休職に入って三日目の朝、鈴木優成は、初めて目覚ましをかけなかった。
 時計の針は十時を少し回っている。窓のカーテンの隙間から、やわらかい光が一枚の紙みたいに床を照らしていた。起き上がると、背骨の間に入り込んでいた砂利のような疲労が、いつもより軽い。眠りが体の奥底にまで沈んで、そこからゆっくり引き上げられた感じがする。
 台所で湯を沸かす。水が小さな泡を作って、やがて沸点に合格するまでの時間を眺める。湯気には性格がない。まっすぐ上って、どこかでほどけ、消える。そこに判断も、顔色も、空気の読みもない。それだけで安心した。
 カップに湯を注ぎ、スプーンで一度かき混ぜる。湯面にできた小さな渦がゆるむのを待って、ダイニングの椅子に腰を下ろした。テーブルの端に、診断書の封筒が置いてある。白い封筒の角が、少しだけ丸くなるほど何度も手に取った。
 封を開けて、活字を確かめる。自閉スペクトラム、ASD。必要な配慮の例。感覚過敏、予定の事前共有、簡潔な指示。短い文なのに、胸の中の空気を入れ替える力がある。紙の上の言葉が、私のために並んでいる。それを繰り返し確認していると、指先のこわばりが、少しずつ溶けていった。
 昼前、母に電話をかける。ワンコール、ツーコール、スリーコールでつながる。
 「あら、優成? どうしたの」
 母の声は昔のままだ。幼いころ、熱を出した夜に額に当てられた氷枕の冷たさを思い出す。
 「病院に行ってきた。診断が出たよ。自閉スペクトラムだって」
 少し間があいた。受話器の向こうで、何かを片づける音がかすかにする。
 「そう……。昔から頑固だったし、そういうの、今は何でも病名つけるんでしょ」
 言葉は刺さらないふりをして刺さる。善意と無知の間の細い糸の上を渡るみたいな音色。
 「……うん。まあ、そうかも」
 怒鳴れない。怒鳴って伝わることは少ないと知っている。呼吸が浅くなりかけたので、口を近づけて、椅子の背にもたれ直す。
 「でも、病院の先生が、配慮があれば働けるって。だから、少し休んで、それで戻るつもり」
 「そう。無理しないでよ。優成は真面目だから」
 真面目、というラベルがやわらかく置かれる。優しいけれど、少し重い。
 「うん。ありがとう」
 電話を切る。受話器を置いた瞬間、胸に小さな穴が開いたみたいに冷たい空気が入る。深呼吸を一つ。肺が広がる音を想像する。弾力のある袋がゆっくり膨らんで、少しずつ戻る。こんなふうに呼吸を描写しないと、たまにうまく息ができない。
 パソコンを開き、会社の人事と上司にメールを打つ。
 件名は「診断についてのご報告とご相談」。本文には事実だけを書く。自閉スペクトラムの診断を受けたこと。感覚過敏や予定外の事象に弱いこと。配慮があれば業務の継続が可能であること。
 「配慮をいただければ、復帰を検討したいと思います」
 文末に置いた一文に、少し迷いが残る。お願いと宣言の中間みたいな文。送信する指は震えなかった。
 返信は驚くほど早かった。
 「了解しました。無理のない形を一緒に考えましょう。障がい者雇用枠もありますので、そちらも検討しましょう」
 画面の文字は、やさしい。やさしいのに、胸の奥から別の息苦しさが湧く。枠、という言葉が持つ囲いと守り。
 努力不足ではなかった、という救い。枠で測られる、という不自由。両方が同じテーブルの上に置かれる。どちらの皿から先に手を伸ばすべきか、まだ決められない。
 画面を閉じる。椅子の背にもたれ、天井を見上げた。石膏の継ぎ目が白い川みたいに一本走っている。そこに名前をつけるとしたら、何と呼ぶべきだろう。救いの川、あるいは線引きの川。
 午後、就労支援センターの初回面談が入っている。最寄り駅から少し歩いたビルの二階。ガラス張りの入口の前で一度深呼吸をして、中へ。
 受付の女性が笑顔で迎える。笑顔は練習で作られたものかもしれないが、そこにとがりはない。
 「鈴木さま、どうぞ」
 面談室は、木のテーブルと二脚の椅子。窓の外に細い桜の枝が見えた。担当者の男性は、年上か年下か判断がつかない落ち着いた雰囲気で、名乗ってから「よろしくお願いします」と頭を下げた。
 「まずは、最近のことを」
 促されて、私は言葉を準備する。準備しすぎないように準備する。
 「仕事で、音と予定外に弱いです。雑談のタイミングを間違えて、場が冷えることが多い。電話は三コールで取りたい。突然の会話開始が苦手です」
 担当者は頷く。頷く速度が私の呼吸と合う。
 「ここでは、沈黙しても大丈夫です。考えてからで」
 その一言に、肩の筋肉から順に重さが抜けていく。沈黙が許されると知るだけで、言葉が自然に出てくる不思議。
 「さっき、母に診断のことを話したら、『今は何でも病名つける』って言われて。怒れない自分にも、少し疲れました」
 「怒らない選択は、賢さでもありますよ。怒るのは自由ですが、体力が要る」
 その返しは、どちらにも寄りかからないで立っている。私の中の揺れが少し小さくなる。
 「復帰は、急がないほうがいいでしょう。まずは日常の速度を取り戻す。鈴木さんが『ふつう』と感じる速度です」
 「ふつう、ですか」
 「ええ。人それぞれの『ふつう』があります。社会の平均ではなく、鈴木さんの繰り返せるペースのことです」
 自分のふつうを定義していい、と言われたことがない。驚いて、笑ってしまう。声に出さない笑いが、喉の奥で暖かくほどけた。
 沈黙が落ちる。担当者は、黙って待っている。時計の音はしない。外の車の音が遠い。
 「……沈黙が、怖くないですね」
 「練習で、慣れます」
 その言葉の前に、私はうなずいた。ここでは、うなずく速度を誰にも合わせなくていい。
 面談は一時間。終盤で、担当者が掲示板を指さした。「来週、交流会があります。興味があれば」
 色あせた画鋲に留められたポスターに、いろんな人の丸い文字で感想が書いてある。初めてでも大丈夫でした、沈黙があっても怒られなかった、話さなくても居られた。
 「……参加します」
言い切っていた。言い切るのは怖いのに、わずかに気持ちが軽い。担当者が笑顔を見せる。
 「では、登録しておきます。詳細はメールで」
 名札を書いて渡された。自分の名前の曲線が、さっきより少し好きに見えた。
 センターを出ると、夕暮れの気配が街を包み始めていた。公園に寄り、ベンチに腰を下ろす。少し冷たい木の感触が背中へ伝わる。
 手帳を開く。ボールペンの先で、新しいページに見出しを書く。
 「#ふつうをやめる計画」
 項目は短く、四つ。
 ①雑談しない日を作る。
 ②目を見過ぎない。二秒で十分。
 ③沈黙を怖がらない。
 ④自分の速度に罪悪感をつけない。
 書いてみると、胸の圧が一枚剥がれる。紙の上の四行が、呼吸の通り道になる。
 ベンチの向こうで、子どもがボールを転がす。ボールは不規則に跳ねるのに、危険はない。母親の声が時々飛ぶ。「ゆっくりでいいよ」。うらやましくて、少し笑う。うらやましい気持ちを認めることも、もう罪ではない。
 帰り道、スーパーで簡単な食材を買う。レジで待っているあいだ、スピーカーから流れる穏やかな音楽が、今日に限って気にならなかった。カゴを持つ手に力を入れすぎないように意識する。意識すると、ちゃんと力が抜けた。
 部屋に戻ると、診断書の封筒をもう一度テーブルに置く。今度は封筒を開けずに、手のひらをその上に乗せる。紙の温度が手の温度に少しずつ近づいていく。言葉は私を守る。同時に、他人の目にも晒す。
 見せるか、見せないか。選ぶ権利は自分にある。
 それをもう一回、声にせず確認する。確認しただけで、部屋の空気がわずかに変わった気がする。
 夜。スマホをオフにする。通知の震えがないだけで、落ちていた何かが少し浮く。窓の外の街灯が点る。オレンジ色の輪が、アスファルトの上にいくつも重なって、薄い影を作っている。
 ソファに座り、今日の自分をすこしだけ褒める。診断の言葉を受け取った。母に電話した。会社に報告した。センターで沈黙を練習した。交流会に参加登録した。
 どれも小さなことではない。どれも、昨日の自分には難しかったかもしれない。
 湯を沸かし、マグに注ぐ。湯気は性格がない。まっすぐ上って、ほどける。今日二度目の安堵が、胸の真ん中に静かに座った。
 ベッドに横たわる。天井の継ぎ目が、昼間より柔らかく見える。目を閉じる前に、明日の自分へ短い指示を心の中に書く。
 「#自然を装わない」
 自然体、という言い方に、長い間すがってきた。自然体は特別な才能だとどこかで思っていた。けれど、装わないことも訓練が要る。装いを脱ぐにも手順がある。
 笑顔の掟が心のどこかで出番を待っているのを感じる。笑顔を使うか使わないか、明日は自分で選ぶ。選ぶための言葉を、今日用意した。
 「雑談しない日を作る」
 「目を見過ぎない」
 「沈黙を怖がらない」
 「速度に罪悪感をつけない」
 指示は四つ。四つなら覚えられる。四つを繰り返せば、四角い枠の形が少し変わる。枠に押し込まれるだけじゃなく、自分の枠を自分で作る。
 それが、今の私の救いだ。診断という名前は、私を固定するためだけのものじゃない。揺れてもいい範囲を示すための、地図の凡例だ。
 目を閉じる。呼吸は、浅くてもいい。浅いなら浅いなりの数え方がある。四秒吸って、七秒吐く。
 静かな秒針のない夜。遠くで、電車が橋を渡る音がする。
 世界はやっぱりうるさい。でも、今日は少し優しい。
 眠りに落ちる直前、胸の内側で、言葉がひとつ形を持った。
 大丈夫。
 声にしない。しなくても、意味は届く。
 灯りを消した部屋の薄闇に、あたらしい明日の輪郭が、ほんの少しだけ見えた気がした。
 休職五日目。朝、目覚ましのない部屋で、自然に目が覚める。窓にかかった白いカーテンの折り目が、海の波のように見えた。
 朝食を取り、洗濯機を回す。洗濯物の中に、仕事用のシャツが混じっている。袖口の糸がほつれているのを見つけ、針と糸を準備する。小さな破れは、放っておくと大きくなる。仮面のひびも、糸で縫える日があるのだろうか、とどうでもいいことを思う。
 洗濯機が止まる前に、メモ帳を開く。
 「会社への希望」
 ・席は通路から一つ内側。
 ・電話は三コール目で取る。
 ・朝礼後の雑談は参加しない日を作る。
・突発の対応は、可能なら事前にチャットで一報を。
 ファイル名をつけて保存する。名前をつけることが、少し怖くなくなっていた。名前は縛るが、探すときの目印にもなる。
 昼過ぎ、センターからメールが届く。交流会の詳細。持ち物、開始時間、場所の地図。メールの末尾に、担当者の一文があった。「話さなくても構いません。来て、座って、帰るだけでも十分です」。
 十分、という言葉に、肩の力が抜けた。十分という基準を、自分で決めていいとする文化に、私はまだ馴れていない。馴れないまま、うれしい。
 返事を書き、送信する。手の中のスマホは温かい。温かいものを持っていると、人間は少し賢くなった気がする。
 夕方、公園へまた行ってみる。ベンチに座る習慣を、休職が終わってからも続けられるだろうか。続けられないかもしれない。続けられたら、いい。
 ベンチの前を、ランナーが何人か通り過ぎる。速度はそれぞれ違うのに、誰も誰かのペースを責めない。誰も誰かの呼吸の音に点数をつけない。
 私は手帳を開いて、昨日の四つの項目の横に丸をつける。
 ①雑談しない日を作る 達成。
 ②目を見過ぎない 二秒で止めた。
 ③沈黙を怖がらない 面談で実施。
 ④自分の速度に罪悪感をつけない 今日は、まあまあ。
 全部に満点はつけない。つけないでおく余白が、明日の余力になる。
 帰宅して、簡単なパスタを茹でる。茹で時間は袋に書かれた八分より一分短くする。硬さが残るくらいが丁度いい。ソースは瓶を温めてかける。テーブルに置いた診断書の封筒は、もう怖くない。視界の端に置いておける。視界の端に置いておけるものは、味方になる。
 食後、片づけをしていると、母からメッセージが入る。
 「この前のこと、変なこと言ってごめんね。よく分からなくて。今度、教えて」
 胸に小さな痛みが走る。痛みは痛みだが、やわらかい。
 「大丈夫。いつでも話すよ」
 送信する。私のほうが、母に「大丈夫」と言える日が来るとは思わなかった。どちらが上とか下とかではなく、ただ、順番が少し入れ替わるだけだ。
 夜になる。窓の外で風が強くなってきた。カーテンがわずかに膨らんで、またしぼむ。部屋の灯りを一段落として、床に座る。
 診断という名前は、救いだ。間違いなく。
 けれどそれは万能の鍵でも、万能の免罪符でもない。
 鍵は、自分で回す。回す前に、どの鍵穴に合うのか見極める。合わない鍵穴に力ずくで差し込んだら、鍵が折れる。折れた鍵は、取り出すのが難しい。
 だから今日は、鍵を机の上に置いておく。見えるところに。忘れないところに。
 スマホをオフにする。
 ベッドに入る。
 天井の白さは、昨日より高い。
 明日、交流会に行く。
 誰かに合わせる話し方を、やめていく。
 ゆっくりでいい。いや、ゆっくりでしか、できない。
 その言い直しが、今の自分には一番正確だ。
 目を閉じる前、心の中で短い指示をもう一度。
 「自然を装わない」
 言葉は小さい。
 けれど、今日の私にはちょうどいい。
 暗がりの中で、胸の火が、昨日よりも安定した明るさで燃えている。
 それが、眠りにつくための合図になった。
 合図に従って、私は目を閉じる。
 浅い眠りでも、十分だ。
 十分という言葉を、今日の最後にもう一度心の中で転がしながら、私は静かに、世界からいったん目をそらした。