俺の平凡な日常は、とある後輩の存在でガラリと変化した。
今、俺のクラスの入り口で女子たちに囲まれているこの男ーー菅生伊澄。
女子の間で何かと話題になり注目を集める超がつくほどの人気者。
そんなとんでもない人気を誇る男がなぜーー
「真生せんぱーい」
俺の名前を呼んでいるんだろうか。

「おー、また王子が迎えに来てんじゃん」
「透馬……その呼び方やめろ」
「真生に懐いてんなー。お前ほんと何したんだよ」
「別に何もしてない」

あの電車での一件以来、伊澄は朝と放課後は俺にあわせて同じ時間の電車に乗るし、休み時間もよく俺のクラスに来るようになった。

「真生先輩。俺のこと無視するとかひどーい」

俺が呼んでもなかなか来ないのに痺れを切らしたのか、伊澄が俺の席まで来た。

「俺の声聞こえてます?」
俺と目が合うように、伊澄はグッと顔を近づけてくる。
「先輩さえよかったら一緒に帰りましょ」
その光景を見ていた女子たちから軽く悲鳴のようなものまで聞こえてきた。
あぁ、周りの視線が痛すぎる。
耐えきれなくなった俺は、伊澄の手を引いてそのまま教室をあとにした。

「真生先輩から手繋いでくれるとかうれし」
「はっ、いやこれはごめん!」
「いーじゃん。なんならもっと触れていいっすよ」

学校を出てからも伊澄はずっとこの調子だ。
それにしてもコイツいつもビジュいいな……。
六限が体育だったのか前髪をピンで留めてるけど、俺がやったら悲惨なことになりそうだ。

「あのさ、なんで最近俺に絡んでくるんだ……? 俺、お前に何かしたーー」
「真生先輩と一緒にいたいから」
「……は、え?」
「やっと俺の存在認知してもらえたし」
「いや、お前がとにかく有名なのは知ってる」
「そうじゃなくて。真生先輩の世界に俺が入れたことに意味があるんですよ。わかります?」
「いや、よくわからん」
「名前覚えてもらえただけで嬉しくて死ねます」

それはいくらなんでも大袈裟すぎないか?

「伊澄って呼ばれるたびに心臓飛び出そうなの抑えてんすよ」

冗談っぽくも聞こえるが、本気だとしても伊澄がこの発言をする意図が全く読めない。

「それに、俺ずっと真生先輩のこと気になってたんで」

それはどういう意味……だ?
おそらく顔に出ていたんだろう。
それを汲み取った伊澄がはっきり言った。

「入学したころからずっと」
「は⁉︎ え、そんな前から⁉︎」

驚きのあまり、普段人と目を合わせるのが得意じゃない俺が思いっきり伊澄の顔を見た。

「なかなか声かけられなくて見てるだけだったんすよ」
「そう、だったのか」
「だから、この前の電車での出来事は真生先輩にとっては嫌なことだったかもしれないですけど、俺からしたら真生先輩を助けられたし話すきっかけもできたんで、あのとき行動してよかったなって思ってます」

ここでひとつの疑問が浮かぶ。
昔の俺と伊澄にどこか接点あった……のか?
俺が覚えていないだけで、伊澄にとっては過去に何か印象深い出来事があった……とか。

「これからも俺は遠慮しないんで」

はたしてこの距離感、許してもいいんだろうか?





「あー、次の日本史地獄……俺絶対寝るわ」
「昼休み明け五限の日本史はキツい……」
「日本史のじいちゃん先生の声、あれはもはや睡眠を促してるよな」

授業が始まる前だっていうのに、透馬はすでに眠そうにあくびをしている。
しかも今回は図書室で授業のため、休み時間中に教室を移動しなくてはいけない。
図書室は一年がいるフロアの廊下を通り抜けた場所にある。
他学年のフロア、地味に緊張するんだよな……。慣れない場所に足を踏み入れる感覚というか。

ってか、あれ伊澄じゃないか?
廊下の隅で今日も相変わらず女子に囲まれてるのがわかる。
ほんとアイツの人気すごいな……。
ますます俺に関わってくる理由が謎すぎる。

「ねぇ、なんで伊澄は彼女作んないの〜」
「彼女には困ってないし」

伊澄が言うなら説得力ありそうなセリフだ。

「ついに本命できたの⁉︎」
「本命、ね」
「何その意味ありげな感じ!」

ちょうど伊澄たちの横を通り過ぎる寸前だった。

「俺の本命この人」

いきなり横から腕を掴まれ、なぜか俺の肩に伊澄の手が回っている。
え、は? なんだこの状況?

「俺いま真生先輩に夢中なんだよね」

周りにいる女子たちみんな何言ってんだって顔してる。
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだろうか。

「お、おい伊澄……! からかうな!」
「えー、正真正銘の本命ですって」

さらに肩を抱き寄せられて、伊澄の腕の中で固まることしかできなかった。
さっきの本命発言はなんだ?
深く考えるだけ無駄だろうし、きっと冗談に決まってるーーそう思いたいのに、伊澄はどんどん俺との距離を縮めてこようとするんだ。





あぁ、失敗したな……。
放課後、下駄箱で靴に履き替えた俺は、どんよりした空を見上げていた。
いま外はとんでもないくらい雨が降っている。
おまけに風も強いときた。
朝のニュースで今日は夕方から激しい雨が降ると予報があったのに傘を忘れてきてしまった。
さてどうするか……。このまま濡れて帰るにしても雨の量が凄すぎて視界不良なのは間違いない。

「真生せーんぱい」
「い、伊澄」
「そんなとこで突っ立って何してるんすか?」

伊澄の右手にはビニール傘。
そりゃこの天気で傘持ってないの俺くらいだよな……。

「もしかして傘忘れたとか?」
「そう、だよ」
「んじゃ、この傘先輩が使ってください」

そう言って俺に傘を渡した伊澄は、この豪雨の中に飛び出そうとしている。

「ちょっと待て! 俺に貸したら伊澄が濡れるだろ!」
「んー、でも真生先輩のほうが心配だし」

なんでコイツは自分のことを後回しにして、俺を優先しようとしてくれるんだ?
ほんとによくわかんないやつ……。

「だったら一緒に入ればいい……だろ」
「わー、相合傘ですか」
「相手が俺で悪かったな」
「むしろ真生先輩がいいんで」

この前の本命発言といい、無意識でさらっと言ってるあたり本当に真意が読めないやつだ。
傘は俺より背が高い伊澄が持ってくれた。
かなり雨が強いせいで傘をさしてる意味がほぼないくらいだ。

「そんな俺のほうばっかりに寄らなくていいぞ。お前の肩が濡れるだろ」
「俺のことはどうでもいいんすよ。真生先輩のほうが大事」

そう言って、少しでも濡れないように俺のほうに傘を傾けてくれる伊澄。
それに、俺の歩幅にあわせてゆっくり歩いてくれるし、さりげなく俺を車道側から避けてくれる。
こんなことがスマートにできてしまうあたり、女子にモテる要素が凝縮されすぎてないか……?

「伊澄が濡れて風邪ひくのも心配だ。あそこの軒下で少し雨宿りしよう」

制服もリュックもかなり濡れてるし、伊澄は髪まで濡れている。たしかリュックに大きめのタオル入っていたはずだ。

「伊澄、よかったらこれ使ってくれーーって、わ!」
「ん、これ使ってください」

俺より先に伊澄が自分のカバンからタオルを取り出し、俺の頭をわしゃわしゃ拭いてくれた。

「お、俺は大丈夫だから! ほら、伊澄はこれ使ってーー」
「それも真生先輩が使ってください」
「いや、お前のほうが濡れてるし」

どうして伊澄は俺にこんなによくしてくれるんだ。

「真生先輩が風邪ひいて会えなくなるの嫌なんで」
「会えなくなるって言っても数日、だろ」

仮に風邪をひいたとしても。

「毎日会いたいし、なんなら毎秒一緒にいたいっすよ」
「ま、毎秒……」
「それくらい俺にとって真生先輩は特別なんすよ」

わからない、とことん伊澄のことがわからない。
お前が口にする"特別"ってなんだ……?
いったいどんな意味があるんだよ。
直接聞けたらいいけど、残念ながら今の俺にその勇気はない。
じっと伊澄の横顔を見ていると、その目線に気づいた伊澄が俺を見た。

「真生先輩の目、俺好きなんですよね」
「そんなこと言うのお前くらい、だよ」

慌てて伊澄から目を逸らしたとき、雨に濡れたマスクが頬にピタッと張り付いてることに気がついた。
少し気持ちが悪いし、マスク取る……か。
耳にかかったマスクの紐に指をかけたとき、一瞬その動作が止まる。
いまだに俺は自信の無さからマスクを手放すことができない。人前で素顔を見せるのにも抵抗がある。
けど……伊澄ならきっと……。
すると、伊澄が少し俺から距離を取って目線を俺とは逆のほうに向けた。

「い、伊澄?」
「なんすか」

いつもなら名前を呼ぶと必ず俺のほうを見るのに、今は全くこっちを見ない。

「もしかして、俺に気を遣ってくれてる……のか?」
「んー、どうですかね」
「…………」
「まあ、何か理由があるのかなーとは思ったりしてますけど。俺が深く聞くのも違うと思いますし」

ほんとにコイツはなんでこんな俺に優しいんだよ。
伊澄の前なら……別に平気かもしれない。
伊澄の背中を軽くトントンと叩いた。

「振り返っていいんすか」
「伊澄だから……いい」
「え、何それ。今の発言可愛すぎっすよ」

マスクを外した状態の俺の顔をまじまじと見てくる伊澄。
いや、そんな真正面から見られるなんて聞いてない……目力強すぎるだろ……。
恥ずかしくなって目を逸らすと、伊澄の手がそっと俺の頬に触れた。

「真生先輩って顔きれいっすよね」
「い、伊澄に言われると説得力ない」
「なんでっすか」

髪が濡れてるせいもあってか、伊澄の色気がいつもより増してる気がする。
滴がツーッと首筋を伝い、鎖骨のあたりに落ちていくのを思わず目で追ってしまう。
雨のせいでシャツからほんのり鎖骨が透けているのが、さらに艶っぽさを引き立てる。
見ているだけで妙にドキドキするというか……なんだこの胸のざわつきは。

「真生先輩の素顔……俺めっちゃ好きですよ」

雨音にかき消されて、もう一つの音には気づかなかった。
胸の鼓動がひそかに強く音を立てていたことに。