神海SIREN暗部界

 ◆◆◆

 それから——とてつもない疲労感のあと、オレは意識が浮上する感覚とともに、ゆっくりと両目を開けた。

 「……ふが?」

 眼前に広がっていたのは、黄ばんだシーツと、缶や木箱が乱雑に散らかった汚い部屋の壁だった。
 見覚えのない場所。夢なのかと思った。

 「……夢にしては、汚いなぁ……」

 まだ覚醒しきらない意識の中、体を包む生ぬるくて、妙に硬い感触に違和感を覚える。
 よく見ると、オレの体は背中から筋肉質な腕にがっちりと捕えられていた。
 綺麗な長い黒髪が、さらりとオレの体に巻きついている。
 恐る恐る振り返ると、静かに寝息を立てる伏竜の顔があった。

 「えっ……?」

 何が起こっているのか分からず、動ける範囲で見回す。
 どうやら二人とも全裸で、オレは親猫が子猫を抱くみたいに、伏竜に抱きしめられたまま眠っていたらしい。

 (な、なんで? いや、そういえば海岸で伏竜と……こ、交尾的なことをした気がするけど!?
 でも、この部屋、どう見ても海じゃないよな!? なにそれ!? どういうこと!? あれからどうなったの!?)
 考えても仕方ない。とりあえず伏竜を起こそうと思い、呼びかけた。

 「おい! 伏竜! 起きろバカ! 寝るなバカ! あと離せバカ!」

 罵りモーニングコールをすると、伏竜はゆっくりと瞼を開けた。
 けれど寝起きの脳がオレを視認して理解するまで、数秒かかったらしい。
 その片目に、オレの狼狽した姿が映った瞬間——伏竜は弾かれたように飛び起きた。
 そして、怒鳴った。

 「テメェ! 何しやがった!? なんで俺が手前と寝てんだ!?」
 「ハァ? それはオレが聞きたいんだけど!? オ、オレに……あ、あんなこと、いっぱい、たくさんしておいて被害者ぶるのかよ!」
 「……あ? 何言ってやがる? そもそも、手前、誰だ?」
 「え?」

 顔を真っ赤にして詰め寄るオレに、伏竜は警戒するように唸った。

 「手前みたいな小僧相手に、発情するかよ」
 「な、なんだとー!?」

 オレは涙声で伏竜を両手でバシバシ叩きながら責め立てた。

 その最中、小屋の入り口の方から人の気配がした。
 天幕がめくれ、皺だらけの顔をしたニンゲンが入ってくる。
 胸元まで伸びた白い髭に、汚れた服。杖をつきながら、目を細めて静かに頷いていた。

 「ホッホッホ。ようやくお目覚めですかな? 御両人」

 「誰……?」

 伏竜の知り合いなのかと思い、隣の伏竜を見上げる。
 けれど、どうやら違うらしい。伏竜は相手に鋭い声をぶつけた。

 「爺さん、ここはアンタのヤサか?」

 伏竜のドスの利いた声にも、老人は臆することなく、穏やかな表情で頷いた。

 「いかにも。ここは四神王島の東部にあるスラム街の一角、ワシのねぐらですじゃ」

 老人の名は『黄狗(ホワンゴウ)』というらしい。
 だが、その名を聞いた途端、伏竜の目が鋭くなった。

 「スラムの住人が、どうして俺を助けた? 俺の所属を知らないはずがねぇだろう」

 伏竜は自分の首元に刻まれたタトゥーに触れた。
 青龍門派の象徴がそこにある。それを見せつけるようにして、問いを突きつける。

 黄狗は首を横に振った。

 「ワシが助けたのは、おぬしではなく――人魚様の方じゃ」

 「え? オレぇ? なんでぇ? オレ、じーちゃんのこと、知らないよ?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。
 黄狗は小さく笑みを浮かべ、入り口の布をめくる。
 外の隙間から覗いていた人影を手招きで呼び寄せ、オレの前に立たせた。

 そこにいたのは――オレが海で助けた、あの子供だった。

 「人魚様が、ワシらの地区の子を助けてくださったと聞きましてな。
 子供は我ら黄一族にとって宝であり、守るべき存在ですからのう。
 それにもともと、人魚はこの島の伝説では、守り崇めるべき神聖な存在……。
 なのにお礼も出来ぬままで申し訳なく思っておったところ、ちょうど人魚様が海辺におられるのを手下の者が見つけましての。
 僭越ながら、こちらにて匿わさせていただいた次第ですじゃ」

 海で気絶していたオレと伏竜を、このスラムの住人が助けてくれたのだと知る。
 そして黄狗は、深々と頭を下げた。

 「本来ならば直ぐにでも恩を返すべきところを、青龍門派のクソどもが人魚様を攫いおって……」

 え? な、なんか今、すごい汚い言葉が混ざった気が……?
 聞き間違いかと思ったけど、黄狗は淡々と続けた。

 「青龍門派は、島を統治する四派閥の中でもとりわけ調子に乗っておりましたが……
 まさか、島の宝である人魚様を、薄汚い資本主義の犬どもに大金で売り渡すなどという――万死に値する愚行を犯すとは!」

 「ちょ、ちょ、ちょ!? あの、オレの隣りにいるの、その組織のヤツなんだけど!?」

 伏竜と黄狗の怒気がぶつかり合う空気に、いたたまれず口を挟む。
 が、黄狗は両目をカッと見開いた。

 「存じております! 青龍の邪修どもは、我等の縄張りで薬を売ったり、女をかどわかしたり、やりたい放題でしたからな!」

 「え~……伏竜、そんな事してたのかよ~……。どこに出しても恥ずかしい悪党じゃん……」
 引き気味に言うオレに、伏竜はベッドから立ち上がりながら反論した。

 「俺の所属は、暗殺と護衛を請け負う暴力機構だ。薬や売春には関わっちゃいねぇ。
 それより――その憎い青龍の人間を、どうして殺さなかった? 何が目的だ?」

 伏竜は、室内に張り巡らされた紐に干してあった自分の服を見つけ、淡々と着替えていた。
 その背中に、黄狗が静かに言葉を返す。

 「ワシらも最初は、人魚様だけ助けて、青龍の方は海に遺棄しようと思ったんじゃがの。
 ところが発見した時、お互いを――それはもう、強く抱きしめ合っておってのう。
 引き剥がそうにも、不可能じゃったのじゃよ」

 「「ぶっ……!?」」
 オレと伏竜は同時に咳き込んだ。

 真っ赤になるオレと、屈辱を噛み殺すような顔で赤くなる伏竜。

 「な、な……!」
 「……!」

 そんなオレたちを見て、黄狗はゆるゆると首を振った。

 「なのでの。不本意すぎる話ではあったが、抱き合ったままのお二人を、そのまま連れてきたのじゃ。本当は人魚様だけをお助けしたかったんじゃがのう……」

 服を着終えた伏竜は、深くため息をつきながら眉を寄せた。

 「悪い冗談だろ……」

 うんざりしている伏竜はさておき、オレはふと気づいたことを黄狗に尋ねてみた。

 「でも、オレ、人魚じゃなくなってるのに……なんで人魚だってわかったんだ?」

 オレが両足をぱかぱか開いて見せると、伏竜が顔を真っ赤にして怒鳴った。
 「全裸でバカなことすんじゃねぇ!!」
 うるさいヤツだなぁ。

 そこで黄狗が静かに語りだす。

 「人魚は生涯にただ一人だけ――その血肉で人の命を救えると言われております。そこの青龍の小僧を助けたのでしょうな。そうすると尾びれが足へと変わる、と古い伝承にございます。……何とも尊いお方ですじゃ」

 「へへ~ん!」
 オレは胸を張って、伏竜をチラチラ見る。
 けど、アイツはわざとらしく視線を逸らした。
 ……こ、こいつ~!

 だが、黄狗が続けた言葉に伏竜がピクリと振り返った。

 「ただし――その時に救われた人間は、命を分け与えた人魚が亡くなれば、共に死ぬと申します」

 「なっ……何だと!?」

 へぇ~。オレが死んだら伏竜も死ぬんだ~。
 なんか運命共同体ってやつ? ロマンチック~。
 ……と思ってたら、伏竜が怒鳴った。

 「冗談じゃねぇ! こんなガキと一蓮托生なんざ、やってられっか!!」

 ピキッときたので反論しようとしたが、その前に黄狗の声が響いた。

 「――黙れ、小僧!」

 ビリビリと空気が震えるような怒声の後、黄狗は杖で床を突きながら、更なる衝撃の事態を告げた。

 「貴様が人魚様以外の誰かに懸想した場合――人魚様は泡になって消えてしまうのじゃぞ!
 恩人の人魚様を、しっかりと愛し、慈しむのじゃ!」

 ……え?

 えええ?

 今度はオレが悲鳴を上げる番だった。

 「な、なにそれ!? それじゃ伏竜に好きなコができたら、オレ死んじゃうってこと!?
 そ、そんなの聞いてないよ!!」

 慌てふためいて部屋の中をぐるぐる走り回るオレを見て、伏竜は腕を組んだまま口角を上げる。

 「ざまぁねぇな、クソガキ」
 「うるさい! お前だって、オレが死んだら死ぬんだからな!」

 オレは伏竜の胸板をドンドン叩いた。
 伏竜は少しだけ眉をひそめたが、何も言い返さなかった。
 それが悔しくて、オレは文句を垂れ流す。

 「それにこいつ、本ッ当に信用ならない! 昨日オレに――あ、あんなことやこんなこと、いっぱいしておいて、今朝になったら『誰だ?』とか言うんだもん!」
 「うるせぇガキだな……。知らねぇモンは知らねぇんだよ」

 ケンカを続けるオレたちに、黄狗は顎髭を撫でながらぽつりと呟いた。

 「ふむ……青龍の小僧は、“捜魂”を受けたのかもしれんのう……」
 「ソーコン? なにそれ?」

 問い返すと、伏竜が額を押さえた。

 「……確かに思い出せねぇ。青龍門派にいたのは覚えてる。だが、誰がボスだったのか……何があったのかも思い出せねぇ……」

 「誰かが伏竜の記憶を奪ったってこと?」
 オレが誰にともなく呟くと、黄狗が重々しく頷いた。

 「ウム……“捜魂”とは、精神を壊す危険すらある邪法じゃ。そんな邪法を操れる者といえば――」

 伏竜が顔を上げた。

 「……そんなの、朱雀門派のヤツらしかいねぇ」