翌週の月曜、朝礼の輪がほどけたあと、古川理紗がデスク横に立った。
 「直ちゃん、この前の交流会、どうだった?」
 声は軽い。午後の会議の前の、シュレッダーに紙を入れるみたいな動作のついでに置かれる言葉。安西直は胸ポケットのメモに指を触れ、いつもの返答角度を探す。
 「えっと……すごく、勉強になりました」
 語尾を落とし、眼差しを眉間に置く。理紗はにこやかに頷いた。
 「そういう場って大事だよね。直ちゃんはがんばり屋さんだし」
 がんばり屋さん。その四音が、鍵の回る音に聞こえた。
 「無理しないでね」
 「しんどい時は言ってね」
 安西は笑顔で「はい」と答えた。笑顔は便利だ。鍵穴にぴったり合う。けれど、鍵が回った先にあるのが檻だとわかっていても、ここでは頷くしかない。
 理紗は自席へ戻る途中、振り返って小さく親指を立てた。「ファイト」
 「ありがとうございます」
 用意された礼の語を置き、安西はモニタに目を戻す。スプレッドシートのセルが規則正しく並び、SUM関数の括弧が口を開けて待っている。括弧に数字を放り込めば、答えは出る。人間関係にも括弧があって、そこに言葉を入れれば正解が返ってくるなら、どれほど楽だろう。

 午前はデータ整備。手順化された作業は、揺れない。キーボードの打鍵音、スクロールの滑り、セルの色が変わるときの小さな満足。突発の電話だけが外から入る音だ。二コール経ってから取る戦術は今日も維持。受話器を上げる前に呼吸を整え、柔らかい声で名乗る。穏やかな会話の形を借りると、相手も穏やかになってくれることがある。時々、そうでもない時もある。
 「安西さん?」
 電話の向こうの男の声は早い。指示は三つ同時に来て、最後だけに「お願いします」が付く。言葉の順番を並び替えてメモに起こす。指先の温度が下がる。
 「承知しました。念のため、メールでも頂けますか」
 頼み方を丸くし、確認の網を張る。通話を切ると、手のひらに汗が浮いていた。黒ノートの端に小さく鉛筆で「突発:網」と書く。二文字の罠は、後で文章になる。

 昼休み、理紗に誘われて食堂へ。日替わりの札には「鶏の照り焼き」。座ったテーブルの天板には、長年のトレーの跡が楕円に擦れている。
 「ねえ直ちゃん、これ、面白い記事だよ」
 理紗がスマホを差し出す。画面には笑顔の女性たちの写真。タイトルは「発達障害でも輝く女性たち」。
 「すごいですね」
 本当は、この構文が嫌いだ。“でもできる”。“のにやれる”。記事の内側に隠れている暗黙の比較。できない人の沈黙の上で、拍手が鳴っていること。
 理紗は画面をスワイプしながら言う。
 「こういう人たちが増えると、社会も変わるよね」
 「そうですね」
 安西は微笑む。胸の奥の声は、別の問いを発する。“あなたのいう社会って、誰の社会?” その問いを口にすると、このテーブルの温度が下がる。温度管理は演技の一部だ。今日は下げない。

 席を立つ前、理紗がふと思い出したように言った。
 「直ちゃん、重いものはさ、無理しないで。男子に頼んでいいからね」
 「はい」
 はい、と言うと、理紗の顔は安心する。安心は親切だ。親切は管理の言い換えだ。今日の私には、それを解体する時間はない。午後の資料締切がある。
 戻り道の廊下、掲示板のポスターが目に入る。「障害は個性」。軽い標語に苛立ちが走る。個性にした瞬間、制度と構造の責任はどこへ行くのだろう。個性と言えば、あなたも私も同じ。だが同じの内側に埋められる差は、誰が掘り起こすのか。
 席に戻って腕時計を見ると、午後の会議まで二十五分。白ノートを引き出しから出す。ページの余白に書く。
 「#優しさ:管理装置。#笑顔:鍵。」
 矢印を足して、簡単なループを描く。優しさ→安心→依存→支配。
 鉛筆の灰色が紙に沈む。図は、見れば見るほど綺麗だ。綺麗な図は、現実のざらつきを隠す。隠すことにも救いはある。救いに溶けながら、午後を迎える準備をする。

 午後の会議。新任課長が「誰でも活躍できる職場に」とスライドに映す。スライドのフォントは丸い。丸い文字は、刺さらない。「直ちゃん、この件、どう思う?」と課長がこちらを見る前、理紗が小さく目配せした。
 「……時間を少しください。後で、案をまとめます」
 言い切り。昨日の夜に決めた練習。会議室の空気が一瞬止まり、すぐに流れ直す。課長は「あ、そうだね」と笑い、次のスライドへ。
 言い切りで世界は壊れない。壊れないが、微細なひびは入る。ひびはひびのまま、光を通す。その光が暖かいとは限らない。

 定時少し前、隣の島の若手からチャットが届いた。
 《安西さん、資料の精度すごいですね》
 胸が緩む。褒められるのは嫌いじゃない。続きが来るまでは。
 《障がいがあるのに、努力していて尊敬します》
 のに。画面の白が目に刺さる。
 《ありがとうございます。まだまだです》
 返す語を選び、エンターに指を乗せる。押す前に、膝の上の手を強く握った。自分が見せる“わかりやすい弱さ”が、相手の中のステレオタイプを健全化してしまう恐れ。それでも演じなければ、「甘えてる?」という刃が戻る。二択の拷問。
 エンターを押す。送られた言葉が自分から剥がれていく。剥がれた跡に空気が触れ、ひやりとする。

 帰りのバス。座席の前方に貼られた公共広告。「障害は個性」。朝見た標語と同じ。違うのは、空の色が変わったこと。薄いオレンジが窓の縁を染め、車内の人の横顔を縁取る。広告の下、企業スポンサーのロゴが小さく笑っている。個性の上にスポンサー名が乗るのは、今の世界の整合らしさだ。
 黒ノートを取り出し、膝の上に置く。
 「#効用:攻撃回避。#代償:偏見維持」
 天秤の絵を描く。左が軽く傾く。今日も前者を選んだ自分を責めるのはやめよう、と書き足す。すぐに、その“やめよう”が別の嘘に思える。鉛筆を止める。やめよう、という命令は、やめられない自分のための飴玉だ。飴玉は甘い。舌に残る甘さが、逆に飢えを大きくする。

 アパートに着く。靴を脱ぐ前に郵便受けからチラシを取り出す。習い事、英会話、フィットネス。人はずっと上達の名で自分を管理している。部屋に入り、灯りをつける前に窓を少し開ける。ひやりとした空気が額に当たる。
 机の上に白ノートと黒ノートを並べ、黒を右、白を左に置く。黒は「観測」、白は「指示」。右手は記録、左手は演技。左右の役割を身体に覚えさせる。
 白を開く。ページの上にタイトルを書く。
 「優しさの檻」
 文字を見ていると、さきほどの会話の断片が浮かぶ。「がんばり屋さん」「無理しないで」「男子に頼んで」。善意で編まれた囲いの目が、規則正しく並んでいる。囲いに守られる安心と、囲いに閉じ込められる窒息。その両方に適応するのが、今の私の仕事だ。
 図を描く。優しさ→安心→依存→支配。支配からまた優しさへ矢印を戻す。矢印の途中に鍵のマークを描き、鍵の下に小さく書く。
 「笑顔:鍵」
 笑顔は鍵になる。鍵穴に差すと、相手は安心してくれる。安心してくれた相手は、枠を太くする。太い枠は、嵐の夜には助かるが、晴れた日の風を遮る。
 鏡の前に立つ。口角を上げ、目尻に皺を作る。
 「今日の笑顔、少し硬かったな」
 独り言は低い声で。低い声は自分にしか届かない。高い声は、すぐ誰かのためになる。
 鏡の中の自分が、誰かに似ていると一瞬思って、すぐに打ち消す。似せるのは演技の仕事。似ないでいるのは、生きる練習。両方とも、筋肉を使う。

 冷蔵庫から冷たいお茶を取り出し、グラスに注ぐ。喉を通る冷たさが、今日の矛盾を一瞬だけ麻痺させる。テーブルに戻り、スマホを開く。タイムラインに流れる記事。「発達障害でも輝く女性たち」。昼に見たものの完全版だ。
 「周囲の理解があれば、私たちは輝ける」
 文の末尾には笑顔の絵文字。コメント欄には拍手のスタンプ。私は親指を画面から離す。記事を責めることはできない。見られる側は、見たい人に見たい形で見られることを条件にされる。それでも誰かが言う必要がある。「あなたのいう社会って、誰の社会?」
 コメントは書かない。書く体力は、今夜の分には入っていない。
 スマホを伏せると、部屋の音が戻る。冷蔵庫のモーター、外から帰る車のタイヤの砂を噛む音。音は正直だ。音には配慮の絵文字が付かない。安西は一度笑って、白ノートの次の行に書く。
 「#自然体=特権」
 鈴木の言葉が、ふいに浮かぶ。「自然なんて、やめました」。羨ましい、と思ってしまう。あの“自然”を言える場所があること。自然体でいられる時間を確保できる環境。自然体は、配布されていない。買えるものでもない。運と周囲と失敗の記録の組み合わせで、やっと許可が下りる。自然体を手に入れた人がそれを「誰でもできる」と言った瞬間、誰かから呼吸が奪われる。
 「自然体は特権だ」
 声に出すと、部屋の四角が少し歪む。言葉は壁紙を引き剥がす。剥がした下から出てくる古い柄は、案外きれいだったりする。

 窓の外に風が通り、カーテンが膨らんで戻る。その呼吸をまねて、胸を動かす。深呼吸はやりすぎると気分が悪くなる。浅くていい。浅さにもリズムはある。
 机に肘をついて、額に手を当てる。今日、言い切った一文が頭の中で反芻される。「後で、案をまとめます」。あれは小さな反逆だった。反逆は、綺麗な旗を立てるためだけにあるんじゃない。配慮という名の毛布の端をほんの一ミリだけめくる作業だ。風が入り、少し寒くなり、でも空気は変わる。
 黒ノートに今日の言葉を写す。
 「#がんばり屋さん=鍵の回る音」
 「#無理しないで=あなたにはできない、の予告」
 「#男子に頼んで=性別の便利な回路」
 書いているうちに、ペン先が紙に引っかかってインクがにじむ。にじみは跡になる。跡は、次に踏む場所の目印だ。きれいに消す必要はない。

 シャワーを浴びる前、鏡の前でもう一度立ち止まる。髪を結うゴムの跡が残っている。頬の赤みは、日中は化粧で隠れていた。
 「優しさって、檻の形をしてるんだな」
 今度は、はっきり言った。声に出して言葉に輪郭を与え、鏡の中の顔に送る。鏡の向こうの“わたし”が、少しだけ笑う。その笑いは鍵穴を探していない。
 シャワーの湯が肩を打ち、皮膚の感覚が静かに戻る。湯の音に紛れて、昼の理紗の声が混ざる。「直ちゃんはがんばり屋さんだし」。がんばり屋さん、のラベルは、時々心強い。ラベルの裏の糊は、時間が経つと剥がれてくる。剥がれかけているのに、無理やり貼り直すと、紙は破れる。破れた紙の形も、残しておこう。形の悪いものは、隠されがちだ。

 シャワーのあと、タオルで髪を押さえ、机へ戻る。白ノートの見出しを指でなぞる。「優しさの檻」。ページの下部に、明日の自分への演技指示を書き足す。
 ・笑顔の回数を一割減らす。
・「無理しないで」に「はい」以外の返答を一度試す。
 (例)「できるところはやります」
・会議での言い切り文をもう一度。
 ペンを置き、椅子の背にもたれる。天井の白い継ぎ目が、今日は川ではなく道に見えた。道は、誰かに指定された方向へは伸びない。自分の足の形に沿って曲がる。地図に載らない小径のことを、子どもの頃は「裏道」と呼んでいた。裏道は、表の道より静かで、時々犬に吠えられた。吠えられるのは怖いけれど、吠えられる場所のほうが、覚えている。

 スマホが震える。鈴木からのメッセージだ。
 《今日、母から「無理しないで」と来たので、「無理する日は決めます」と返した。練習の結果報告》
 安西は少し笑い、返信する。
 《私は「できるところはやります」を明日導入予定。練習の予告》
 すぐ既読がつく。
 《自然なんて、やめました。演技のほうが正直》
 《わかってます。だから私は、演技の更新をします》
 《よく眠れますように》
 《あなたも》
 会話は短い。短いのに、余白が温かい。短さの中に、鍵のない扉の感触がある。

 ベッドに横になり、電気を消す。暗闇は、正直だ。暗闇に向かって、もう一度だけ言う。
 「優しさは檻だ。檻でも、雨はしのげる」
 言葉の最後の点が、胸の真ん中に落ちる。落ちた点から、細い線が伸びる。線は、明日へ繋がる合図になる。
 目を閉じる直前、白ノートの見出しが浮かんだ。「優しさの檻」。檻の影は、時々、夕方の公園のベンチくらいの形になる。誰かがその影に入って、息を整える。私もそこに入る。影の縁に腰をかけて、鍵のいらない笑い方を、少しだけ思い出す。

 眠りは浅くてもいい。浅い眠りは、すぐに起き上がれる。明日も、鍵を回す音は鳴るだろう。鳴るたびに、私は音の意味を一文字ずつ書き換える。書き換えは遅い。それでも、遅いままで、やる。
 やることは、檻を壊すことじゃない。檻の中で、私の歩幅を取り戻すことだ。
 その思考が、静かに背中を温める。
 「おやすみ」
 誰に向けたでもない声が、部屋の四角に浮かんで、やがて消えた。外の風の音が遠くなり、紙の上に描いた矢印だけが、暗闇の中で淡く光っていた。