土曜の午後、風の匂いが少しだけ甘かった。
 安西直は、カフェの窓際の席で指先をそっと膝に置いた。
 駅前の雑踏がガラス越しにゆっくり遠ざかっていく。鈴木優成が店のドアを押して入ってくる。灰色のパーカーにシャツを重ねて、やや無防備な姿。

 「待たせました」
 「いえ、私もさっき来たところです」

 小さな会釈。二人のあいだに、カップの並ぶ音が割り込む。
 会うのは、これが二度目。交流会のあとから、メッセージは途切れなかった。最初は他人行儀なやり取りだった。「次の会、出ますか」「天気、崩れそうですね」。
 けれど、ある夜、鈴木から「眠れない夜、ありますか」という一文が届いた。それが境界を変えた。
 安西は“おどおど”を少し緩めると決めていた。

 「ここ、静かでいいですね」
 「音が少ない方が、考えられます」
 鈴木は答えながら、ノートを取り出した。紙の端がめくれていて、使い込まれた跡があった。

 「君も書いてるの?」
 「え?」
 「自分のこと。僕、メモ魔なんです。これがないと頭がぐちゃぐちゃになる」

 安西も迷いながらバッグの中を探り、黒いノートを出した。偶然の一致に、小さく笑いが漏れる。

 「やっぱり」鈴木はうなずいた。「君、演技してるでしょ」

 安西の手が止まる。ペン先が紙に音を立てた。
 「どうしてそう思うんですか」
 「間の取り方が、訓練っぽい。それに、笑うときだけ肩が動く」

 安西は視線を落とし、笑顔を整えた。
 「観察力、すごいですね」
 「ごめん。でも、そういうの、気づいちゃうんです」
 「大丈夫。……あなたも、演技してるように見えます」
 鈴木が少し照れたように笑った。
 「まぁ、僕のは“素直なふり”かな」

 カフェのBGMが遠くに流れる。午後の日差しがカップの縁で揺れた。
 「演技してない人って、いないですよね」
 「そう思う。でも、僕はもう仮面を脱ぎたい」
 「私は逆です。仮面がないと死にます」
 「死ぬ?」
 「“甘えてる”って言われたくないから」

 鈴木は息をのむ。
 「……甘えって言葉、殺す力がありますよね」
 安西は静かにうなずく。
 「だから、私は先に“弱く見せる”。そうすれば、殺されずに済む」
 鈴木はカップを握る指先を見つめ、かすかに頷いた。

 「その方法は、君を守るけど、君を閉じ込めてもいる」
 「わかってます。でも、あなたの“素直”も、社会じゃ危ないですよ」

 二人は目を合わせないまま、互いを否定し、同時に理解していた。
 沈黙が、どちらの側にも傾かないまま続く。
 外の光がテーブルを這い、ノートの上に溶ける。

 鈴木がゆっくりノートをめくりながら言った。
 「僕、これ書いたんです。診断を受けた日の夜」
 ページには大きく書かれている。
 《#やっと名前がついた》
 「その時、すごく救われたんです。名前があるって、生き物に戻れた気がして」

 安西は自分のノートをめくり、昨日のページを見せる。
 《#優しさ:管理装置 #笑顔:鍵》
 「私は、名前を隠して生きてきました。出したら壊れる気がして」
 「出すか隠すか、どっちも生きるための技術ですよ」

 鈴木の声は穏やかだった。
 「でも、技術だけじゃ疲れる。君の声で、言葉を聞きたい」

 安西は息を飲んだ。
 「私の声、ですか」
 「君の素の声。演技じゃなくて、ただの声」

 喉の奥が熱くなる。言葉が浮かんで、すぐに沈んでいく。
 代わりに、カップの中でスプーンを回した。金属の音が、逃げた答えのかわりに鳴る。

 「……もし、その声が嫌われたら、どうしますか」
 「嫌われたら、また作り直します。僕は器用だから」
 鈴木が笑う。その笑いに、安西は少しだけ救われる。

 外の光が傾き始める。窓際の席に長い影が落ちた。
 「ねぇ」安西が口を開く。「あなた、どうしてそんなに平気なんですか」
 「平気じゃないですよ。ただ、壊れるのが怖くなくなっただけ」
 「怖くない?」
 「壊れたら、また組み直せばいい。ほら、仮面って、作り直せるでしょ」

 安西は黙って頷いた。
 カップの中のコーヒーはもう冷めていた。

 店を出ると、空が薄紫に染まっていた。
 駅までの道を並んで歩く。
 信号の赤が青に変わる。その瞬間、鈴木が立ち止まった。

 「君の素の声、好きだよ」

 安西は答えられなかった。青信号が点滅を始める。
 車のライトが横を過ぎる。世界が、わずかに眩しすぎた。

 夜、部屋に戻る。
 机の上で黒ノートを開く。
 震える手で一行を書く。
 《#素の声:他者の定義に奪われる危険》

 ページを閉じ、目を閉じる。
 今日の会話の残響が、耳の奥でまだ形を変えずに残っていた。
 あの言葉は、優しさにも似ていた。でも同時に、刃のようにも思えた。

 安西は深呼吸をする。
 呼吸のたびに、仮面の裏の肌が少しずつ温まる。
 彼女は思う。
 ――この仮面を脱ぐ日は、たぶんまだ先。
 でも、今日の会話は、その日へつながる最初の穴かもしれない。

 窓の外の街灯が、夜風に揺れた。
 安西はペンを握り直し、最後の一文を書き足した。
 《#仮面:呼吸の形。外せなくても、生きていける。》

 書き終えると、胸の奥の鼓動が少しだけ落ち着いた。
 遠くで踏切の音が鳴る。
 その音が、まだ誰にも奪われていない自分の声のように聞こえた。