夜。
 アパートの一室に、冷蔵庫の低い唸りが漂っている。
 机の上には小さな録音機。赤いランプが、眠らない瞳のように点っている。

 安西直は、マイクの前に座っていた。
 指先でボタンを押す。カチ、と小さな音がして、部屋の空気が固まる。

 「……私は、君たちが思う“障がい者”を演じています」

 自分の声が、マイクの奥に吸い込まれていく。
 言葉は冷たく、震えない。
 「泣き虫で、喋れなくて、困ってばかり。そうすれば君たちは安心する。君たちの優しさが、傷つかずに済む」
 言葉を吐くたび、胸の奥が静かに削れていく気がした。

 「本当は、私は早口で、説明好きで、論理的です。でも、それを出すと“偉そう”“男っぽい”って言われる。だから、“女らしくて”“素直”な障がい者を演じてる。……演じると、褒められるんです」

 録音を止めた。
 再生ボタンを押す。

 スピーカーから、自分の声が流れ出す。
 それは、まるで他人の声だった。
 少し高く、少し柔らかく、どこか「正しい声」に聞こえる。

 「……障がい者って、可哀想な方が愛されるんですよ」

 吐き捨てるように呟いて、電源を切る。
 音が途切れる。部屋の中に、急に“現実”の音が戻ってくる。
 冷蔵庫の音、外の車のタイヤの摩擦、上の階の足音。どれも生きている音だ。
 けれど、安西は自分の声だけが、どこにも存在していない気がした。

 窓の外には、冬の街灯。
 光がアスファルトを照らすたび、影が流れる。
 「演じなければ、生きられない。でも、演じている限り、本当の自分はどこにもいない」
 呟きは音にならず、喉の奥で霧散した。

 翌朝。
 職場の空気は、いつも通り柔らかかった。
 朝礼が終わると同時に、古川理紗が笑顔で振り向く。
 「直ちゃん、昨日のデータ整理ありがと。助かったよ」
 「いえ、大したことじゃないです」
 定型文の返答。

 会議の時間になる。
 新しいプロジェクトの資料作成。
 課長が軽い口調で言った。
 「この件、安西さんにお願いしようか。大丈夫? できる?」

 安西は微笑む。
 「はい、できます」
 声のトーンを0.2下げ、語尾をやわらかくする。

 心の中では別の声が響く。
 “やってみれば、わかる”

 会議が終わり、自席に戻る。
 モニタの光の中で、キーボードが静かに打たれる。
 手は完璧な速度で動くが、途中であえて誤字をひとつ混ぜる。
 数字を一桁ずらす。ミスではない。計算された“失敗”。
 完璧であれば、「彼女にもできる」と認識が変わる。
 それは、善意を不安に変える危険を孕む。

 「#正確さを抑えることは、生存戦略」

 帰宅後、黒ノートの見出しにそう書く。
 ペン先がわずかに震え、紙に細い跡が残る。
 「自分の能力を隠すことが、社会適応になる」
 その言葉を見つめるうちに、胸の奥が冷たくなった。

 テレビをつける。
 ニュース番組。
 「障がい者雇用のいま」と大きく書かれたテロップが流れる。
 スタジオには笑顔のアナウンサー。
 画面の中では、若い男性がインタビューに答えている。
 涙ぐみながら言った。
 「支えてくれる人に感謝したいです」

 その瞬間、安西の手が止まった。
 リモコンを握りしめる。

 「感謝の強制」

 小さく呟く。
 誰も聞いていない部屋で、その言葉だけが響いた。

 感謝を言わなければ、恩知らずになる。
 恩を示さなければ、居場所がなくなる。
 「ありがとう」は、免罪符であり、鎖でもある。

 画面の中の男性の涙が、誰かの安心に変わっていくのが分かった。
 「泣く彼」を見て、「よかったね」と言う視聴者の顔が目に浮かぶ。
 それが、番組の作りたかった“希望”なのだろう。

 だが、その希望の下で、何人の“沈黙”が切り捨てられているのか。

 安西は立ち上がる。
 鏡の前に行く。
 薄暗い照明の中、自分の顔がぼんやり映る。

 「君たちが思う障がい者って、誰?」

 問いかける。
 鏡の中の唇が、同じ形で動く。
 答えは、どこにもない。

 沈黙。
 静かな部屋の空気が、心臓の鼓動を大きくする。

 「泣かないと、優しくされない」
 「笑わないと、安心してもらえない」
 「できすぎると、異物になる」
 「できなさすぎると、排除される」

 そのすべての狭間で、今日も私は“調整”をしている。

 ――ほんとうの私は、どこにいるのだろう。

 椅子に戻り、ノートを開く。
 インクが乾く前のページに、さっきの言葉を重ねるように書く。

 「#障がい者:他者の想像によって作られるキャラクター」

 手が止まる。
 目の奥が熱くなる。
 ペン先が小刻みに震え、インクがにじむ。

 泣くつもりはなかった。
 でも、涙は勝手に落ちた。

 「……私は、誰のために泣いているんだろう」

 窓の外では、冬の風が鳴っていた。
 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
 それは、誰かを助けに行く音なのに、
 なぜか自分を置き去りにしていくように聞こえた。

 テレビの音を消す。
 画面の中の若者が、無音で「ありがとう」と言う。
 唇の形だけが、はっきり見える。

 安西は深呼吸をして、目を閉じた。

 「ありがとう」
 自分の口で言ってみる。
 けれど、声にはならない。
 その言葉の中に、あまりにも多くの“意味”が詰め込まれすぎていた。

 “ありがとう”は、もう祈りではなく、服従の合図になっている。

 「君たちが思う障がい者って、誰?」
 再び問いを投げかける。
 返事は、やはりない。

 でも、鏡の奥の瞳だけは、確かに揺れていた。

 安西は照明を落とし、ベッドに腰を下ろす。
 録音機を手に取る。
 もう一度、録音ボタンを押す。

 「私は、今日も演じました。少しだけ失敗して、少しだけ笑って、ちゃんと“感じのいい子”をやりました」
 淡々と語る。
 「でも、もし世界が一度だけ私に質問をくれるなら――」

 息を吸い、ほんの少し笑って言った。

 「君たちは、誰を見て優しくなったの?」

 録音を止める。
 部屋の中で、静寂が膨らむ。
 それは、痛みでもあり、救いでもあった。

 ノートを閉じ、ペンを置く。
 目を閉じたまま、安西はゆっくりと呼吸を整える。
 その呼吸のリズムの中に、かすかな希望が混じっていることを、
 彼女自身はまだ知らなかった。

 ――次の朝、また“感じのいい子”を演じながらも、
 安西はほんの一瞬、会議の中で“言い切る声”を出す。

 その一秒の変化が、彼女の仮面に小さなひびを入れることになる。

 世界は気づかない。
 でも、そのひびの音は、確かに彼女の胸の奥で響いていた。