神海SIREN暗部界

 (あ! そっか! ニンゲンは、人魚と違って水中で息が出来ないんだった!)

 またオレは馬鹿な事を! と歯噛みしつつ、意識を失った伏竜の体を急いで背負い、海面を目指した。

 (伏竜……! 死ぬなよ! がんばれ! 伏竜!)

 ほんの少し関わっただけのコイツに、何でこんなに必死なんだと頭の片隅で考えながらも、オレは水中を駆け抜けるように進んだ。
 きっと、コイツが初めてオレを助けてくれた『他人』だからだと思う。
 別に見返りなんて求めてなかったけど、オレが助けた誰一人として、オレを助けてくれることはなかったから。

 コイツだけが、自分の人生をかけてオレを救おうとしてくれた。
 あの覚悟を決めた伏竜の表情をオレはきっと、ずっと忘れないと思う。

 (そんな相手を見捨てたら、姉ちゃんに顔向けできない!)

 歯を食いしばって泳ぎ続けた。
 オレより大柄な伏竜を背負って泳いだから、いつもみたいに泳げなかったけど、何とかアイツの顔を波間から出す。

 「伏竜! ほら! 水面だぞ! 息、吸えてるか?」
 「……」

 しかし伏竜に反応はなく、オレの肩に顎をのせたまま、がくりとのけぞった。
 また海中に沈もうとする伏竜の体を背負い直すも、これからどうすればいいのかわからない。

 (ど、どうしよう! 海の王国の、兄ちゃんとか長老ならニンゲンの手当ての仕方とか知ってるかもしれないけど、そこに連れてくまで、伏竜、溺死しちゃうだろうし……)

 だが、事態は更に悪化していた。

 ガボッ!

 ゴボッ!

 周囲にあった死体が、急に飛沫を上げて海の中に沈み込んだのだ。

 「え?」

 何が起こったのかと海中を覗き込んだオレは、息を飲んだ。

 (こ、れは……)

 脂汗が、じわりと額に浮かぶ。

 青一色の海中の中、ゆらりと蠢く黒く巨大な、ぬるついた魚影が幾つも旋回している。

 (さ、サメ……!)

 ここ神海王島の海域は人食いザメが多く生息しているのを思い出した。
 船の爆発で出た大量の死傷者の血の臭いを目当てにサメの群れが現れたのだろう。

 (ど、どうし、よう……)

 人魚ですらサメと戦って無傷ではいられない。
 しかも今のオレは血を流している伏竜を背負っている。

 普通に考えるなら、伏竜を捨てて自分だけ逃げるべきだ。

 船にいるかもしれない姉ちゃんだって助けたい。

 (でも……、そうすれば、確実に伏竜は……)

 死骸も残らないくらい、食い尽くされるだろう。

 ふと振り返ると、伏竜の冷たい肌が頬に触れた。
 キスした時は、あんなに熱かった唇が、今は深海の底の石みたいに冷え切っている。
 それが何故か、胸の奥に突き刺さるように辛かった。

 (死んだら、こいつのやりたかった事、目指していたもの、それらが全部全部、もう出来なくなっちゃうんだ……)

 もしもオレだったら、志半ばで倒れるのは悔しいし、悲しい。
 助けてもらえるものなら、助けてもらいたい。
 それが出来なかったから、父ちゃんと母ちゃんは、オレの所為で死んだんだ。
 そこまで考えて、オレは唇を噛み締める。

 (悩んでるヒマなんてあるか! 父ちゃん達の時みたいに後悔したくないから、オレが姉ちゃんや兄ちゃんを守るんだって決めただろ! 後悔しない為に、今、最善と思う事をやるんだ! 墨星!)

 そう決めてから、オレはサメをキッと睨みつける。
 それから周囲にウヨウヨいるサメたちの隙を作るように、傍にあった遺体の一部を掴んだ。

 震える手で掴んだ遺体の一部は、冷たくて、重くて、吐き気を催しそうだった。
 でも、迷っている暇はない。伏竜の命を見捨てる訳にはいかないんだ。
 そう懺悔しながら、オレは水面で派手な音をたてるよう、誰かの命の欠片を出来るだけ遠くへと投げる。

 (誰の体かわかんないけど……、ごめんなさい!)

 謝罪しながら投げた体が着水し、血を盛大に撒き散らす。
 それに気づいたサメたちが一斉に遺骸に向けて突進し始めた。
 青黒い海中が血で赤く染まり、サメたちは狂ったように暴れ回る。
 バシャバシャと水面を叩くようにして獲物を奪い合って食い千切る、おぞましい姿に背筋が凍ってしまう。

 オレは泣き出したくなる気持ちを抑えて、伏竜を担いだまま陸地へと向かった。

 (伏竜……!)

 陸地なら、もしかしたら伏竜の仲間がいるかもしれない。
 それだけを頼りに、オレは海中を進み続けた。

 (早く……! もっと早く!)

 暗い海中で、流れ着いた板や破片に衝突する度に体が揺れた。肌が切れても、血が溢れても、それでも痛みも感じないほど必死だった。
 ただ、伏竜の熱を失った体が頼りなく肩に乗っている感触だけが、オレに前へと進む力をくれたのだ。


 ◆◆◆


 「……ッ、はぁ、はぁ……」

 あれからオレは、意識が戻らない伏竜を抱えて、近くの浜辺まで泳ぎ着いていた。
 サメの群れからは逃げ切れたものの、安心なんてしていられない。
 すぐにオレは傍らの伏竜の顔を覗き込んだ。

 「伏竜!」
 「……」
 「おい! 伏竜ってば! 起きろ伏竜!」
 「……」

 何度呼びかけても、伏竜は目を固く閉じたままだ。
 胸に耳を当ててみると、かすかに鼓動は聞こえる。けれど、胸元からは血が、止めどなく流れ出していた。

 それに比例するように伏竜の顔は青白く、体もどんどん冷たくなってゆく。

 (ど、どうしよう! どうしたら……!)

 パニックに陥ったオレは、伏竜の胸の傷を手で抑えた。
 けれど、その手に伝わるヌルつく感触――血の感触に、思わず顔が歪む。

 「こ、このままじゃ、伏竜……、死んじゃうんじゃ……」

 夜風が無情に頬を叩く。背後から波の音が聞こえる中、伏竜の冷え切った体が、オレの細い腕の中で、酷く頼りなく感じられた。
 このまま、引いていく波に伏竜も攫われて戻ってこないような錯覚に陥り、オレは伏竜を強く抱きしめていた。

 絶望に飲み込まれそうな暗闇の中、姉ちゃんの言葉が閃光のように脳裏をよぎった。

 『墨星、泣かないで。貴方の所為じゃない』

 父ちゃんと母ちゃんが、オレを庇ってサメに喰われた時、泣いてばかりのオレを姉ちゃんは、幾度も慰めてくれていた。

 (オレが助けられなかったから。オレがもっと――オレが、オレが……)

 後悔を繰り返す姿に、姉ちゃんは根気強く寄り添ってくれた。
 あの日々がなかったら、オレはきっと今ここにいなかっただろう。

 『墨星、哀しみは次の哀しみに備える為の卵よ。死が無駄にならないように、学び、成長しましょう』

 姉ちゃんはそう言って、オレにたくさんのことを教えてくれた。
 その中には、こんなことも――。

 『人魚は他の命を救える可能性があるのよ』
 『人魚同士では出来ないけれど……』
 『けど、もし貴方が人間を助けたいと思ったなら……』
 『その時は……』

 その時は……。

 オレは血を滴らせている自分の手首を見つめた。

 「人魚は、一生に一人だけ、生き血を与えたニンゲンに、自身の生命力を分け与えられる……」

 ぽたり、と赤い雫が白い砂浜に落ち、吸い込まれていく。
 その光景を見つめるうちに、姉ちゃんの言葉が胸の奥で木霊する。

 「……人魚の血を、ニンゲンに与えれば……」

 伏竜の冷たくなってゆく体を見つめながら、オレは迷いを振り払うように顔を上げた。

 いつか、大好きなニンゲンができた時、この選択を後悔するかもしれない。

 でも――。

 少なくとも、今、この瞬間、最善を尽くした己を後悔し続けなくて済む。

 何よりも、こうして悩んでいる暇など無い。
 伏竜の呼吸は、見る見るか細く、頼りなくなっているのだ。

 「……よし!」

 オレは意を決し、右手首の傷に歯をあてる。
 そして、一気に肌を引き裂いた。

 「……いッッ!」

 焼けつくような鋭い痛みが走り、傷口から鮮血がジワリと滲み出る。
 ぷつぷつと滲んでいただけの血は、やがて滴り落ちるようになり、砂浜へと零れ落ち始める。
 オレは震える手で流れる血をすくい、伏竜の口元に注ぎ込んだ。

 「伏竜! オレの血だぞ! ほら! 飲め!」
 「……」

 だが、伏竜の唇は貝のように固く閉じて動かず、注がれた血は頬や顎を伝って、無情に流れ落ちてゆく。

 「伏竜! 口開けろ! 飲めってば! 死にたいのか! バカ!」

 叫びながらも、オレは彼の冷えた唇をこじ開けようと必死になる。
 それでも応じない伏竜の唇に、焦りと絶望を感じていた中、オレは思い出した。

 「あ! そ! そうだ! あの時みたいにすれば……!」

 オレは自分の傷口に舌を這わせ、血を啜り取った。
 口内に溜めた血の量を確かめると、伏竜に顔を近づける。
 彼の冷たくなった唇を舌で押し開け、歯列から強引に血を流し入れた。

 「ん……んん……」

 舌や口内、喉を使って、なんとか伏竜の体内にオレの血を注ぎ込んだ。
 口内の全ての体液を伏竜に飲ませ終え、オレは唇を離す。

 「こ、これで……どうだーッ!」

 期待と祈りを込めた声が、静まり返った夜の砂浜に吸い込まれる。
 だが、目の前の伏竜の顔色は、土気色へと変わっていた。

 「ふ、伏竜……?」

 震える声で名前を呼んでも、応えはない。
 胸に置いていた伏竜の手が、ずるり、と砂浜に滑り落ちる。

 乾いた砂が小さな砂塵を舞わせ、その音が止んだ瞬間、まるで伏竜の命の終焉を告げる鐘の音みたいに思えた。

 「そ、んな……」

 間に合わなかった……?

 「そんな……そんなぁ……! 伏竜ッッ!」

 オレは彼の動かなくなった胸に顔を伏せ、堪えきれずに泣き出していた。

 「うわぁあああん! うわぁあぁぁああん! あぁあああん!」

 泣き声が人気のない海辺にこだまする中、後悔の波が押し寄せる。

 もっと早く、血を分ける事を思い出していれば……。

 海に落ちたあの時に、すぐ行動していれば……。

 躊躇していなければ……。

 オレが躊躇ったから、伏竜は……。

 「うわぁあああああぁあああん! 伏竜っ、ごめん! ごめんな!」

 命がけでオレを助けてくれた恩人に、命で返せなかった。
 伏竜の遺骸に縋りつき、嗚咽を漏らしながら詫び続ける。

 そんな時、耳に微かな音が届いた。

 とくん――と、力強くも安定した、鼓動の音が。

 「え……?」

 一瞬、自分の音かと思ったが、それは違った。
 オレの心臓は先程から早鐘のように打ち続けている。
 その音は、伏竜の胸から聞こえてきたのだ。

 「伏竜……?」

 名前を呼び、彼の顔を覗き込む。

 頬には血色が戻り、冷たかった体は、ほんのりと温もりを帯びていた。
 か細かった心音も、今はドクンドクンと力強く脈打っている。
 そして――伏竜が、ゆっくりと身を起こした。

 開かれた片目は、まるで長い夢から覚めたように朧げだったが、オレの姿を捉えた途端、強い光を宿した。
 気づけばオレは伏竜の首に抱きついていた。

 「ふ、伏竜……! 本当に生き返ったんだな!」
 「……」

 伏竜は何も言わない。ただ、熱を宿した瞳でオレを見ていた。

 「オ、オレ、オマエが死んじゃったかもって思って……」

 涙が溢れて止まらなくて、でもオレは泣きながら笑っていた。

 「ヒック、だから、その、よ、良かったって思……、グスッ! そ、それにしても、生き返ったなら、早く起きろよもう! けど、良かった、良かったよぉ! うえぇええええん!」

 再び泣き崩れるオレの背中に、伏竜の手が触れる。
 優しくて温かな指先が背中から後頭部、そしてオレの頬に触れ、くすぐったさにオレは片目を閉じる。
 その間中、伏竜は何も言わない。ただ、ずっとオレを見つめている。

 その瞳には熱病に浮かされたような温度があって――。

 「伏竜……?」

 小首を傾げて問いかけると、伏竜の唇が動いた。
 低く熱く、囁くように告げる。

 「……我愛你(愛してる)」と。