだ? アイツ最近ホームルーム終わったら秒で帰るよな」
「なんか付き合い悪くね?」
「あー、そういえばバイト始めたらしいぜ? 女子たちが噂してたわー」
「バイト⁉︎」
あ、しまった。思わず会話に反応してしまった。

「うわっ、びっくりしたー」
「あっ、急にごめん。その、伊澄の話が聞こえたからつい……」
「えーっと……あ、もしかして伊澄と仲良い先輩っすか?」
「あー、伊澄がよく話してるあの先輩か」
三人とも何やら納得した様子。

「結構夜ギリギリまでバイトしてるって話してたよなー」
「カフェバーだっけか?」
「そうそう。そこのホールで働いてるらしい」
「夜遅いから寝不足で毎日遅刻ギリギリだもんなー。無理してねーか心配だよな」

朝の電車の時間が合わないのはこれが理由だったのか。
いや、だったら俺にひと言でも連絡くれたらーーって、だったら俺が連絡したらいいだけか。

「バイトのこと伊澄から聞いてないっすか?」
「う、うん。その最近、伊澄と連絡取ってなくて、なかなか会えてない」
「なるほどー。んじゃ、よかったら今から俺たちと伊澄のバイト先行きます?」
「い、いいのか⁉︎」

なんて優しい子たちなんだ……!
俺は今おそらく人生で最大級にコミュ力というものを発揮している気がする。





「よっ、伊澄! バイト頑張ってるかー?」
「は? なんでお前らがーーって、ちょっとまて」

三人の後ろに隠れて立っている俺を見つけた途端、伊澄がこれでもかってくらい目を見開いていた。

「なんで真生先輩も一緒なんすか」
「お前に会いたいんだとさ。先輩と仲良いんだろー? なんでバイトのこと黙ってたんだよ?」
「……作戦だよ」
「まあ、とりあえず先輩を連れて来てやった俺らに特別サービスよろしくな!」
「なんもサービスねーよ。奥の席案内するから」

伊澄のバイト先の制服姿、破壊力すごいな……。
前髪も軽く上げてるのか、いつもの伊澄よりだいぶ大人っぽく見える。

「これメニューな」
「おっ、サンキュー。伊澄くんのオススメはなんですかー?」
「そんなのねーよ。自分で決めろ」
「お前めちゃくちゃ冷たいのな」

伊澄が同級生と喋ってる姿すごく新鮮だ。
俺と話すときは気を遣ってるのかいつも敬語だし。
すると、伊澄の目線が俺のほうに向いた。

「真生先輩」
「は、はい!」
「ふっ、なんでそんなかしこまってるんすか」
「いや、いきなり話しかけられたから、その」
「これ、うちの店のオススメなんでよかったら」

メニューに大きく載っている甘くて美味しそうなフレンチトースト。
もしかして、俺が甘いの好きだっていうの覚えてくれてた……とか? いや、それはさすがに自意識過剰すぎか。

「おいおい伊澄くん? キミは数秒前の記憶をすぐ失うタイプかね?」
「あからさまに先輩だけ贔屓してるだろ!」
「当たり前だろ。真生先輩とお前らを一緒にすんな」

いつもと違う伊澄の一面を見れたかと思うと、胸の辺りがくすぐったくなる。
それから伊澄オススメのフレンチトーストを食べたけど、メープルシロップの甘さと相性が抜群ですごく美味しかった。
二時間くらいがすぎて、みんなと帰ろうとしたときだった。
伊澄が俺にだけ聞こえるように、耳元でそっと囁いた。

「俺、今日これで終わりなんで。真生先輩だけ裏口で待っててください」

言われた通り、店の入り口とは反対にある裏口で伊澄を待つ。
伊澄は俺が会いに来たことどう思ってるだろう?
そもそも俺は伊澄に避けられてるかもしれないわけで。

「真生せーんぱい」
「……うわっ、びっくりした」
「待たせちゃってすみません」
「俺のほうこそ突然押しかけてごめん」
「先輩から会いに来てくれたの初めてですね」
「迷惑……じゃなかったか?」
「まったく。むしろ先輩が来てくれてめちゃ嬉しいっすよ」
ゆっくり顔を上げると、伊澄がいつもの顔で笑っていた。

久しぶりに顔を見て、声を聞いて……自分の中で嬉しい感情が込み上げてくる。

「先輩に会えなくて俺ものすごーく寂しかったんですよ」

伊澄の手が、軽く俺の手に触れてくる。

「それ矛盾してない……か? 俺はてっきり伊澄に避けられたのかと思って」
「俺のことたくさん考えちゃいました?」

返す言葉もない。
きっと、全ては伊澄が考えたシナリオ通り。

「真生先輩の頭の中、俺でいっぱいにしたかったから」

なんだこれ、俺の気持ちどうなってる……?

「こうして俺に会いに来てくれたってことは、そういうことですよね?」
「俺いつも伊澄の優しさに甘えてた……から」
「むしろもっと甘えてほしいですけどね」
「自分から行動するのも大事だと思って。それと……」
「それと?」
「伊澄に会いたかった……から」

きっとこれが俺の中にある本音。

「……素直なの可愛すぎでしょ」

伊澄といると、自分がまだ経験したことのない感情がたくさん出てくる。

「俺ばっかり真生先輩でいっぱいだと思ってたから」
「そんなの俺だって、伊澄でいっぱいに決まってーー」

おそらく何も考えずに発したのはほぼ無意識。
ハッとしたときには、ほぼ全てを言い切っていた。
下を向くと、覗き込むように伊澄が見てくる。

「俺のぜんぶ独占していいのは真生先輩だけですよ」

この衝動の正体は、たった一つしかない。

「だからさ……早く俺も独占させてよ」


俺は伊澄のことが好きなんだーー。